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* 1 *
「と、突然呼び出してゴメンッ」
そう言って顔どころか耳までほんのり赤く染めているのは、隣のクラスの吉田陽一君。
放課後の校舎裏。
物置になって閉鎖されてる空き教室と壁に挟まれたけっして広くはないスペースで、壁の向こうは隣接する公園の雑木林だから、ちょっと薄暗いけども人に寄りつくような場所じゃない。
卒業式が近づく頃には入場待ちが発生するというこの場所のことは、高校に入って半年ちょいのあたしだけど、入学直後には友達から耳にしていた。
「俺は! その……、伊藤さん――。か、佳苗が、……でなくって、佳苗にはいま、つき合ってる人とか、いるのか?」
「いないよ」
これまで苗字でしか呼び合ったことしかなかったのに、勇気を振り絞ってあたしのことを呼び捨てにしてくる吉田君が、ちょっと可愛く思える。
背は高いってことはないけど低くはなく、野球部で髪の短い彼は、イケメンってタイプじゃない。眉が太くてくっきりとした顔立ちの、野球部らしい男の子だ。
隣のクラスだったから話したこともなくって、この前の文化祭のときに実行委員になったことがきっかけで話すようになって、けっこう仲良くなったと思う。
何かと気遣いができて、あたしが困ってると必ず助けてくれた吉田君には感謝してるし、女の子として意識されてるのかも、と思うこともあった。
友達からは可愛いって言ってもらえるけど、背は低くて体質なのか痩せ気味ってか、ガリくらいの体型のあたしのことを見てくれる男の子なんているとは思えなくて、気にしないでいた。
でもさすがに、こんなところに呼び出されて、つき合ってる人がいないって答えに表情を明るく吉田君のことを見れば、いくらあたしでも彼の用件はわかる。
――悪くないかな?
優しくて、気遣いができて、あたしを見てくれる彼なら、悪くないと思えた。
これまで彼氏なんてできたことなかったけど、吉田君だったらつき合ってもいいかも、と思えていた。
頭を下げた吉田君は、できるだけの声を振り絞るように言った。
「佳苗のことが好きです。俺と、つき合ってください」
「ごめんなさい」
――あれ?
自分でした即答に、自分で戸惑っていた。
顔を上げた吉田君が呆然としてるのと同じように、あたしもたぶん驚いた顔をしてる。
つき合ってみてもいいかも、と思ってた次の瞬間に出てきた言葉は、自分で言ったことなのに、自分でも予想外だった。
――でも、そう思う。
勘、としか言いようのないもの。
予感、としか言い表せないもの。
それをいまの吉田君から感じる。彼とつき合ってはならないと、胸の奥に湧き上がったものが叫んでる。
「他に好きな奴がいるとか?」
「うぅん、そうじゃないんだけど……」
「だったら、俺とつき合ってくれても!」
言いながら伸ばされた手から逃れて、あたしは後退る。
好きな人に必死になるのはわかる。
あたしだって、告白まではできなかったけど、好きになった人くらいいる。
男の子とつき合うくらいなら、深く考える必要なんてないことも、わかってる。
「あたし、吉田君のこと、よく知らないから」
「だったらつき合って、知っていけばいいんだよ」
「それはわかってるんだけど……」
「じゃあ何でなんだよ!」
文化祭の実行委員でしかつき合いがなかった彼のことは、彼の言うようにこれから知っていけばいいのもわかってる。
それでもあたしの中で、警告のベルが鳴り響いてる。
悲しげな顔をする彼に、あたしは答える言葉が見つからない。
もう一歩大きく離れて、あたしは深く頭を下げる。
「ごめんなさい。どうしても、貴方とはつき合いたくないの」
刹那――。
空気が凍りついた。
文化祭が終わって、ブレザーの上着だけでは少し肌寒い気温よりも冷たいものが、あたしの背筋を駆け抜けていった。
見てみると、吉田君の顔が凍りついていた。
強張った表情で、穴のような黒い瞳で、小さく首を傾げ、彼は言った。
