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あんまんサイクリング

作者: 綱太郎

 そんな突拍子もないことを思いついたのは、高校生活最初の夏休みのことだった。

 

 「今日はちょっと、サイクリングしてきてみるね」

 

 部活動にも入らず、毎日連絡を取り合って遊ぶような友達もいなかった私の長期休暇は例えるなら、ふにゃふにゃにふやけて膨張した『暇』という文字だった。

 

 とにかく暇だったのだ。趣味もない、カレシもいないぴちぴちの女子高生が体験するのは空虚な時間の極み。すがすがしいくらいに希薄な時空。あんこの入っていないあんまん顔負けの出来だ。

 

 どうしてそんなにやることがなかったのかと言えば、その原因は私自身にもある。

 

 私がこの春に晴れて高校生に進化する舞台となったのは、東京湾に面する有明にある、とある共学の私立高。対して生活の拠点となる愛しき我が家は、高校と新宿を通る直線AB上の、ちょうど新宿を中点として高校と対称となるあたりに位置する、練馬区の虹ヶ丘という場所だ。


 ひとことで言うなら田舎。東京のきゃぴきゃぴJKたちが好んで訪れる場所ランキングでは間違いなくワースト10には入る由緒ある土地だ。

 

 そんな場所で育った私だから、暇だと言いながらも、あえて同級生たちと渋谷や原宿に行って最先端の流行の大波に乗ろうという気も起きなかったのだ。


 東京の若者はみんなおしゃれ好き。でも、地面を覆いつくす蟻の大群のように多くの人が集まる場所でわいわいきゃっきゃとするのは、田舎育ちの私にはかなりハードルの高いことだった。

 

 最新機種のJKらしい生活を送りたいという気持ちもあった。でも、古びたガラケーの私が最新型までアップデートされるのには少々通信速度だか充電が足りなかったみたい。何しろ、下手すれば何十個も前のバージョンだったのだから、アップデートしようにもかなり時間がかかる。(使ってたのは一応スマホです。)

 

 同年代のきらきらした女子たちと比べれば、私はただの地味でダサい田舎娘。でも、私は私。無理に表面だけ光らせたいとは思わなかった。それこそ、あんこの入っていないあんまんみたいじゃない。

 

 でも、いくつ理屈を並べたところで、暇なことは変わらない。中学までの友達はみんなそれぞれの高校生活をエンジョイしてるし、自分だけ取り残されたような気分だった。

 

 ずっと楽しみにしてた高校生活。初めての夏休みが灰色の時間に終わってしまうなんて、我慢できない。

 

 その計画を思いついたのは、本当にいきなりだった。

 

 2学期が始まるのは9月から。7月中旬には休みに入り、気が付いたらもう休みは2週間しか残っていなかった。

 

 これまでの失われた時間を一気に取り戻す方法はないかと私は考えた。時は戦国、1万5千の武田軍をひとりで蹴散らす勢いで考えた。


 『時間』という、私たちの次元に生きる存在では理解することすらままならない謎を解明する方法を。中身のないあんまんにはち切れんばかりにあんこを詰める方法を。

 

 そうして思いついたのだった。

 

 そうだ、何か、誰もしないようなことに挑戦しよう。どうせ田舎娘の私なんだから、田舎娘は田舎娘なりに、都心娘がしないことをやってみよう。

 

 今年から社会人のカズ兄は今でこそ車オタクだけど、免許を取るまでは本格的なスポーツ自転車に乗っていた。

 

 その影響か私も、車は怖いけど自転車には少し興味があった。手軽な自転車に乗っていろいろな場所に行けるなんて、素敵じゃない。

 

 でも、私はママチャリしか持っていなかったし、そもそも自転車で遠くまで行けるような体力がある自信もなかった。だから、実際に本気でサイクリングをしたことはなかった。

 

 でも、もうそんなことは言っていられない。今こそ、新しいことに挑戦する時なんだと本能が告げていた。

 

 

 「ハルがサイクリングなんて珍しいな。どこ行くつもり?」

 

 本当は春の香りと書いて春香っていう名前だけど、カズ兄はいつも可愛らしくハルと呼んでくれる。割と硬派な人だからちょっとおかしい気もするけど、嬉しかったりもする。

 

 「学校の方に行ってみようと思って。ほら、荒川沿いの道がすごく綺麗だって、カズ兄言ってたでしょ? 地図で見たら、川沿いにずっと行けば学校の方まで行けそうだったから、それで行こうと思ってるんだけど」

 

 私と一緒で見た目にあまりこだわらないカズ兄はあからさまに口をぽかんと開いた。

 

 「ハルの高校って確か、有明の方だったよな? こっから30キロはあるけど、本気で言ってる?」

 

 「うん。本気」

 

 30キロというのがどのくらいのものなのか、この時の私は全然わかっていなかった。ただ、カズ兄はよく荒川を河口まで往復してきたって話していたから、少なくとも河口まではそんなに遠いイメージはなかった。


 有明は地図で見れば、荒川の河口からすぐ近い。私の体力じゃかなりきついだろうことは予想していたけど、がんばればきっと行けないことはないだろうと、既に胸が躍ってしまっていた私は至極楽観的に考えていた。

 

 「そっか。きついだろうけど、がんばれよ」

 

 カズ兄は何やら意味ありげににっと笑った。

 

 早速自分の部屋で運動服に着替えて準備をしていると、カズ兄から話を聞きつけたお父さんとお母さんがやってきた。

 

 「春香、聞いたぞ。自転車で高校まで行くんだって? サイクリングに行くのは構わないけど、いきなり高校までっていうのはちょっときつんじゃないか? 和樹と自分を同じに考えちゃだめだぞ。お前はあいつほど体力があるわけじゃないんだから」

 

 お父さんはいつも私のことに関しては心配性になる。ひとり娘だからって気にかけてくれるのは嬉しいけど、ちょっぴり余計なときもある。

 

 「まあでも、この子は何て言ったって、和樹の妹ですからね。いつかはこんなことを言い出すんじゃないかって思ってたわ」

 

 お母さんはお父さんほど私のやることに口出ししない。お父さんが私のことをすごく心配していてくれてるのはわかるけど、当人の私にとってはお母さんの方がありがたい。

 

 「お父さん。お母さんの言う通り、私はカズ兄の妹なんだから。そんなに心配してくれなくても大丈夫だよ」

 

 それでもお父さんは不満そうだった。大切な娘にひとりで自転車で遠くまでいかれるのは不安でたまらなかったみたい。

 

 でも結局、カズ兄の後押しもあって、無理はしないこと、何かあったらすぐ連絡すること、最悪の場合、カズ兄が車で迎えに来るという条件付きで承諾してもらった。

 

 せっかくの夏休みなんだから。普段できないことをしなくちゃ。

 

 こうなったら私の行動は早い。てきぱきと支度をして、いざゆかんと家を出ようとしたところで、カズ兄に呼び止められた。

 

 「ハル、どの自転車で行こうとしてる?」

 

 「私の自転車」

 

 「お前の自転車ってあのママチャリだろ。あんなのじゃなくて、俺の貸してやるから、そっちで行けよ」

 

 カズ兄は自転車を2台持っていて、どっちも自分の部屋の中に保管してる。1台はロードバイクで、もう1台はクロスバイクだ。

 

 ロードバイクの方はくねくねしたハンドルが付いてて、タイヤが指でつまめるほど細い。全体的に太くて薄くて、すらっとしてる。無駄なものが付いていない感じ。フルカーボンだとかエアロだとか、カズ兄はよく話していた。コンポは何とかでホイールは普段用にアルミセミディープの何とかゼロ、決戦用にどこどこのカーボンディープ。自転車に詳しくない私にはちんぷんかんぷん。

