希求
希求
「ただいま」
僕が彼女に「おかえり」と言おうとした途端、視界はぼんやりと揺れた。諦めていたはずのどこか懐かしい心象風景が、今は目の前にある。
「どうしたの。そんなに暗い顔をして?」
はにかんだまま彼女はそう言う。
心配するような事はないんだよと、思わせるわけでもなく純粋に伝えようと何か温かい言葉を探す。
しかし、それは初めから用意されていないかのように、いつまで経っても見つからない。
それでも、わかっていた。
これは"夢"だ。
消えてしまったはずの僕の過去を、無理やりひねくり回した、無意味で、滑稽で、途方もない夢。
「知っていたの? 初めから」
僕は煙草のショートピースを取り出し、年季の入ったジッポライターでそれに火を灯した。
「ううん、初めからじゃない」
やっと声の出た僕の顔を、彼女は用心深く眺めている。彼女は怪訝そうな表情をしている。
ショートピースを口に咥えると、幻のようにそれは儚く散って消えてしまった。
「ほら夢だ」
「そんなことはわかってるの」
彼女は僕がお茶を濁すように言ったその言葉を、軽くあしらった。
わかっている。向き合わなければならない。
「私ね、あなたに用意したの。この夢を」
彼女は依然としてクロード・モネの描く印象派の絵画に出てきそうな、淡い、今にも消えてしまいそうな姿をしている。
さらに動きが、まるでパラパラ漫画のように一瞬一瞬が切り取られているようにも見えた。
「可哀想な子。ずっと、幼少期の呪いに取り憑かれているのね」
「母さん、そんなんじゃない」
そう、彼女は僕の母親だ。偽者の母親ではなく、本当の……いや、僕にとって、本当であると信じていた頃の母親である。
「もう、克服したつもりなんだ。誰だって懐古することくらいあるだろう」
「でも、あなたはあの頃に"戻りたい"と本気で思ってしまった」
ポケットにはもう、ショートピースのパッケージすらないことくらい薄々気づいていた。
でも、探さずにはいられなかった。
「逃げないで」
母親に僕は腕を掴まれ、止められる。それはいつだって、手元には何もなくてもすぐに自分を満たせる"何か"を探す、僕の本能らしきものを止めるかのように。
「あなたはそうやって、いつも泣いていた。大袈裟に」
「小さい頃の話でしょう。今は違う」
「そう? お母さんには何も変わらないように見えるんだけど」
それは、母親だから理解出来ることなのか? わからない。
「今日はどうしたの、仕事から帰ってくるの早いんだね」
腕時計の針は二十二時を指している。一般的な母子家庭であるなら、仕事の帰りはこのくらいの時間であっても不思議ではない。
しかし、僕の母親は"昔"違った。
僕が五歳の夏、突然、ある日を境に母親は二度と帰って来なくなってしまった。僕を置き去りにしたまま。
「ごめんね? 心配かけて。私だって、精一杯だったの」
それくらい、わかっている。
「毎日汗水垂らして、時には汚い仕事だってやったわ。けどね、欲望には勝てなかった」
「わかってる、わかってるから……もう言わないでよ」
そんなこと、母さんには言って欲しくなかった。いつだって僕にとっては、自慢の母親でいて欲しかったのに。
「ちゃんと帰ってきたよ。だいたい、いつもの時間に」
「母さん……ううん、遅すぎるよ」
僕は待っていた。あの頃、大人達に保護されるまで。ずっと、良い子にして待っていたんだよ。
「ねぇ、覚えてる?」
なんだ、話を逸らそうしているのは母さんだって同じじゃないか。やはり、母さんと僕は何処か似ている節があるのかもしれないな、なんて思うと、笑えてくる。
「あなたが幼稚園の頃、気球の絵を描いていたことを」
「覚えてるよ。二人で気球に乗ってる、クレヨンで描いた絵」
「その気球が今、外にあるんだけど、乗っていかない?」
母親は僕の腕を引っ張ると、僕を連れたまま玄関を飛び出した。
その瞬間、辺り一面がフラッシュを焚かれたように眩しさで一杯になった。
すると目の前には青空が広がり、丁度二人で乗れそうなバスケット付きのカラフルな熱気球が、アスファルトに現れた。
「これに乗って、遠くへ行きましょう」
僕らが気球の内部に入ると、何の前置きもなくそれは宙に浮かび上がった。
全く、夢というのは便利である。
「私ね、"自殺"したの」
「うん。そんな気はしてた」
「そっか……償うつもりでね」
母親の声には、いつになく優しさが伴っているように思えた。逆撫でをするわけではなく、労わるように。
「今も詳しいことを言うつもりはないけど、あなたには顔を合わせられないくらい醜い姿をしていたから」
「それは、外面的な意味かな。それとも……」
「どちらとも、かな」
下を向いて笑っていた。
「けどね、確かなことは」
母親の髪が、風で揺れる。それは透き通っていて、まるで繊細な何かを暗示しているようだった。
「あなたに顔を合わしている内は、母親らしく振る舞えたということ」
「僕がそうは思わないって言っても?」
「もちろん」
気球が青空の中で静かに揺れている。エンジン音も、既に意識の範疇にはなくなっていた。これも"夢"だからだろうか。
「じゃないと、私が母親であることに何の救いもなくなってしまう。納得出来ないじゃない」
「うん、そうだけどさ……」
街を離れ、下には海が見え始めた。
「わかってる。それでも、完璧じゃないことくらい」
母親の声は震えていた。顔も少し引き攣らせて。
「私がどうあったとしても、あなたの考えを変えることは、完全には出来ない。そんなの、当たり前じゃない」
「いや、そうじゃなくて」
まるで自暴自棄になっているようなその姿に、僕は心底驚いた。
そして、僕が抱いていた母親のイメージが、少しずつ形を変え始める。
「今こうやって顔を合わせている間も、母さんには母さんらしくいて欲しかったって、そういうことを言いたくて……」
「……母さんらしくって、ねぇ、どういうこと?」
その時の母親は、母親と言うよりも寧ろ一人の女性として僕に訴えかけてくるようだった。
「わからない……またあの時と同じような顔をして、あなたと話せば良かったの? 私はこうやって、自然体で話そうとしてるのに。最後くらい、私も……貴方の前では……」
「うん……もう、いいよ」
いいんだよ、わかっている。
あなたも、一人の人間であったことくらい。
涙で濡らす母親の頬に、僕は静かに触れた。そして、きつく抱き締めた。
「もし、来世があるんだとしたらさ」
気がつけば、僕らの体は現れては消えることをゆっくりと繰り返していて、何となくそれは僕らが次の"生まれ変わり"になるまで、あと少しであることを予感させた。
「母さんの、お父さんになってみたいかも」
「なにそれ」
母親は笑っていた。いつも以上に、無邪気な笑顔で。
「私に悪戯したら、許さないからね」
「するわけないじゃん」
そんな下らない話を筆頭に、他愛もない話を、僕らは姿が消えるまで話し続けるのであった。