「え?」
――怖い。
ただ問い直されただけの短い声に、あたしは震えた。
もうここにいたくない。いちゃいけない。
それを直感で悟ったあたしは、吉田君に背を向ける。
「ごめんなさい。そういうことだから」
言い捨てて走るあたしを追いかけてくる足音は聞こえなかったのに、あたしの脚は転びそうになるくらい、震えていた。
* 2 *
黒い穴のような瞳に見つめられて、身体が竦みそうになる。
でもその場に立ったままでいたら声をかけられそうで、あたしは急いで廊下から自分の教室に飛び込んだ。
――怖い。
吉田君に校舎裏で告白を受けてからこの三日、とくに何かあったわけじゃなかった。でも、廊下なんかで出会うと、彼があたしのことを見つめてくる。
その前は優しげに笑っていてくれたのに、いまの彼は、あのとき見せた怖さを感じる表情だった。
――あれは、言っちゃいけない言葉だったのかな。
つき合ってほしいと言われたときに答えた、「貴方とはつき合えないの」という返事。
それを言った瞬間、吉田君の空気が変わった。表情が変わった。
あれはもしかしたら、彼には言ってはいけない言葉だったのかも知れない、と思う。
「ふぅ……」
自分の席について、ひと息吐く。
吉田君はほとんど毎日野球部の練習があるから、帰宅部のあたしと帰りがかち合うことはあんまりない。何をされたわけでもないけど、早く家に帰りたかった。
「ここんところ何か暗いけど、どうかしたの?」
ノートや教科書を鞄に仕舞って帰り支度をしてるとき、声をかけられた。
ふわっとした柔らかい髪を短めにしてる彼女は、クラスメイトの佐々木レオナ。
眼鏡をかけてて本好きで、文化系クラブに入ってる彼女は、髪を染めたりアクセに凝ったりしてるカワイイ系の女子とは正反対の、あたしと同じ地味系女子で、クラスでもとくに仲が良かった。
「うぅん。別に何かあったわけじゃないんだけど」
肩越しの髪を振りながらレオナに否定して見せて、あたしはできるだけの笑みを返した。
告白された後、吉田君に声をかけられたわけじゃない。怖くて逃げてるからってのもあるけど、一日に何度か目が合うだけで、本当に何もない。
告白されたことは、放課後になったとは言えまだ半分近く人が残ってる教室で言っていいことじゃないと思うし、それにもしあたしの悪い予感が的中しちゃったとしたら、話したレオナまで巻き込むことになるかも知れない。
――何かあるまでは、レオナには話さないでおこう。
「大丈夫。ちょっと嫌なことがあっただけだよ」
「ん、そっか。何かあったら相談してみてね。何かできるとは限らないけどさ。じゃあ部活行ってくるね」
「ありがと。じゃまた明日」
レオナと別れた後、帰る準備が終わったあたしも席を立つ。
「あ、伊藤さん」
「ん?」
教室を出ようとしたあたしの背中にかけられた男子の声。
振り返ってみると、近づいてきているのは同じクラスの、確か間島純君。
同じクラスだから話をしたことくらいはあるけど、さらさらの髪と、女の子を思わせる線の細い柔らかい顔立ちの彼は、仲が良いってわけじゃなく、カワイイ系の女子と話してることが多い男の子だ。
「ゴメン。さっきの佐々木さんとの話、ちょっと聞こえてたんだけど」
「あ、そうなんだ。うん、大丈夫だよ。何でもないから」
そう言って間島君に笑いかけるけど、彼はちょっと上向かないといけないくらい近づいてきて、細めた声で言った。
「もしかして、この前、吉田に告白されたこと?」
「……どうして、知ってるの?」
「たまたま、吉田が校舎裏に入っていった後、伊藤さんが出てくるのを見ちゃったから。告白されたのかまでは見てないけど、多分そうだろうな、って」
「そっか。そうなんだ……」
ちらりと間島君の身体越しに教室に視線を走らせると、もうそんなに人は残ってない。近くにいる人はいなかった。
「つき合ってるの? 吉田と」
「え? うぅん。……断ったの」
「どうして?」