 

 カズ兄は中学生の頃から同じ様なロードバイクに乗っていたけど、私は小さい頃から何となく怖くて、触れたことがなかった。

 

 もうひとつのクロスバイクはもうちょっと優しい見た目だ。ママチャリにも見た目は近くて、ハンドルはまっすぐしていて扱いやすい。タイヤもロードバイクほど細くはない。


 こっちはカズ兄がつい最近街乗り用にって買ったもので、私も乗らせてもらったことがある。見た目は真っ黒でいろいろパーツがついてて、サドルはちょっと高め。慣れないと怖いけど、漕ぎ出せば自分のママチャリよりすごく軽くてびっくりしたのを覚えてる。

 

 カズ兄が持ってきたのはもちろんこっちのクロスバイクだ。貸してもらえるのは嬉しいけど、私は私で、自分の自転車も気に入っているから、あんなのと馬鹿にされるのはちょっと嫌だった。

 

 でも、これに関してはいつものことだから特に気には留めなかった。乗り物好きの人の感覚はよくわからない。カズ兄は車にもすごいこだわりがあるみたいで、私には車なんて全部一緒にしか見えないのに、あの車はどこどこがだめで、この車はどこどこがいいとかってうるさいんだから!

 

 とは言っても、カズ兄はひねくれているところもあるけど、基本的にとても優しい人だ。この時もクロスバイクをマンションの下まで下ろしてくれて、私のためにいろいろと調整をしてくれた。

 

自転車のことは専門家に任せるに限る。カズ兄の手で私仕様になった自転車に乗って、私はついに人生初の冒険に出発したのだ。


 ◆


 日曜日の朝10時。天気は晴れ。予想最高気温は32度。湿度80パーセント。

 

 普段なら外に出ることさえ疎んでしまうほどの蒸し暑さだ。でも今日に限っては、クーラーの冷風で鈍り切った体に喝を入れられ、生気がみなぎってくるようで心地よかった。

 

 こんな天気の日に自転車でどこかへ出かけて、真っ黒になって帰ってくるカズ兄を何度も見たことがある。

 

 おしゃれに興味がない田舎娘とは言っても、私だって女子の心は持っている。日焼けはしたくない。日焼け止めクリームをしっかり塗ってきたし、帽子も被った。対策はばっちりだ。

 

 まずは荒川へ出ることが第一目標。団地のすぐそばを走る環状八号線、通称環八沿いに北へ進めば比較的楽に出れそうだったから、下手に裏道を使って迷わないためにもそうすることにした。

 

 団地を貫く大通りを自転車で走るひとりの女子高生。私はこれから、遥かなる大地へ冒険に出かけるのである。

 

 カズ兄の自転車にはカゴがついていないから、ピンク色の小さなリュックサックを背負ってきた。中学の頃からのお気に入りだ。

 

 中に入れてきたのはスポーツドリンクの入った水筒、携帯、財布、お昼御飯用のおにぎりに自転車の鍵。あまり重いのも嫌だから、最低限の荷物だ。

 

 格好は紺色の短パンに半袖の白いTシャツ、ピンクのスニーカー。カズ兄お古の黒いキャップを被って、ミディアムの茶髪(地毛)は後ろで束ねた。

 

 おしゃれなJKには程遠いけど、私はこういう動きやすくてシンプルな格好が好きなのだ。

 

 環八には難なく出られた。何しろこの自転車だ。ママチャリと違って、軽く力を入れただけですいすい進む。楽なものだ。

 

 北方面に舵を取り、歩道を走った。この通りは広くてとにかく車が多い。カズ兄なら普通にやるのかもしれないけど、自転車でこの車道を走るなんて恐ろしいことは私にはできない。

 

 そんなに急ぐことはない。時間はたっぷりあるんだから。

 

 この自転車にはカズ兄が取り付けたスピードメーターがある。ハンドルの中心の前に突き出るようにして取り付けられていて、顔をちょっと下に向ければ見ることができる。

 

 画面には20km/hと表示されていた。1時間に20キロ進むというのが速いのか遅いのか私にはよくわからなかったけど、体感速度はママチャリよりも速かった。

 

 体で風を切っているような感覚だ。ママチャリは重いから、同じスピードでもきっとこの感覚は味わえないだろう。でも、この自転車なら軽くペダルを踏んでいるだけでこの速さ。クロスバイクさまさま、カズ兄さまさまだ。

 

 大きな谷に差し掛かる。けっこう急な下りで、足を止めていてもスピードは30キロまで上がった。怖かったからブレーキする。ママチャリと違ってブレーキが扱いやすい。何て言うか、制動力を簡単にコントロールできるような感じだ。軽くスピードを緩めるのも、しっかりレバーを握って強めのブレーキをするのも自由自在。下り坂でも安心感がある。

 

 下り切ると一回信号で止まって、今度は登り坂だ。快適な下りを楽しんだ分、きつい登りで苦しまないといけない。

 

 ギアを一番軽くして、乗用車やトラックがびゅんびゅんと吹っ飛んでいく脇で狭い歩道をちまちまと登った。

 

 クロスバイクのすごいところは、ギアがたくさんついているところだ。カズ兄受け売りの言葉を使うと、フロントディレーラーが3段、リヤディレーラーが7段、計21段の変速が可能なのだ。

 

 詳しくはわからないけど、とりあえず私は教えてもらった通り、普段はハンドルの左手側にある変速レバーでフロントを2段目にし、右手側にあるリヤの変速レバーでギアの重さを微調整しながら走っている。これがけっこう優れもので、つまり、軽いギアから重いギアを7段階で設定できるのだ。


 重いギアはペダルをちょっと回すだけでたくさん進み、逆に軽いギアはくるくる回してもちょっとしか進まない。もちろん重いギアの方が疲れる。ちょっと踏ん張ってでも早く走りたいときはギアを重くして、ゆっくり走りたいときは軽くすればいいというわけだ。

 

 更にすごいのはここから。フロントを2段目にしたままリヤの調整だけで大抵の道は走れるけど、こういう急な上り坂のときには、フロントを1段目に落とす。すると、あら不思議。びっくりするくらいペダルが軽くなるの!


 その代わり、モーターみたいにペダルを回しても自転車はほんのちょっとしか進まない。だから、上り坂専用だけど、これはあるとすごく助かる。

 

 フロントを3段目にすると、ペダルはかなり重くなる。その代わりスピードは速くなるけど、力が足りなくて踏み切れないから私はあまり使わない。カズ兄とかなら、いつも3段目で走ってるのかも。

 

 坂を登り切ると、景色が少し寂れてきた。工業地帯のようだ。交差点で辺りを見渡してみると、工場のような建物があちこちにあった。走っている車も大きなトラックやトレーラーが多い。あまり見ていて楽しくはなかった。

 

 工業地帯を抜けると、緩やかな起伏が続く道になった。道はまっすぐ続いていて、先の方まで見渡せる。周りには古い民家が多かった。車通りも少なくなってきて、景色が広い。歩道は広くなり、他に人もいなかったから少し飛ばしてみた。25キロ。さっきの登り坂で一気に汗だくになった体が冷やされて気持ちいい。

 

 途中にコンビニがあったからトイレ休憩を兼ねて寄ることにした。駐車場がかなり広く、いかにも郊外のコンビニという感じだ。

 

