プロローグ:最初の放課後
麗らか春の午後。
時折、春特有の強い風が吹いては、桜の花びらがひらひらと舞う。
そんな中、県立鳴海高校では、この時期特有のある壮絶な戦いが繰り広げられていた。
そしてここに、その戦いの被害者が一人。
「──つまり、こうして高校に入学したからには、新しい事を始めても良いんじゃないかな。放送部は楽しいよ。それに鳴校の放送部は強い。全国常連校だからね。全国大会の帰りには、部員全員で某テーマパークにも行くんだ」
用意されたパイプ椅子に座る新入生の桜木遥に、放送部部長だという三年生の男子生徒は熱く語った。
そう、鳴海高校ではいわゆる新入部員勧誘戦争が繰り広げられているのだ。それは入学式翌日である本日から約一週間、熾烈を極める。
かく言う遥も、HRが終わって教室でグズグズしている間に、彼によって視聴覚室に連行された。ついて来る途中に会った何人かの一年生も勧誘していたが、彼らは皆うまく断っていた。なるほど、あんな感じに断れば良かったのかと思って少し感心した時には、すでに視聴覚室の中だった。
遥は熱弁する部長の顔をちらりと見て、出されてから一口も口を付けていない紙コップのオレンジジュースに目を落とす。最初に飲むタイミングを失ってから、どうも飲み辛い。
「桜木さんは声が良い。それに舞台映えもする。きっと活躍出来るよ。──おっと、ジュースを飲んでいないね。オレンジは嫌いだった?」
「いえ……。頂きます」
遥は紙コップを両手で抱え、ソロソロと飲む。少しぬるかった。
「おっと、もうこんな時間か。今日はありがとう」
その言葉に、ようやく遥は立ち上がる。そんな遥を見て、違う場所で何人かの一年生に対応していた女子生徒が見送りにきてくれた。
「今日はありがとう。あとゴメンね。彼、強引な所があるから」
「いえ、そんな事は」
「遠慮しなくても良いよ。──もし良かったらまた来てね」
「あっ、はい。でも……」
説明を聞いて、放送部に少し興味が湧いたのは事実だ。全国大会や某テーマパークにも惹かれた。彼の言う通り、新しい事に挑戦するのも悪くないかも知れない。
でも。
「私、絶対に入るって決めた部活があるので」
「そっか。じゃあまたね。その部活、頑張って」
「ありがとうございます。……失礼しました」
遥は視聴覚室の扉を閉めた。口の中にオレンジの風味が残っている。彼女たちに少し悪いかな、と思った。
部室はどこだろう。
遥は校内を彷徨っていた。校内の至る所に貼ってあるポスターの地図では部室の場所が分かりにくい。もっと詳しく場所を聞いておけば良かったと後悔した。
音が聞こえるから、近くまでは来ているのだろう。きょろきょろと辺りを見回していると、
「あれ、遥。どこ居たんだ?」
「……お兄ちゃん」
兄である三年生の桜木順が立っていた。
放課後の校内を二人で並びながら歩く。
「何で迷ってたんだ? お前のクラスにもウチの部員は行っただろ」
「放送部の部長に捕まってたから」
「ああ、山田か。なら仕方ない」
順はからからと笑った。
「お兄ちゃんこそ何でここにいるのよ? 部活は?」
「ちょっと先生に報告。部長って結構忙しいんだ」
少し歩くと、一年生用の昇降口に来た。「お前靴履いてそこで待ってろ。俺もすぐに来るから」
「……部室って外にあるの?」
「ポスターにそう書いてあっただろ。──じゃあ待ってろよ」
順はすぐに見えなくなった。遥は言われた通り、靴に履き替える。
「外にあったのか……」
てっきり校内にあるあるものとばかり思っていた。これでは見つからないのは当たり前だ。
「行くぞ。──緊張する?」
「ちょっとだけね」
音はだんだん近づいてきた。部室が近い証拠だ。一人だけで乗り込むのは心細かったに違いないが、こういう時には兄の存在がありがたい。
部室まであと五メートルというところで、一人の少女が声を掛けてきた。
「あれ、桜木くん。どうしたの?」
「ちょっと職員室に行って来たんだ。それより二年は帰って来た? 今年は一年、結構入りそうか?」
「まあまあかな。今はパートごとで見学してもらってるとこだよ」