なんでそんなことをずけずけ訊いてくるんだと思うけど、間島君の柔らかい笑顔を向けられて、あたしは吉田君の告白の後からずっとため込んでた気持ちの悪さを吐き出したくて、話してしまう。
「とくにこれだ、って理由があったわけじゃないんだけど。吉田君のことはあんまりよく知ってるわけでもないし」
「よく知らなくても、つき合ってから知っていってもいいんじゃない?」
「それは、そうなんだけど……」
あのとき吉田君にも言われたことだけど、やっぱり彼とつき合いたいとは思えない。あの穴が開いてるような黒い目に見つめられる前から、あたしは胸の中の自分が辞めておけと言ってるような気がしてる。勘が危険を知らせてる。
でもそんなことは間島君に説明できるわけもなくて、適当な言葉で代用することにする。
「何となく、吉田君はピンとこなくて……」
「そういうことってあるよね。僕もしっくり来る女の子以外とはつき合わないことにしてるんだ」
「そうなんだ」
一年の中では人気があるって話は聞いてるし、社交的で男子だけじゃなく女子と話してることも多い間島君は、でも誰かとつき合ってるという話は聞いたことがなかった。
「それで、断った後に何か言われたりされたりしてるとか?」
「うぅん。別にそういうことはないんだけど。……でもなんか、見られてる気がして」
日に何度か目が合うって言っても、告白される前もそれくらいは普通だったような気がする。
反射的にとは言え振っちゃったんだから視線が怖くなるのは当たり前で、以前より見られてるように感じるのは、ただの自意識過剰かもしれなかった。
「でもたぶん、気のせいだと思うから」
「そう? だったらいいけど。もし何かありそうだったら、気軽に相談してよ」
気持ちも表情も暗くなってるあたしとは違って、あくまで明るく爽やかに、間島君は笑顔を見せてくれた。
少しだけ安心できたあたしは、彼に「また明日」と挨拶して、教室を出る。
*
視線を感じる。
落としていた視線を上げると、黒い穴のような瞳。
上がりそうになった悲鳴を押さえ込んで、あたしは教室に飛び込んだ。
「佳苗、おはよぉー」
「おはよう、伊藤さん」
レオナと間島君を最初に、いつもと変わらぬ朝の雰囲気の教室から挨拶の声が上がり、あたしはそれに応えながら自分の席に向かう。
――やっぱり、怖い。
昨日間島君に話せて少し落ち着くことができたけど、吉田君のあの視線はやっぱり怖い。
怒ってるのとも、恨んでるのとも違う、ぽっかりと穴が開いて、その下の闇が見えてしまっているような、そんな瞳。
怖くて話しかけられなくて、話しかけられてるのも避けてるいまは、吉田君が何を考えてるのか聞くこともできない。聞くのが怖い。
――避け続けて、あたしのことを気にしなくなるまで待つしかないか。
そう思いながら椅子に座って、鞄を机の横のフックに引っかけたあたしは、教科書やノートを取り出す。
午前中の授業の分を机の中に入れたとき、何かが入ってるのに気がついた。
昨日、帰るときには何も入ってなかった。
手で触った感じでは紙一枚で、危険そうな感じがするものじゃない。
でも、嫌な予感がする。
見ない方が良いような気がするのに、取り出さないわけにはいかなくて、教科書とかの代わりに、その紙を取り出した。
「っ!」
喉の奥で、声にならない悲鳴を上げてしまっていた。
紙は、ただのルーズリーフの一枚。
それは「どうしてなんだ?」という文字で埋め尽くされていた。
横罫が描かれたとこだけじゃない。上や下の余白にもびっしりと、ぎっしりと、まるで呪いの言葉のように、その言葉が書かれてる。
背筋に、悪寒が走った。
じっとりと、汗が出た。
膝が震えて止まらない。
ぐしゃりと紙を潰して、小さく丸める。
ゴミ箱に捨てに行きたかったけど、膝が震えて立てそうにもなかった。
だからあたしは、その紙を鞄の中に押し込んだ。
本当はそんなところに入れたくなかったけど、立つこともできず、誰かにその紙を見られたくもないあたしは、そうすることしかできなかった。
――吉田君が、やったの?