 カズ兄の自転車の難点は、スタンドがついていないこと。いちいち壁とかに立てかけないといけなくて面倒だからつけた方がいいのにと思うのに、カズ兄にとっては邪魔なものでしかないらしい。

 

 この時はちょうど柵があったから、そこに立てかけて鍵をつけた。


 トイレを済ませた後、何も買わずに出るのは悪いので、箱入りのチョコを買った。ちょっと休憩する際に一口甘いものがあったらいいかもと考えたのだ。

 

 イートインスペースがあったからそこでちょっと一息つく。クーラーの利いた店内が天国のようだった。買ったチョコをひとつ食べ、携帯で家族チャットに報告を入れる。

 

 『今コンビニで休憩中~。順調だよ(*^^*)』

 

 5分ほどゆっくりしていると、早くもお父さんから返信が来た。


 『気を付けて。何かあったらすぐに連絡すること』


 実に簡潔なメッセージだけど、お父さんが気が気じゃない様子でいるのが想像できる。思わず笑みを零してしまったところで、そろそろ出発することにした。


 店の扉を潜った瞬間、もわっとした熱気に包まれた。踵を返して店内に戻りたい衝動に駆られたけど我慢して、旅路に戻る。

 

 そこからしばらくは平和だった。のどかな風景の中をゆるやかにカーブして、坂を下ると再び街中に出た。

 

 道が広くなり、車の数も増える。もう川はすぐそばのはずだった。道は今東に向いているから、左に曲がって進めばその内川に突き当たるはずだ。

 

 当初の計画では、環八をもう少し進んで、高速道路と立体交差する交差点を曲がろうと思っていた。そうすれば地図上ではスムーズに川に出ることができる。

 

 でも、ちょっと疲れてきたこともあって、車の多い大通りから外れたくなった。この暑い中、排気ガスと騒音にまみれた道路を自転車で走るのはかなり疲労がたまる。

 

 てきとうなところで路地に入り、止まって少し休憩を取った。持ってきたスポーツドリンクがおいしい。少しずつ飲んでいたつもりだったけど、いつの間にかもうほとんどなくなっていた。

 

 この暑さの中、水分補給ができないのは命取りだ。すぐそばにあった自動販売機で同じスポーツドリンクのペットボトルを2本買っておいた。念には念も入れておかないと、あとで困るかもしれない。

 

 止まったら急に疲れが襲ってきた。気温が上がってきたせいかもしれない。もう服は汗でびしょびしょだ。吸汗速乾のシャツとズボンなのに、湿度が高いせいで全然乾かない。汗に濡れた服が体に当たったり当たらなかったりする感触が気持ち悪い。息も苦しくなってきた。

 

 よくよく考えてみれば、ここまででもけっこうな距離だ。外出と言えば家のすぐ近くの公園に散歩に行くことくらいしかなかった私が自転車に乗っていきなりこんなところまで来るなんて、普通に考えればめちゃくちゃだ。人に知られたら、気が触れたのかとでも思われるだろう。

 

 急に不安になってきた。目的地までの道のりがガムのように何十倍にも伸びていくような気がした。私は本当に、学校にたどり着けるのだろうか?

 

 ちょっと、もう帰りたいとも思った。

 

 「はーあ」

 

 思い切りため息をついて、頬を両手で2回叩く。

 

 一度やろうと決めたことなんだから、そんな簡単に諦めるわけにはいかない。

 

 とりあえずアプリで地図を確認しようと携帯を見てみると、カズ兄からメッセージが届いていた。

 

 『そろそろ疲れてる頃だと思うけど、すぐには諦めるなよ~』

 

 思わず声に出して笑ってしまった。まさに時期を得た激励だ。

 

 カズ兄のさりげない優しさにほっとして、少し気持ちが楽になった。こんな形で励ましてくれるのはいかにもカズ兄らしい。それにしても、全然別の場所にいるのに気持ちを見透かされていたのは驚きだ。この自転車に何か仕掛けでもあるのだろうか?

 

 何にしても、ここで諦めるわけにはいかない。学校まで行くと言っておきながら、荒川にすらたどり着けずに諦めたなんて言ったら、カズ兄にもお父さんにもお母さんにも、みんなから馬鹿にされるに決まっている。


 第一、私自身が自分に失望するだろう。せっかくつまらない夏休みを挽回するチャンスだったのに、ちょっと疲れたからなんて理由で断念したら、後々大いに後悔しそうだ。

 

 とにかく、荒川まではたどり着こう。後のことは、それから考えよう。

 

 「よし! 行くぞお」

 

 前向きに考えたら、やる気が出てきた。サドルに跨って、また走り出す。足が少し軽くなった。

 

 ◆

 

 そこからがまた難関だった。


 頭に入れた地図に従って、川に向かって走っていた――走っているつもりだった。


 カズ兄の話では、荒川沿いにはサイクリングロードが河口までずっと続いている。だから、川にさえ着いてしまえば、気がずっと楽になるだろうと思った。


 川にさえ着けば。川にさえ着けば。


 その一心でペダルを漕いでいたのに、一向に川に着かなかった。


 「あれえ。おかしいなあ……」


 方向は合っているはずだった。一直線に続く道がなかったからくねくねと曲がってきたけど、そろそろ着いてもいい頃だと思うのに、川っぽい景色が見えてすら来ない。


 今いるのは閑静な住宅街の中だ。環八はあっちだから、私は今あっちの方から来て、川はこっちの方……あれ、環八がこっちかな? 川があっち? こっちに行けばいいのかな。


 進めど進めど、景色はほとんど変わらない。気持ちに焦りが生じ始めた。


 「あー、もう!」


 だんだんいらいらもしてきた。これでは体力を無駄に消費してしまう。


 いらいらしたときは、とにかく落ち着くことが大事。それは、私がこれまでの人生で学んだことのひとつだった。


 コンビニの前で止まって、とりあえず地図を確認することにする。


 私は今、あの辺りにいるはずなんだけど……。


 「んんん?」


 思わず唸ってしまった。どこだここは。


 川のすぐそばにいると思ったのが、GPSの地図が示した場所は全然違った。


 川からむしろ離れている。それどころか、進みたい方向と真逆に進んでいる。どうやら気が付かない間に、私は自ら後戻りしていたみたい。


 「えええ。どうしよう」


 今いるのは住宅街のど真ん中だ。地図上では細い道が無数に入り組んでいる。この道を突き当りまで行って、どっちに曲がってどこまで行けばいいみたいな、わかりやすいルートは見つかりそうにもない。

 

 絶望感に襲われた。私は方向音痴とまでは行かずとも、地図を読むのが得意とも言えない。この迷路のような街を川まで抜けろなんて言ったって、素人にできるわけがない。変な方向に進んでしまったせいで、距離もまだけっこうありそうだ。

 

 地図を常に確認しながら行けばたどり着けないことはないだろうけど、途方もない作業のように思えた。

 

 カーナビみたいに自動で案内してくれればいいけど、あいにくこの地図アプリにそんな機能はない。

 

 でも、やるしかなかった。異界の地をひとりで攻略する勇者の気分だった。絶え間なく地形が変動する(おそらく錯覚)ダンジョンを私は地図を片手にMPを大量消費しながら進んだ。(使った魔法は『地図を読む』。)

 

 そして、抜け出した。さながら、地下迷路から地上に出て、溢れんばかりの陽光を浴びたような気分だった。

 

 住宅街を抜け、寂れた町工場みたいな建物が並ぶ道を通って狭い交差点を曲がると、本当にこっちでいいのかと疑ってしまうような何もない道だった。

 