遥は二人の顔を交互に見た。会話の内容からして、彼女は部員に違いない。おそらく三年生だろう。
「ねえ桜木くん。その子、もしかして……」
「ああ、妹の遥。コイツもクラだから、面倒見てやってくれない?」
いきなり自分の事が話題になって、遥は少々面食らった。
「うん、分かった」
「それじゃあよろしく」
順はそれだけ言うと、部室の中に入ってしまった。もう少し、せめて部室までは一緒にいてくれてもいいのに、と思う。高校生にもなって兄妹で一緒にいるのは恥ずかしいのだろうか。
「よろしくね、遥ちゃん。私はクラのパーリーの田村麻美子です」
そう言って微笑んだ彼女は優しそうな感じだから、遥は緊張を少し解いた。
「はい。よろしくお願いします、田村先輩」
これからお世話になる先輩。第一印象は大切だ。遥はハキハキと挨拶をした。田村先輩もにっこり微笑んだ。
部室はすでに目の前にあった。木造の平屋。結構古い建物だが、掃除が行き届いていて、汚いという印象はない。扉横にはコンクリートのブロックで囲まれた小さな花壇があって、ミニトマトが植わっていた。花壇には手作りの白い看板が刺さっていて、黒いビニールテープで"園芸部"とあった。ちなみにこの学校に園芸部はない。
遥は部室に──鳴海高校吹奏楽部の部室入った。
「部室内ではスリッパを履いてね。あっ、靴は貸して。ここに入れておくから」
「ありがとうございます」
田村先輩は遥の靴を、部室に入ってすぐ右の靴箱に仕舞った。遥は用意されていた来客用の茶色いスリッパを履く。
「あ〜しまった。今日はもう少ししたら合奏だから、パートの見学はもう出来ないよね。ちょっと待ってて」
先輩はすぐに積み上げられていた丸イスを十個ほど並べた。
「もう少ししたら合奏だから、ここで待っててもらっても良い?」
「はい。分かりました」
「あまり相手出来なくてゴメンね」
「いえ、大丈夫です。全然構いません」
とりあえず遥は鞄を抱えてイスに座った。そのままぼんやりしていると、楽器と譜面台を持った部員が次々と入って来る。見学をしていた一年生は、何人か帰って行ったようだ。
「あれ、もしかして桜木さん?」
その声に振り向くと、一人の女子がイスに座るところだった。
「やっぱり! 五組の桜木さんだよね。あたしは同じクラスの原田尚美。覚えてない?」
遥は記憶を辿ってみたが、そんな名前の人がクラスにいたような気がしたけど、顔の方は全然覚えていなかった。もともと人の顔と名前を覚えるのは不得意だからしょうがない。
「ごめん。ちょっと覚えてない……」
「あっいいよいいよ。あたしは桜木さんを中学校の頃から知ってたんだし。ほら、去年の県大会。ソロ吹いていたよね。スッゴく上手だなって思ってたんだ」
そういえばそんな事もあった。手放しで賞賛されるのは照れくさい。
「そんな事ないわよ。私なんてまだまだだだし。──原田さんもクラ?」
「うん。って言ってもあたしはバスクラだけどね。あ〜それから名字は何かイヤだから、名前で呼んでくれない? ほら、クラスも同じだしね」
バスクラ──バスクラリネット。遥が吹く一般的なBクラリネットよりずっと大きく、一オクターブ低い音が出るクラリネットの仲間だ。遥も中学校の時に吹かせてもらった事があるが、情けない音しか出なかった。
「バスクラか……」
「そう。だから入部したらパートも同じだよ。これからよろしく! ──遥って呼んでいい?」
「いいわよ。こちらこそよろしく、尚美」
友達が出来た。しかもクラスも部活も同じ友達。
これは良いスタートだ。遥は満足して、前に向き直った。
遥の中学校から鳴海高校へ進学した同級生は、十人もいなかった。その中に遥の友達は入ってない。そして自分は、兄ほど明るい性格ではないと十分承知している。最悪、友達無しで過ごす三年間も覚悟していた。
「ほら遥。今から基礎合奏やるみたい」
尚美の声に顔を上げると、二人の女子生徒が前に出ていた。おそらくコンサートミストレスなのだろう。メトロノームとハーモニーディレクターを使って、部員たちに指示を出していく。