机に呪いの言葉を書いた紙を入れたのは、あたしが昨日帰った後なのか、それとも今日あたしが来る前なのか。
誰かが教室にいる時間ならともかく、誰もいない時間なら、吉田君がこの教室に入ってきてもわからない。野球部で朝練も午後練もある彼なら、紙を入れることはできる。
――怖い。怖い。怖い。怖い。
ただあたしは、それだけを思って、小さく震えていた。
* 3 *
「あの……、間島君。ちょっといい?」
「どうしたの? 伊藤さん」
「少し、話したいことがあるんだ」
放課後、先生が教室を出ていった後に間島君にそう声をかける。
相変わらず柔らかい笑みを見せてくれる彼は頷いた。
「もう少し後の方がいいね」
「うん……」
呪いの紙が入ってきたのは土曜日で、今日は月曜日。
土曜はあの後は何もなくて、授業が終わったら逃げるように帰った。日曜を家から一歩も出ずに過ごして、少し落ち着けた今日、相談に乗ってくれると言っていた間島君に話すことにした。
本当は学校になんて来たくなかったけど、あの紙を除くととくに何かあったわけじゃない。あの紙が吉田君がやったという確証があるわけでもない。
もう期末試験もそう遠くはなく、頭が良いわけじゃないあたしは、そんなに簡単に学校を休むわけにもいかないし、休む言い訳も思いつかなかった。
「それで、どうしたの?」
「うん……」
もうすっかり教室から人がいなくなった後、間島君があたしの前の席に後ろ向きに座って、優しい声をかけてくれる。
「やっぱり、吉田君のことが怖くて……」
「何かあったの?」
「あったって言えば、あったんだけど」
あのルーズリーフに書かれた呪いの言葉を見せられればよかったけど、あれはもうない。
土曜に家に帰って、お母さんが仕事から帰ってくる前に、庭で火を点けて灰にした。持っていたくなかったから、もう二度と見たくなかったから、灰にして無い物にした。
「じゃあ、僕にいま何かできることはある?」
「うんと、それは……」
包み込むような優しい笑みを浮かべる間島君の問いに、あたしは言葉を濁す。
考えてみると、いま間島君にやってほしいことはない。
吉田君の視線が怖くて、あの紙はもうここにはなくて、他に何かされることがあるわけでもないから、助けてもらえることもない。
「うぅん。いまはたぶん、何もないと思う。でもやっぱり、吉田君が怖い」
「……そっか。わかった。じゃあもし何かあったときのために、メアド交換しておこう」
「あ、うん」
吉田君のことを相談しようと思うくらい近くに感じた人なのに、メアドの交換もしてなかったことに、言われて気がついた。吉田君のことがあるまで仲が良かったわけじゃないから、当然だった。
そんなことすら思いつかないほど、あたしはいま周りが見えなくなってることを実感する。
「これでもし何かあったら連絡できるね。たいしたことじゃなくていいから、いつでも連絡してきてね」
「うん。ありがとう、間島君」
にっこりと笑う間島君の笑顔に釣られて、あたしも笑みが漏れる。
さすがにそろそろ帰ろうと立ち上がって、鞄に手を伸ばしたところで、間島君が近づいてきた。
「大丈夫。もし伊藤さんに何かあっても、僕が必ず守るよ」
言いながらあたしの肩に伸ばされた腕。
――いやっ。
声にならない悲鳴を心の中で上げて、あたしはその腕を振り払っていた。
「ご、ゴメン……」
「うぅん、いいよ。吉田のことで怖い思いをしてるんだから、仕方ないよ」
「そうだね……」
あの告白のときも、吉田君が伸ばした手を避けてしまっていた。
男性恐怖症ってわけじゃないと思うけど、いまは誰かに触られるのが怖い。そうなんだと思う。
「大丈夫だよ、伊藤さん。連絡をくれれば必ず駆けつけるよ」
「わかった。ありがとう」
線が細いように思える間島君の力強い頷きに、怖い気持ちが消えてなくなったわけじゃないけど、あたしは少しだけ、気持ちが軽くなっていた。
*
数日、何もなかった。
廊下を歩くときはうつむいてできるだけ前を見ないようにしていたから、吉田君と視線が合うこともなかった。
もしかしたら見られていたのかも知れないけど、わからなかった。
いままでのあたしと違う様子に、レオナとか他のクラスメイトが心配してきてくれたけど、あんまり誰かと話をしたくもなくって、できるだけ誰とも話さないで過ごしていた。
それでも学校を休むにはいかなくて、あたしは重い身体を引きずるようにして、うつむき加減のまま教室の中に入った。
「おはよ」
「おはよ。大丈夫なの? 佳苗」
「うん、大丈夫だよ」
あんまり眠ることもできなくて、目の下に隈ができてるのもわかってる。レオナが心配そうな声にできるだけ笑って誤魔化して、自分の席に座った。
鞄の中から教科書とかを取り出す前に、あたしは机の中に手を突っ込む。
ここ数日何もなかったから、今日も大丈夫。
そう、思っていたのに。
「あ、うっ」
空のはずの机の中から出て来たのは、ノート。
開いちゃいけない。
わかってるのに、あたしはそれを手に取って、開いていた。
「あああああああああぁーーーーーっ!!」
一気に何かが吹き出た。
書いてあったのは、「どうして付き合えないんだ」という文字。
それがノート一杯に、赤い文字で、すべてのページに、余白なく書かれていた。
びっしりと。
ぎっしりと。
座っていた椅子を倒しながら立ち上がって、ノートを投げ捨てて、あたしは頭をかきむしる。
――もうやだっ。もうやだ! もうやだ!!