 両脇には道を覆うようにして木々が生い茂っている。そのせいで先が見えない。

 

 でも、確かに道は合っていた。緑のトンネルを抜けたとき、嬉しさのあまり思わず悲鳴をあげそうになってしまった。

 

 川だった。確かに川がある。流れは細いけど、れっきとした川だ。荒川だ。

 

 ついにたどり着いた。経験値をたくさんもらって一気に10くらいレベルアップした気分だ。

 

 疲れも忘れて、私は勢いよくペダルを漕いだ。道は川に架かる石橋に続いていて、さらにその先の小山のような土手を登っている。

 

 思ったよりも小さい川の割りに、随分と大きな土手だと思った。高すぎて、向こう側の景色が完全に隠れてしまっている。

 

 何はともあれ、この土手の上がカズ兄の言っていたサイクリングロードなのだろうと思って、私は坂を一気に駆け登った。そして、てっぺんまで登ったところで、開いた口が塞がらなくなった。

 

 ――これは罠だ。あの緑のトンネルを間違って潜ってしまった者を追い返すための罠だ。こんな卑劣な仕掛けが果たしてこの世にいくつ存在するだろうか?

 

 私はそこで目にした光景のあまりの意外さに、しばらく言葉も出ずに見入ってしまった。

 

 つまり、今越えてきたしょんぼりとした荒川はカモフラージュだったのだ。

 

 土手を越えた先には、これまでと同じような街並み見えるのだろうとてっきり思っていた。それはとんでもない勘違いだった。

 

 土手の先が荒川だった。それも、全然しょんぼりとなんてしていない。広大な河川敷に挟まれて、立派な広い川が流れている。

 

 予想外の規模だった。反対側の土手がだだっぴろい景色のずっと奥に、それこそしょんぼりとして見える。川に架かる橋を見ると、この壮大なスケールが一目瞭然だった。大きさだけならお台場のレインボーブリッジにも見劣りしないくらい大きな橋が、前にも後ろにもある。

 

 「わあ……すごい」

 

 初めて見る景色に、思わず感嘆の声を漏らした。すごい開放感。大空に舞い上がっていく鳥たちの気持ちがわかるくらいに広々している。

 

 私も飛びたいと思った。もう少し理性の働きが鈍かったら、本当に飛んで行ってしまったかもしれない。

 

 とりあえず、ご飯休憩にすることにした。気が付けばもう12時半だ。出発してから2時間半も経っている。

 

 そばにあった柵に自転車を立てかけて、自分も柵に腰かけて、持ってきたおにぎりを頬張る。

 

 おにぎりもこの開放感に甘えて旨みを存分に出しているようだった。今まで自分で握ったおにぎりの中で一番おいしかった。

 

 持ってきたのは明太子味、おかか味、梅味の3個だ。お腹が空いていたこともあって、一気に全部食べてしまった。

 

 チョコもまたひとつ食べて、ちょっと草むらに横になってみた。さんさんと降ってくる日の光が暖かい。このまま眠ろうと思えばいつでも眠れる。

 

 でも、今日は眠るために来たわけじゃない。

 

 20分くらいして、本当に眠りかけていた自分にびっくりして、慌てて起き上がった。

 

 もう1時だ。早く行かないと、学校までたどり着けなくなってしまう。

 

 軽くストレッチをして、再び自転車に跨る。これから走るのはこの爽快感溢れる景色の中のサイクリングロードだということもあって、気持ちも足も軽かった。

 

 サイクリングロードは土手の麓にあった。坂をぴゅーっと下って、その勢いのまま荒川サイクリングロードに乗り出した。

 

 河川敷の中の方には草むらが広がっていて、途中にいくつも野球場があった。砂まみれの少年たちや、その親や監督たちがあちこちに群がっている。

 

 アフリカの砂漠にも匹敵しかねない砂と熱気のそばを通り過ぎ、大きなビルみたいな橋の下を潜り、私は走る。クロスバイクを颯爽と駆るひとりの女子高生。

 

 途中、他の人に抜かれた。プロ選手みたいな格好をして、カズ兄みたいなロードバイクに乗って、涼しそうに抜かしていった。

 

 かと思えば、その後ろからさらに、私の10倍速いスピードで駆け抜けていく人もいた。こっちはすごく前かがみになって、さながらレース中の選手みたいだった。

 

 カズ兄曰く、ロードバイクにプロ選手みたいな格好をして乗ればそれくらいのスピードは簡単に出せるんだって。

 

 水着みたいな、体にぴったりしてるあの服はレーパンと言うらしい。あと、この手の人たちは靴がペダルにくっついているとか何とか。

 

 靴がくっついてたら降りられないじゃないと思うけど、簡単に外せるから大丈夫なんだって。じゃあ何でくっつけるの? ってなるけど、どうもくっついていた方が速く走れるらしい。


 カズ兄はよくそういう格好をして走りに行っていたけど、私はまだそこまで本格的に乗りたいとは思わない。何か、怖そう。


 ロードバイクに乗った人たちがものすごく速いのは、カズ兄を見ていたから知っている。ついて行こうとしても無駄なだけだから、私は焦らず自分のペースを守った。 

 

 時速15キロ。ちょっと風があるせいか、疲れのせいか、このくらいのペースが精いっぱいだ。

 

 でも、1時間に15キロ進むのなら、単純に計算して2時間で30キロ走れる。それなら、学校まで行くのも夢じゃないんじゃないかしら?

 

 ここには厄介な信号もない。のんびりまっすぐ走っていればいいだけだ。らくちんらくちん。

 

 広い景色を眺めながら、ぼーっと走っていた。何だか、やわらかく吹く風が汚れた心を洗っていってくれるようだった。

 

 だんだん足が重くなってくる。あと、お尻が痛くなってきた。こうやってゆっくり走っているだけでも、意外と疲れるものだ。

 

 一旦止まって、休憩した。草むらに自転車を寝かして、背景と一緒に携帯で写真を取る。

 

 自分もそばに腰を下ろして、写真を家族チャットに送った。

 

 『荒川着いたよ! 順調快調進路オーライ(=゜ω゜)ノ』

 

 あまり心配されるのも嫌だったから、あくまで順調という体にしておいた。

 

 5分くらいぼんやりと川の流れを眺めてから、水分補給をして、チョコをつまんで出発。熱で溶けかかってるけど、チョコ大好きな私にこの甘さはたまらない。やる気と元気がみるみる湧いてくる。買っておいて良かった。

 

 足に疲れがたまってきたから、軽いギアでゆっくり進むことにした。時速は10キロ前後。他の人にガンガン抜かされていく。そんな早く走れていいなあと内心羨ましく思いながら、私はちまちまと進んだ。

 

 チョコとスポーツドリンクと、甘い物ばかり口に入れていたら、甘くないさっぱりした飲み物が欲しくなってきた。普段なら甘いものならいくらでも食べれる私だけど、この蒸し暑さの中だと、さすがにちょっと甘ったるくなってきた。甘党失格だ。でも、体が求めているのだから仕方ない。

 

 見たところ近くに自動販売機はないようだ。土手を越えればあるかもしれないけど、そのためには急な階段か坂を登らないといけない。億劫だ。

 

 このまま進めばどこかしらにあるだろうと期待して、とりあえず我慢して進むことにした。

 

 飾り気のない同じような景色がずっと続く。もう何回抜かされてすれ違ったかわからないプロ選手たちのように速く走れればすごく楽しいのだろうけど、疲れてとろとろと進むことしかできない身にとってはちょっと飽きて来ざるを得ない長ったるさだった。

 

 でも、プロ選手だけじゃなくランニングしている人、散歩の人や私のようにプロ選手じゃないサイクリストなどがたくさんいて活気に溢れる空気の中を走るのは楽しかった。みんなこの景色の中にいることを楽しんでいる。そんな雰囲気がもくもくと湧いて出てる。だって、そうでもなくちゃこんなにたくさん人が集まるわけないじゃない。

 

 30分、もしかしたら1時間くらい黙々と走り続けていたかもしれない。さすがに体が限界だった。

 

 さっぱりした飲み物が欲しい。そうだ、お茶がいい。お茶が飲みたい。

 

 前に何か見えてきた。川の上に建つようにしてビルみたいなものが建っている。あれは何だろう?