いつの間にか丸イスは満席になっていた。二人ほど立っている人もいる。
「ハーモニーディレクターを弾いている方は知ってる。長谷川先輩っていうホルンの先輩だよ。中学校が一緒だったんだ」
「もう一人は田村先輩。クラのパートリーダー」
「へ〜。同じ学校?」
「ううん。さっきちょっと話をしたから」
一定のテンポでリズムを刻むメトロノーム。
クラリネットから始まったロングトーンは、サックス、ホルンと重なり、部室に約五十人の音が響き合う。吹奏楽部の風景がそこにあった。
基礎合奏は二十分ほどで終わった。やがて顧問で指揮者の野村先生がやって来て、指揮台に上がる。四十代前半の、少しお腹が出た先生だ。黒いウインドブレーカーを着たその姿は、ただのおじさんに見える。
「起立、礼」
「お願いします」
部長である兄が号令を掛け、部員たちは礼をして座る。
「基礎合奏はもういいか。じゃあ課題曲やるから出して」
部員たちは譜面台に置いたファイルから楽譜を探す。それが一段落して、野村先生は指揮棒を振り始めた。
最初は一部の木管楽器とシロフォンによる前奏。遥はこの曲に聞き覚えがあった。今年度の全日本吹奏楽コンクールの課題曲1だ。今年の鳴海高校は、夏のコンクールでこの曲を演奏すると順は言っていた。遥も幾度となくCDを聞いた。華麗で壮大な曲だ。
少しずつ楽器が増えてゆき、曲は徐々に盛り上がる。そして金管楽器も入って、前奏は終わった。
先生が順に合図を送る。ここからはファーストトランペットのソロなのだ。
順は危なげなくソロを吹き終えた。たった八小節だけだったけど遥は、やはり兄は上手いと思った。やがてメロディーはクラリネット、ホルンと移行し、曲は中間部に差し掛かる。
「さっきペットのソロを吹いたカッコいい人って部長さんだよね。やっぱ上手いな〜」
「うん、まあそうね」
「遥、知ってる人?」
「……ウチの兄」
「マジで!?」
中間部のゆったりとした旋律も終わり、曲は主題に戻った。クライマックスに向け、どんどん盛り上がる。そして曲は終わった。
圧倒的な迫力。やはり高校の吹奏楽は、中学校とは全然違う。気づいたら拍手をしていた。周りの人たちも拍手を送っている。一曲丸ごと通したのは、デモンストレーションも兼ねていたのかも知れない。
遥は無性にクラリネットを吹きたくなった。あの中で一緒に演奏したいと思った。部活を引退してからこっち、眠っていたクラリネット奏者としての血は、今の演奏で完全に目覚めた。
「スゴいね……」
「うん……」
「早く入部したいなあ……」
「うん……」
思うのはみな同じようだ。遥と尚美は、この日の練習を最後まで見届けた。
「おい、待てって遥!」
自宅マンション最寄り駅。帰宅ラッシュでそれなりに人口密度が高い構内で、遥は自分を呼ぶ声に立ち止まった。すぐに兄が追い付く。
「一緒に帰るか?」
「うん」
まだ日は完全に暮れていなかった。遠い空は、うっすらと青み懸かっている。
「ブラスどうだった?」
「スゴかった。やっぱり中学校とじゃ全然違うのね」
「あったり前だよ」
こうやって二人で帰るのも久しぶりだ。遥は順と違う中学校だったから、実に小学校以来となる。
「それで? ブラスに入るって決めたのか?」
「うん。元からそのつもりだったし」
「じゃあ初めてだな。お前と一緒の部活になるのは」
「そうね」
話していると、すぐにマンションに着いた。エレベーターで五階まで上がる。
「これからはお前も家にいるんだから、夕飯は交代で作るぞ。でも今日は俺が作ってやるよ」
「わかった」
玄関前で制服のポケットから鍵を取り出した順だったが、しかし扉は開いていた。
「お帰り。順、遥」
「あれ、母さん今日は早かったの?」
順の問いに、母親は笑いながら答えた。
「そうなのよ。夕飯は作ってあるから、あんたたち着替えて来なさい」
「へーい」
「わかった」
遥は自室に入った。制服をハンガーに掛ける。中学校のセーラー服とは違う紺のブレザー。それを眺めているうちに、自分が高校生になったという事を強く実感した。
明日の放課後からは仮入部が始まる。遥は、早くクラリネットを吹きたいと思った。