怖いよりも先に、もう何もかもがイヤだった。
こんな思いを抱いていたくなかった。
こんなところにもういたくなかった。
だからあたしは、駆け出した。
――やだっ、やだっ、やだっ、やだ!
それだけを心の中で叫びながら、教室を飛び出して走る。
「伊藤さん?」
廊下には間島君がいて、にっこりと笑いかけてくれたけど、返事をすることもできずに昇降口に向かう。
半分無意識に靴に履き替えて、そのまま家に向かった。
歩いて一五分の距離を何分もかからずに駆け抜けて、ブレザーのポケットから震える手で家の鍵を取り出して、玄関を開ける。
家の中に入った途端、腰が抜けたように立てなくなった。
靴を脱いで家の中に入ろうと、自分の部屋に行こうと思うのに、脚にも腰にも力が入らなくて、閉まった扉に背をもたせかけて、あたしは溢れ出す涙をそのままに、頭を抱えて声にならないうめき声を喉の奥から絞り出していた。
メールの着信音。
どれくらい経ったのだろうか。悲鳴を上げ続けて、疲れて、ボォッとしてるときに鳴り響いた音に、あたしはまた小さく悲鳴を上げる。
恐る恐る、上着のポケットに入っていた携帯を取り出して見てみると、授業をやってる時間のはずなのに、間島君からのメールが入っていた。
ホッと息を吐き、あたしはメールを開いて表示する。
突然教室を走っていったあたしのことを心配してるのと、大丈夫なのかと気にかけてくれる言葉に、あたしは堪えきれずにまた泣いていた。
大丈夫だと返信をしようとして、顔を上げたあたしは気がつく。
この時間、お母さんはいない。
仕事をしてるお母さんは、夕方にならないと帰ってこない。お父さんはもっと遅い時間。
仕事中はお母さんに連絡はつかないから、暗くなるまではあたしひとりだ。
もう一通、メールの着信。
心配だから家まで行くよという間島君からのメール。
どうしようかと少し悩んで、あたしはレオナとか親しい友達にしか教えてない家の住所を、間島君にメールで伝える。
――たぶん、大丈夫。
文化祭の実行委員で仲良くなった吉田君だけど、あたしの家の住所までは知らない。彼がここまで来ることはない。
もう少し冷静になって、体調が悪くなったとか言って保健室に行けばよかったとか、飛び出すより先に間島君に相談すればよかったとか思うけど、それも今更。
どうやら朝から曇っていた外はついに雨が降り出したらしく、あたしは玄関に座り込んだまま動く気力もなくって、静かな雨音を聞きながら座り込んでいた。
半分うとうととしてるとき、チャイムが鳴った。
* 4 *
――間島君が来てくれたんだ。
そう思って、どうにか立ち上がったあたしは、鍵をかけることも忘れてた扉を開く。
「あれ?」
少し開けた扉が、あたしの力じゃなく大きく開かれた瞬間、また座り込んでしまっていた。
遅れてやってきたのは、熱さ。
頭が痛い、というより熱くて、触ってみると、髪が濡れていた。
薄暗い玄関で手に着いたそれは黒っぽく見えて、水ではないそれがなんなのか、あたしは悟る。
血。
顔を上げると、そこにいたのは間島君じゃない。
穴が空いたような、闇の瞳。
「……なんで?」
そこに立っていたのは吉田君。
彼が右手にぶら下げてるバットからは、あたしの手に着いたのと同じ、黒っぽく見える血が滴っていた。
「なんでだよ」
地の底から絞り出すような声で、吉田君が言った。
「なんで、あんなことを言ったんだよ!」
闇の瞳であたしのことを睨みつけながら、吉田君が家の中に入ってくる。
熱さが痛みになって、頭から流れてくる血が止まらないのを感じながら、あたしはお尻を擦りつけてできるだけ彼から離れようと後退る。