 

 そのビルの手前で道は急な上り坂になった。土手の上に登るのだ。私はギアを軽くするのも忘れて、自転車から降りて手で押して登った。

 

 道はビルの向こう側を回るようにして続いている。近づいてみて、ビルの正体がわかった。ビルじゃなくて、水門だった。

 

 そういえば、カズ兄が言っていた気がする。荒川の途中に大きな水門があるって。名前は確か、『いわぶち水門』。

 

 道の端に柵があったから、我慢できなくなって自転車を立てかけて鍵を回した。私、隊員春香はこれから徒歩で自動販売機の捜索に出ます。

 

 ちょうど土手の外側に降りる階段があったから、そこから降りようと思った。足を踏み出して、びっくりした。

 

 あ、足が重い……。

 

 足が地面に吸い付けられているような感覚だった。それか、足に大きな重りが付いているかのような。

 

 なんだこれは。どうしちゃったの? 私の足。

 

 これも、カズ兄が言ってたっけ。スポーツ自転車に本格的に乗ってると、歩くのが下手になるって。何でも、足がペダルを踏むのに慣れちゃって、歩く動きがしづらくなるんだとか。確かに、歩くのとペダルを踏むのとでは使う筋肉が違うから理屈は通っていると思うけど、もしかして、これがそうなんだろうか。

 

 「おおお、あぶなっ」

 

 階段を踏み外しそうになりながら、よろよろと下まで降りた。民家が立ち並んで、狭い路地が入り組んでいる。てきとうに進んでみると、小学校があった。運よく、そのすぐ前に自動販売機を見つけることができた。

 

 お茶のペットボトルを買って、その場ですぐに開ける。きんきんと冷えた水分がおいしい。さっぱりとした苦みが体中に染み渡って、体内のどろどろを全部洗い流してくれるようだった。

 

 さあて、戻ろう。戻る道はどっちかな。

 

 さっきの二の舞を踏まないように、ちゃんと地図を確認した。

 

 小学校がこれで、来た方向があっちだから、こっちかな。うん、きっとそうだ。

 

 万が一間違えていたときのために、地図を見ながら歩いた。携帯を見ながら歩くのは危ないけど、人も車もいないし、ちょっとの間だけだ。

 

 アプリの地図の中の自分は見事に川とは反対方向に進みだした。私は黙って回れ右した。

 

 距離はそんなに離れていなかったから、すぐに戻ることができた。

 

 自転車も置いたときの状態のままちゃんとある。鍵はしてあったけど、盗まれないか少し心配だったから、ほっと安心した。

 

 少しだけ進んで、水門のそばまで行ってみた。

 

 川はこの辺りから二股に分かれている。水門は分かれた先の、私が進んできた方から見て右側の支流にかかっていた。

 

 道は水門の後ろに隠れるようにして続いていて、左側の流れの方に繋がっている。向こう側が荒川の本流のようだ。

 

 水門の影の橋では休憩を取っているプロ選手が大勢いた。私もその中に混じって、水門の下を覗いてみた。

 

 「うわ、こわ…」

 

 ぼそっと呟いた。水門から橋の下に濁流が流れ込んでいる。深さもけっこうありそうで、落ちたらひとたまりもなさそうだ。

 

 ひとりで観察を続けていると、ふと周りからの視線を感じた。周りのプロ選手たちから変な目で見られているようだった。

 

 確かに、こんな格好をした女子高生がひとり自転車に乗って来て、水門を眺めながらうわあとか呟いてたら、おかしな光景だっただろう。

 

 今さらになってそんなことに気が付いた。恥ずかしくなって、早々に切り上げて再出発した。

 

 水門を越えると、景色が少し変わってきた。これまではただだだっぴろいだけで、言ってしまえば殺風景だったけど、少し色彩が豊かになってきたという感じだ。

 

 川沿いにはマンションが立ち並び、河川敷の広場も整備されて、整った景観が増えてきた。趣が変わって、新鮮な気分になった。

 

 しばらく土手の上を走って、また下に降りる。橋をいくつか潜ると、その先には道沿いにサッカー場がたくさん並んでいた。

 

 少年サッカーの試合がいくつも行われているようだった。サイクリングロードにまではみ出て応援の人やチーム関係者のような人が並んでいる。

 

 子どもたちの自転車が所狭しと置いてあるせいもあって、狭い区間が少し続いた。ボールが飛んできたり、子どもが飛び出してきたりしてちょっと危なかった。

 

 少年区間を抜けて、またしばらくゆっくりと走っていた。足の疲れやお尻の痛みは乗っているうちに、いつの間にか慣れていた。

 

 疲労が溜まってはいるけど、体が自転車に慣れて、出力が安定してきたという感じだ。飛行機がオートパイロットでゆったりと巡航してるのと同じような気分。

 

 普通の飛行機ならそのまま目的地まで飛んでいけるけど、春香航空にはひとつ計算ミスがあった。だんだん、お腹が空いてきたのだ。

 

 チョコはついさっき食べ切ってしまった。家から持ってきたものは、お昼ご飯に食べたおにぎりしかない。残っているのは、お茶とスポーツドリンクだけ。

 

 燃料切れだ。墜落だ。機体の性能を読み間違えていたみたい。燃料が全然足りなかった。

 

 ひとまず止まって地図を確認する。まだ、やっと半分の道のりを越えたくらいだ。残りの燃料で目的地に到着するのは絶対的に不可能だ。

 

 不幸中の幸いと言うか、ちょうどすぐ近くに北先住の駅があった。線路はついさっき越えたところだから、少し戻って線路沿いに行けば駅前のコンビニに行けるだろう。

 

 でも、かなりの寄り道になる。少しでも早く前に進みたいこの状況で道を逸れるのはあまり気が進まない。

 

 「でも……行くしかないよなあ」

 

 行かないと、途中で空腹で動けなくなるのが関の山だ。けだるさを振り払って、土手を登った。

 

 線路沿いに行けばいいだけだったから、駅前にはすぐにたどり着けた。予想通り、駅前ロータリーにコンビニもあった。

 

 ついさっきまではそうでもなかったのに、お腹が空いたと気づいてから一気に空腹が襲ってくるようだった。一歩判断が遅ければ、本当に動けなくなっていたかもしれない。

 

 コンビニであんまんとチョコドーナツ、補給食用に4個入りのあんぱんを買った。ついでにトイレも済ませて、コンビニの前でおやつの時間にした。


 あんまんという食べ物は、日本屈指の甘い物好きである私の一押し。このクッションのようにふわふわほくほくとした生地と、頬が落ちるくらいまろやかな甘みのあんこの組み合わせがたまらないのだ。ミシュランの星が10個付いても足りないくらい。

 

 空腹が満たされて、またちょっと元気が湧いてくる。長居は無用と、来たときと同じ道を通って川に戻った。

 

 たんたんと道を辿る。時刻は3時を回っていた。途中、大きな公園や野球場があったり、行けども行けどもプロ選手たちに抜かされすれ違ったりもした。


 そうしている内に、慣れてきた。この荒川サイクリングロードという道に、この延々と続く広い景色に慣れてきた。この空気を吸いながら、純粋に走ることを楽しめるようになってきた。


 30分くらいまた黙々と進んだ。ペダルをくるくると回しながら、カタツムリみたいな気分だった。端から見れば、颯爽と走っているというよりは、ぬめぬめと進んでいる感じだったに違いない。

 

 風が強くなってきた。向かい風だ。巨人の腕が押し返してくるような強風で、前に進むのさえ辛いほどだった。

 

 たまらなくて地面に足をついた。帽子が吹き飛ばされてしまいそうだ。髪を束ねてなかったらぼさぼさになってしまうし、スカートだったら捲り返って中が丸見えになるのを防げなくなりそうなくらい激しい。

 

 これは、異常気象なのではないか。空は相変わらず晴れている。太陽が低くなって日照りが少し収まり、穏やかな青空だ。風だけが異様に強い。

 

 私と同じ方向に進んで行く人たちは、みんな辛そうだった。自転車で進むのは相当きつそうだ。プロ選手たちでさえもかなり踏ん張っているように見える。

 

 これでは、追い風側の人も大変だ。風に押されてふらついている。

 

 涼しい顔をしているのは、追い風側のプロ選手たちだった。向かい風側で踏ん張っている人たちとは正反対、至って軽そうに、ものすごいスピードで過ぎ去っていく。

 

 ロードバイクのスピード域なら、この強い追い風もちょうど良い後押しになるのかもしれない。

 

 颯爽とすれ違っていく幸運なプロ選手たちを恨めしく思いながら、自転車を手で押して何とか前に進んだ。この風に対抗してペダルを漕ぐのは、私には至難の業だ。

 

 でも、少し歩いてみて気が付いた。このペースでは、時間がかかりすぎてしまう。学校まで着けなくなってしまうかもしれない。

 

 仕方なく、風が弱まったタイミングを見計らってサドルに跨った。立ち漕ぎでがんばってスピードを出し、風が吹き出したら姿勢を屈めて渾身の力でペダルを踏んだ。

 

 相当な重労働だった。たまらずに何度も降りながらも、また乗って踏ん張って、を幾度となく繰り返した。

 

 そして、か弱い女子の体には限界がやって来た。橋の下で降りて、また進もうとしたけど、もう足に力が入らなかった。

 

 この細い脚は、文字通り棒になってしまった。細いけど剛性が高く、重量のある鍛造の鉄の棒だ。

 

 カズ兄の自転車に傷をつけるわけにはいかないから、最後の力を振り絞って地面にゆっくりと倒し、私はどっさりとその隣に座り込んだ。

 

 全身全霊の力を込めていたせいで、体も痛かった。特に腰痛が激しい。もう立ち上がることができなそうなくらいだ。

 

 「はーあ。どうしよう」

 

 残っていたわずかな体力もお尻を伝って地面に染み込むようにして吸い込まれていってしまった。立ち上がる気力が出ない。動ける気もしない。

 

 地図を見てみると、だいぶ河口に近づいてきたことがわかる。それでも、まだ5キロはありそうだ。

 

 時刻は4時10分を回ったところ。家を出発してから6時間が経過している。全然2時間で着けてなんかいない。

 

 6時間も自転車に乗っているなんて、私何してるんだろうと、ちょっと冷静になって笑ってしまった。

 

 カズ兄は1日中走っていたことなんてざらだったけど、やっぱり、私はカズ兄とは違う。普通の女の子だ。ろくに運動もしたことのない女子高生が6時間もサイクリングしたなんて、それだけで十分すごいことのように思えた。

 

 やれるだけのことはやった。ここまで来れば、諦めたとしても誰にも馬鹿にされないだろう。

 

 希望の光が消えかけたところで、携帯が鳴った。ギリギリのタイミングだった。送られてきたメッセージを見て、消えそうだった光が何とか持ちこたえた。

 

 『いまどこ?』

 

 カズ兄だ。この人はどうしてこうちょうどいいタイミングで連絡してこられるのだろうと不思議に思いながら、返事を打った。

 

 『今ね、小松川っていうところ。ちょっと疲れてきちゃったみたい。そろそろやめるかも……(*_*)』

 

 送ってすぐに、カズ兄から電話が来た。

 

 「もしもし。どうしたの?」

 

 『おう、ハルの方こそどうしたんだよ。小松川って言ったら、河口まではもうすぐじゃん。そこまで行っといて、諦めちゃうの?』

 

 「だって、風がすごい強いんだもん。がんばって行こうと思ったんだけど、もう足が限界」

 

 『ああ、荒川の強風は名物だしな。追い風だったら最高なんだけど、向かいだったら地獄だよなあ。どんだけ踏んでも20キロしか出ないでやんの』


 「そんな他人事みたいに言わないで。カズ兄なら大丈夫かもしれないけど、私はもう無理。これ以上進めない」

 

 ちょっと間を置いて、カズ兄はちょっと真剣そうな声になった。

 

 『まあ、無理か無理じゃないか決めるのはハル次第だけど、そこでやめても、帰ってくるのが大変だよ? 疲れてるのならなおさら、帰り道がきつくなるぜ』

 

 触れないで欲しいところだった。帰り道のことは、考えていなかったわけではない。走って来た道をまた戻らないといけないというのは至極当然なことで、遠くまで来れば来るほど、帰り道は長くなる。

 

 正確には、考えないようにしていた。行くところまで行ってしまえば、帰りは何とかなるだろうと、楽観的に考えていた。最悪、カズ兄が迎えに来てくれる。お父さんと約束した条件でも、そのはずだった。

 

 カズ兄が言ったのはどういう意味だろう? 帰るのが大変なのはわかるけど、ここでやめずに先へ進んだら、帰り道がもっときつくなるじゃない。

 

 「じゃあ、どうしろって言うの? これ以上進んだら、本当に帰れなくなっちゃうかも」

 

 『そうだなあ……。じゃあ、こういうのはどう? ハルが河口までたどり着ければ、俺が迎えに行く。そっから河口まで行くか家まで帰ってくるか、どっちが楽かはお前次第』

 

 「何それ。ずるい。そんなこと言うなら、ここまで迎えに来てよ」

 

 『それはだめ。ハルが自分で学校まで行くって言ったんだから、言ったことはちゃんと実行してもらわなくちゃ。でも、さすがにその状況で学校まで行くのはきついと思うから、河口までいいってことにしてあげる。どう?』

 

 「どう、って言われても……」

 

 どっちが楽かはわかりきったことだ。来た道のりを戻るより、もうすぐでたどり着く河口まで行く方が断然いい。

 

 カズ兄のやり方も卑怯だ。私がどっちを選ぶのかを知っておきながら、わざとこんな回りくどい聞き方をする。助けてくれるなら助けてくれるで、ここまで迎えに来てくれればいいのに、あえてそうしないで妹の私をいじめるのがひねくれ者のカズ兄らしい。

 

 「……じゃあ、河口まで行く」

 

 『ハハハ、ハルならそう言うと思ったよ。じゃあ、がんばれよ。向こうで待ってるから、着いたら連絡ちょうだい』

 

 カズ兄の意地悪な笑い声を聞いて、私の中で何かが吹っ切れた。

 