かろうじて後退る力しか身体に入らないあたしは、廊下に上がることもできなくて、すぐに追い詰められてしまう。
「お前だろっ。お前が全部悪いんだろ! お前があんな話を他の奴にするから!」
吉田君が何を言ってるのかわからない。
確かに間島君には相談したけど、そのことだろうか。
――やっぱり、「貴方とはつき合いたくないの」って言葉は、言っちゃいけなかったんだろうな。
バットを振り上げる吉田君のことを見ながら、あたしはそんなことを考えていた。
頭を狙って振り下ろされてくるバットを、反射的に腕で受け止める。
何かが、折れる感触があった。
それから二度目の、三度目の、四度目のバットが、頭を腕で抱えて、玄関で身体を丸めたあたしに振り下ろされる。
その度に身体のどこかが壊れる感触があって、あたしは思う。
――あたし、死ぬんだ。
痛いはずなのに、その感覚はもうどこか遠くて、身体を打ち据えるバットを何度も感じながら、どこか冷静なあたしはそんなことを考えていた。
――もしかしたら、こうなるってわかってたのかも。
最初に、吉田君の告白を反射的に断ったのは、こうなるのがわかってたからかも知れない。
直感に過ぎなかったけど、彼からそう言う雰囲気を感じ取ってたからかも知れない。
それをはっきりとすることができなかったから、これからあたしは死ぬ。
――ごめんなさい。
誰に対してなのかわからなかったけど、心の中で謝って、あたしは意識を手放す。
「おい! 何やってんだ!」
「てめぇ! なんで来やがった!!」
吉田君と誰かが言い争うような、殴り合ってるような音が聞こえて来た気がしたけど、もうあたしには間島君のようにも思える声の主が誰なのか、はっきりとはわからなかった。
*
「大丈夫? 佳苗」
「うん、大丈夫。何とかなるよ」
朝、教室に入ると、真っ先に駆け寄ってきたレオナが心配そうな表情とともに声をかけてきてくれた。
冬休みも迫った十二月。あたしは学校に登校することができた。
吉田君にバットで殴られた怪我はかなり酷かったけど、思ったほどじゃなくて、死ぬことはなかった。
三日ほど生死の淵を彷徨って、一〇ヶ所くらい骨折して、三週間近く入院してたけど、期末試験前には退院して、登校することができるようになっていた。
最初に殴られた左腕はもちろん、肋骨とかも折れてて、ギブスの塊みたいになってるけど、あたしは生きてる。死にはしなかった。
レオナに手伝ってもらって自分の席に座って、教科書とかを出して机の中に収める。
もうさすがに、机の中に何かが入ってたりはしない。
吉田君は、退学処分になった。
だからもう彼に会うことはない。
正直吉田君と会うのは怖くて、二度と顔も見たくないくらいだったけど、いまは警察にいるそうだし、実家はまもなく引っ越すことになったそうだ。だから彼の顔を見ることは二度とないはずだ。
尾けられてでもいたのか、吉田君があたしの家に来たときに言っていた謎の言葉は、警察の人と話してるときにわかった。
あたしを校舎裏に呼び出したとき、無理矢理襲おうとしたんだと、そういう噂が流れてたんだそうだ。
告白された話をしたのは間島君だけだったけど、間島君の他にも校舎裏に入るのを見てた人がいたのかも知れないし、話をしたときに聞き耳を立てていた人がいたのかも知れない。
ネガティブな噂はアッという間に広まって、あたしの知らない間に野球部の退部勧告まで出されていたんだという。
襲われそうになったという話は警察の人に話して否定しておいたけど、元々あたしへの殺人未遂の罪の方が重かったから、否定したところで罪が軽くなるわけじゃなかったみたいだけど。