 ふつふつと力が湧いてくるようだった。こうなったら、意地でも河口までたどり着いてやる。

 

 それからは自分との戦いだった。相変わらずの強風の中を、死に物狂いで進んだ。

 

 帽子は吹き飛びそうだったから、リュックサックにしまった。途中何度も休憩して、コンビニで買ったあんぱんも食べながら、少しずつ、少しずつ進んだ。

 

 途中で一回、あまりの風にバランスを保てなくなって、こけてしまった。ひざと肘を擦りむいた。怪我をしたのなんて、いつぶりだろう。

 

 ショックが大きくて、しばらくそこで休んだ。日が傾きだして、空が赤くなりかけていた。

 

 対岸には川に沿うようにして陸橋がずっと続いている。高速道路みたいだ。上を豆粒のような車がたくさん走っているのが見える。

 

 川の流れは穏やかで、夕日を反射しているその姿は、もみじ色のレース生地が流れてきているようだった。

 

 自転車が過ぎ去っていく音や子どもたちが遊んでいる声、鳥が空で鳴いている声など、いろんな音が聞こえてくる。どれもこの空漠とした景色に色を塗ってくれているようで、疲れ切った体に心地よく、夏の夕空を彩る音色のように優しく響いていた。

 

 呼吸が整ったところで、最後の一息のつもりでまたペダルを踏んだ。擦りむいたところを軽く打っていたみたいで、ちょっと痛かったけど我慢した。

 

 自転車には傷がついてしまった。あとでカズ兄に謝ろう。自転車も車もすごく大切に扱う人だから怒られるかもしれないけど、ちゃんと謝れば、カズ兄なら許してくれるはず。

 

 風が少し弱まってきた。これまでの強風を体験した後だと、自転車がぐんぐん進むように感じられた。このまま最後まで走り切ってしまおうと、全身全霊の力を込めた。

 

 橋を潜り、少し坂を登ると、先が一気に開けた。

 

 サイクリングロードはまっすぐに続いていて、道と川の間は広い綺麗な公園になっていた。色とりどりの花壇や、模様のように入り組んだ遊歩道が見える。

 

 その先にはもうひとつ、川に架かる橋があった。電車の線路と道路が並んでいる。そこを潜ると、ずっと先に今日見た中で一番大きな橋が見えた。

 

 かなり遠いけど、視界を遮るものがないから全容がよく見渡せる。


 今いる地点で川幅は向こう岸が遥か彼方に見えるくらいに広い。その橋が架かるところでは、さらにその倍はあるように見えた。


 果てしない距離を繋ぐ巨大な橋。あれこそレインボーブリッジだ。ベイブリッジだ。何ならサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジだ。

 

 豆粒どころか米粒の車が走っている下で、骨組みがうじゃうじゃとしているのが見える。

 

 あの下に行ってみたいと思った。あの橋を間近に見てみたい。

 

 へろへろになりながらも、橋を目指して進んだ。わくわくしながらペダルを漕いだ。そして、足を止めた。

 

 目を疑った。

 

 道がない。

 

 「あれれ」

 

 まだ橋はずっと向こうなのに、道はそこで途切れていた。

 

 たどり着いた場所はちょっと広くなっていて、プロ選手たちやいろんな人がたまっている。

 

 みんなやり切ったというような満足げな顔をして口々に喋っていた。

 

 

 ――もしかして。


 

 はっと気が付いた。



 ――もしかして、そういうことなのだろうか。



 急いで地図を確認して、わかった。真実が掴めた。


 頬が緩んでしまうのが止められなかった。一緒に涙腺も緩んでしまったようで、涙が溢れてきた。


 ここが終点だ。道の最後だ。


 これ以上進むことはできない。あの橋は紛れもなく、荒川の河口に架かる橋だったのだ。


 「わああ、着いたああ」


 ひとりで涙をこぼしながら悲鳴のような声を上げてしまった。


 周りの人の視線をたくさん買ってしまったような気もしたけど、脳が興奮するあまり自制を効かせてくれなかった。


 振り返って見ると、今自分が走ってきた道が見渡せた。


 スピードメーターを使えば、自分が走った距離も知ることができる。見てみると、そこには39kmと表示されていた。


 40キロ弱。フルマラソンが42.195キロだから、フルマラソンで走る距離に近い長さを、私は自転車で走ったのだ。


 この道をたどってきて。


 考えてみれば、この道が自分の家まで繋がっているというのも不思議だった。


 こんな場所まで来てしまえば、もう家は遥か彼方。普通に考えれば、電車とか車じゃないと行けない距離だ。


 それでも、道は確実に繋がっている。たどれば着くことが出来る。自転車だって歩きだって、着くことが出来る。私が今日、ここまでたどり着いてみせたんだから。


 記念に、河口の橋を背景にしてセルフィーを撮った。疲れのせいであんまりいい表情はできなかったけど、それも記念だ。


 ふと思いついて、自転車の写真も撮った。


 私は今日、この自転車に乗って、荒川の河口まで来ました。


 長いけど、この題名が一番だと思った。


 考えてみれば、これも不思議なことだった。


 自転車なんて、鉄の骨組みに車輪が付いているだけの、言ってしまえば単純な機械だ。

 

 それが、この形に組み合わさっていることで、私をここまで連れてきてくれるくらいの抜群のポテンシャルを生む。

 

 カズ兄みたいな人にもなれば、これがものすごいスピードを出せたり、今日走った距離なんかよりもっと長い距離を走ったりもする。

 

 「へえ。すごいんだなあ」

 

 カズ兄のクロスバイクが、今まで見てきたただの自転車とは違う、何か新しい、意志を持った生き物のような、もっと立派なものに見えた。

 

 早速カズ兄に電話をすると、カズ兄は待ち構えていたかのようにすぐ出た。

 

 『どう、着いた?』

 

 「着いたよ! カズ兄、私、着いた! 河口に着けたよ!」

 

 『おうおう、わかったから、電話口でそんな大声出すなよ』

 

 「ごめんごめん、つい、嬉しくなっちゃって。でも、信じられないの。自分が本当にここまで来れたなんて」

 

 『俺の自転車のおかげだな』

 

 「うん、そのおかげもあると思う。私のママチャリじゃ、きっと重くて無理だったもん」

 

 『まあ、そうだろうな』

 

 「何その反応。ほんとにがんばったんだから、もっと褒めてよ」

 

 『ハハ、そうだな。じゃあ、最後のゴールまでたどり着けたら、褒めてあげる』

 

 「最後のゴール? ここがゴールじゃないの?」

 

 そこで、カズ兄から恐ろしい言葉が発せられたのだった。

 

 『俺、今葛西臨海公園にいるんだ。ハルのいる場所のすぐ近く。そっから、観覧車が見えない?』

 

 嫌な予感がして、慌てて辺りを見渡した。

 

 観覧車……ある。あった。

 

 河口に架かる橋の、こっちから見て左側のもう少し奥に、大きな観覧車があるのが見えた。

 

 すぐ近く……確かに見えるからめちゃくちゃ遠いわけではないけど……。

 

 正直、全然近くには見えない。

 

 「観覧車、見えるけど……まさか、そこまで来いとか言うんじゃないよね?」

 

 『正解。そのまさか』

 

 絶句した。泣き叫びたくなった。

 

 『最後のひと踏ん張りだよ。学校まで行くのよりは楽だから、がんばって来てね~』

 

 「ちょっと待ってよ! そんなこといきなり……」

 

 言い終わる前に、電話はもう切れていた。かけ直そうかとも思ったけど、やめた。

 

 カズ兄はこうなるととことん意地悪なのだ。私の言い分なんて聞いてくれない。

 

 泣きたかった。さすがに人目があるから泣けなかったけど、誰もいない場所だったら思い切り泣いていたに違いない。

 

 観覧車は見えはするけど、あれはかなり遠い。

 

 河口からはもう車の快適な旅が待っているつもりで来たから、この絶望感はすさまじかった。

 

 天国から地獄に真っ逆さま。このくたくたに疲れた体であの観覧車の麓まで行くなんて、甚だ気が遠くなる話だ。

 

 それに、これまでのように一本道をひたすらまっすぐに進めばいいというわけでもない。あの観覧車まで行くには、土手の道ももう続いていないから、一回川から離れて街の中をくねくねと進んでいく必要があるだろう。

 

 「あああ、いやああ」

 

 ひとりでうずくまって、悲鳴を上げた。ショックが大きすぎて、しばらくそこから動けなかった。

 

 何とはなしに、携帯を開いた。時刻は5時半。しょっちゅう地図を開いていたから、バッテリーももう少ない。

 

 空も暗くなってきている。気温も下がり、汗が冷えて寒くなってくる。

 

 だんだんやけくそになってきた。もうこうなったら、体がどうなったっていい。時間も何も気にしない。何かあったらカズ兄のせいにすればいい。

 

 何としてでも葛西臨海公園まで行って、カズ兄に文句を浴びせまくってやる。女の意地だ。無事にたどり着いて、カズ兄を見返してやる。

 

 それからは悪あがきのような行軍だった。地図と睨めっこをしながら、ほとんど自転車から降りた状態で『最後のゴール』を目指した。

 

 はたから見れば何事かと思われていただろう。女の子が泣きっ面ですごい形相をしながら自転車を押してずかずかと道を歩いていくのだ。カレシと喧嘩して怒って帰っている途中などと思われていたかもしれない。それにしては服装が質素だし、そもそも私にカレシはいないけど。

 

 サイクリングロードの終点から見えた橋にやっと着いたときには、すでに6時を回っていた。もうすぐに日は完全に落ちて夜になるだろう。携帯のバッテリーももう残り20パーセントを切っている。早くこの橋を渡り切って、観覧車までたどり着かなければ。

 

 橋の上からは、真っ暗な荒川が見下ろせた。

 

 あの辺りが、さっきここを見上げていたところだろうか。そうすると、さっき向こうから見ていた場所に私は今いるんだ。目で見える距離だけど、長い道のりだった。

 

 橋を下ると、もう葛西臨海公園はすぐ隣だった。でも、高速道路を挟んだ向かい側だ。渡る場所がない。

 

 しばらく進むと、大きな交差点があった。横断歩道はない。歩道橋がある。

 

 登れと言うのか。そうか。わかった。そんなに言うなら、登ってやる!

 

 お腹がぺこぺこだったのも無視した。下手したらその場で倒れるかもしれなかった。

 

 高速道路の陸橋を潜る形の歩道橋を渡り、下に降りて、奥に続く道を辿る。高速道路と並行して線路もあった。線路沿いの道を進むと、駅があった。駅前広場もある。すぐ向こうに観覧車もある。サイクリングロードからは果てしなく遠く感じられた、あの観覧車だ。私の苦労も知らずに、のうのうと綺麗なイルミネーションに彩られている。

 

 葛西臨海公園だ。駅の名前が葛西臨海公園駅だから間違いない。

 

 着いた。着いたぞお。着いてやったぞお!

 

 駅前広場を突っ切っていると、突然後ろから肩を掴まれた。振り返ると、カズ兄がいた。

 

 「来たな。おうおう、どうしたんだ、そんなむすっとして。もしかして、泣いてた? 顔が汚れてるぞ」

 

 私は何も言わず、カズ兄を叩いた。叩きまくった。倒れそうになった自転車を支えたため、カズ兄は何も抵抗してこなかった。

 

 カズ兄を痛めつけるのに残された力の全てを使い切った。体を支えるのもつらくなって、最後にはカズ兄に抱き付いた。

 

 「それで十分? じゃあ、帰ろっか。よくがんばったね。おつかれさま」

 

 喋る気力もなかった。カズ兄に支えられながら、駐車場へ向かった。

 

 奥の方に、カズ兄の車が停まっていた。よく見慣れた黒い車。怒っていそうな顔をしていて、エンジンをかけるとすごくうるさい。

 

 いろいろなパーツをいじっていて、俗に言う改造をしているみたいだけど、私にはよくわからない。ただうるさいってだけ。

 

 カズ兄は自分のこの車を『アレックス』って呼んでいる。本当の名前は知らないけど、カズ兄の車っていうことで、私もちょっと愛着はあった。

 

 私はまっすぐに助手席に向かって、勢いよく乗り込んだ。トランクに自転車を入れるのはカズ兄に任せた。もう知らない。何も知らない。

 

 駐車場を出るときには、たぶんもう寝ていた。あんまり乗り心地はなくて、エンジン音だか排気音がぶんぶんうるさい車だから普段はあまり寝られないけど、このときはぐっすり眠った。

 

 シートが普通の車と違って、体を包み込んでくれるような形をしているから、安心して身を任していられた。

 

 気が付いたときにはもう我が家のマンションの駐車場にいた。私が目を覚ます30分くらい前には着いていたみたい。あんまりぐっすり寝ているからと、カズ兄は起こさないでずっと待っていてくれたらしい。

 

 家に帰ったときにはもう9時過ぎだった。駐車場から家までの間に、カズ兄が用意してくれていたコンビニのおにぎりをひとつ食べた。私の好きなツナマヨだった。パリパリッとしたのりの食感と、ツナマヨのとろけるような甘みが全身に染み渡るようだった。

 

 お父さんとお母さんの心の籠った出迎えにも応えず、まっすぐに自分の部屋へ行って、服も着替えずにベッドに潜り込む。数秒と経たないうちに、深い安眠につくことができた。


 ◆ 


 それから3日間は、全身の筋肉痛で動けなかった。痛みが引いてくると、何回か自分の自転車で近場をちょっとサイクリングしてみた。

 

 でもすぐに物足りなくなって、カズ兄のクロスバイクに乗り換えた。(傷のことは笑って許してもらえました。)


 私と荒川を通って葛西臨海公園まで冒険の旅をしたこの自転車は、いつも何食わぬ顔でゆったりと構えている。

 

 「40キロ走った? だから何? 俺にとっちゃ、そんなの日常茶飯事だよ」と、馬鹿にしてきているかのようだった。

 

 夏休み最後の日、思い切ってお父さんに新しい自転車が欲しいと相談してみた。

 

 お父さんは思い切り渋い顔をした。私がまたひとりでどこか遠くへ行ってしまうのを懸念してみたい。

 

 お母さんは逆に、嬉しそうだった。和樹と似て来たわねと、まんざらでもなさそうだった。

 

 カズ兄が指導してくれるという条件付きで、話は買ってもらえる方向で進んだ。

 

 夏休み明け最初の学校の日、私は新しい人間になった気分で、始業式に臨んだ。

 

 夏の記憶は見たことのない色に彩られて、空っぽだったあんまんにはいつの間にかこれでもかというくらいにあんこが詰まっていた。






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― 新着の感想 ―
[良い点]  はじめまして、静夏夜です。  私は昔から自転車に乗って出かけると、知らない何処かへ向かって消えて行く事から  小さい頃より親に【鉄砲玉】と言われていました。  今に思ってもとても小学生…
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