――でもこれでもう、怖い思いは終わり。
痛み止めを飲んでおかないと日常生活をまともに過ごせないほどまだつらいけど、もう吉田君のあの闇の瞳に睨まれることもない。
あたしは平穏な生活に戻って、明日から始まる期末試験を受けることができる。入院してた期間の勉強が遅れ気味だけど、今回のことを考慮して年明けに補習をすることで許してもらえることにもなってる。
だからもう全部終わり。あたしは平穏な生活を取り戻すことができた。
朝のホームルームのために入ってきた久しぶりの担任の顔を見て、あたしは大きく息を吐いていた。
痛み止めを飲みながらも授業を受けて、体育だけは見学して、六時間目が終わった。
「ちょっといい? 話したいことがあるんだ」
放課後になって、レオナに手伝ってもらって帰りの支度を調えたあたしに声をかけてきたのは、間島君。
彼はあのとき、あたしのことを助けに来てくれた。
彼が来てくれなかったら、たぶんあたしは死んでいたはずだ。
そのことは、他のみんなにも知られてる。
入院してたときのあたしは、親以外の誰とも会いたくなくて、面会謝絶にしてもらっていたから、間島君にはまだあのときのお礼を言えてなかった。
「じゃあ部活に行くね」
「うん。またね」
「うんっ」
レオナを微笑みで見送って、鞄を持ってくれた間島君の後について教室を出る。
彼が向かったのは校舎裏。
少し薄暗く、吉田君に告白されたときよりも肌寒くなった校舎裏に立って、あたしは間島君と向かい合う。
「つき合いたいからって、吉田は卑劣な奴だったね」
「……そうだね」
爽やかな笑顔を浮かべながら、間島君はそう言った。
クラスは違うけど、間島君と吉田君は確か友達だったと思う。けどさすがに、本性を現した彼をいまでも友達とは思っていないんだろう。
「ルーズリーフやノートに呪いの言葉を書いて伊藤さんの気持ちを追い詰めるなんて、本当に卑劣だよ。でも吉田も莫迦だよね。自分から嫌われるようなことをするなんて、あいつはよく考えてなかったんだろうね」
「うん……。でも、助かったよ。間島君に相談してなかったら、あたしは死んでたかも知れない」
「必ず駆けつけるって言ってたじゃないか」
「うん。ありがとう」
にっこりと笑う彼に、あたしも笑みを返す。
「――それで、だけど、伊藤さん」
両手に持っていた鞄を地面に置き、間島君は表情を引き締める。
何となく、次に言われる言葉がわかった。
彼が必死にあたしのことを助けてくれたのは、どんな気持ちがあったのか、鈍感なあたしでも、さすがに気づいてる。
「僕は君のことを守りたい。僕は吉田とは違う。僕は伊藤さんの、――佳苗のことが好きだ。僕に、佳苗のことを守らせてくれ」
真っ直ぐな瞳が、あたしのことを見つめていた。
それまでの柔らかいものとも、優しいものとも違う、真剣な表情。
彼はわたしのことが好きでいてくれる。
それがしっかりと伝わる、あたしだけを映してる瞳。
――でも。
「ごめんなさい」
そう返事をして、あたしは深く頭を下げる。
吉田君ことがあって、あたしは怖くなっていた。
お父さん以外の男の人とは、本当は近づくだけでも身体が震える。二度と吉田君と会うことがないのがわかって少しマシになったけど、いまこうして間島君と話すのも、身体が震え出しそうになっていた。
でも助けてくれた彼の前でそんな姿は見せられなくて、我慢していた。
「いまは、貴方とはつき合いたくないの」
刹那――。
空気が凍りついた。
顔を上げて見てみると、強張った表情で、穴の空いたような黒い瞳で、小さく首を傾げ、彼は言った。
「え?」
「NGワード」 了