胴桐撫子:鬼頭雄姿 ④
初めて入ったゲームセンターは、思ったよりも楽しくない所だった。
最近できたばかりなのか、外観は小奇麗だったが、自販機の傍には見るからに素行の悪そうな人間がしゃがんでたむろしていて、灰皿とゴミ箱の回りは入れそこなったゴミが散らかっていた。小学校の頃、入ってはいけない場所と言われていたのも納得の様子だ。
そんな近寄りがたい出入り口に、無言で突き進んで行く雄志の背中が、撫子には何よりも頼もしく見えた。遅れないようにその後ろを雛鳥よろしく付いて行き、アルバイトの募集ポスターが貼られた自動ドアを越える。
一歩足を踏み入れた瞬間、全身でわかる程の雑多な爆音と、鼻に付くタバコの臭いが撫子を迎えた。視界は薄暗く、そのくせゲームの画面がピカピカと光って煩わしい。こんな場所で遊びに興じられるなと、撫子はゲームセンターへの興味を入った瞬間に殆ど失う。
こう言った場所に通い慣れていそうな雄志はどうなのだろうかと、視線を右隣に向けると、短い髪の毛を掻き混ぜて顔を顰めていた。その表情の原因が何なのかは知らないが、これはさっさと帰った方がお互いの為だろうと、撫子は周囲を見渡して姫に命令されたプリクラの筐体を探す。
それらしいものは直ぐに見つかった。入り口から向かって左。ドリンクコーナーのすぐ横に二台程、派手な色のカーテンが下がった箱型の機械があった。近づいてみると、プリント倶楽部と大きく派手な文字で書かれており、プリクラが略語だったことに少なからず驚いた。
「あの、プリクラ。いいですか?」
騒がしい機械の音に負けないように、撫子が声を大きくして雄志の顔を窺う。
自転車での移動中にプリクラを取る旨は知らせていたので、雄志は無言で頷くと怯むことなく、薄い紫色のカーテンを潜ったそれを見て、この小さな箱の中に雄志の巨体が収まるのか、撫子は少しだけ不安になった。
結果から言えば、予想通り無理があった。この筐体が普通のよりも小さいのか、それとも雄志が大き過ぎるのか……恐らく両方だろうが、これでプリクラを取ると言うことは、自転車ほどで内にせよ、かなり密着しないと不可能だ。二人乗りしておいて今更だが、それはそれ、これはこれだ。できれば遠慮をしたい。
二人が入れないことを理由にこの場を断ることも可能だが、プリクラは写真と言う証拠が残るため、姫への言い訳が利かない。もし命令を聴かなければ、姫は先週の万年筆のことを教師に話すだろう。あの女子グループが騒げば、いずれは親に苛めのことがばれてしまう。
親に知られることは何よりのタブーであり、それを考えると退路は既にない。撫子に残された道はプリクラの中に入ることしか残されていない。
ここまで姫が計算していたにしろ、していないにしろ、えげつなく効果的な手を選んでくるものだ。撫子は溜息を吐くと、瞼を硬く閉じて覚悟を決める。
「じゃあ、撮りましょうか」
何故か入口の前で一礼した後、撫子は狭い空間に身を滑り込ませる。小さな頃、押入れに隠れて美亜と過ごした半日を何となく思い出した。あの時はどうして押入れに入っていたのか覚えていないが、あの時以上に心臓は悲鳴を上げていた。
自然に顔は上気し、なんだか足元もおぼつかない。王毅生徒会長のソロライブで興奮して倒れた人間のことを、撫子は大袈裟な表現だと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。人間は気が昂りすぎると倒れることを、身をもって実感せざるを得ない。
雄志を異性と意識すればするほど、心臓も指先も呼吸も言うことを聞かなくなり、プリクラのアナウンスも上手く聞き取れない。
それでも、しつこく流れるアナウンスに従い、撫子は何とかプリクラを取り終えることができた。過大な表現かもしれないが、やり遂げたような達成感すらあった。
画面の下から出て来た努力の結晶を掴むと、撫子は筐体から飛び出し、熱くなった顔を手で仰ぐ。
「あ、ああありがとう。雄志君」
姫から強制された名前を呟いて撫子が頭を下げる。その勢いに髪の毛が四方に散らばるが、そんなことを気にする余力もない。
「先輩?」
その様子が不審に映ったらしく、雄志がしゃがみ込んで撫子と目線を合わす。
「なんでもないです」
眼を背けて即答すると、雄志はそれ以上何も言うことはなかった。
相変わらずの不干渉振りに、安堵しながら右手に握ったプリクラに眼を落とす。どちらも消極的だったために、落書きや効果はまったく入っておらず、プリクラと言うよりは証明写真染みている。もっとも、身を寄せ合った男女が映っている写真は履歴書には貼れないので、二十枚の写真は間違いなくプリクラなのだろう。
色気も何もないプリクラをどうしようかと迷っていると、雄志が学生服の胸ポケットから携帯電話を取り出した。最初は何事かと思ったが、電話がかかって来たようだ。着信音は聞こえなかったが、雄志の大きな掌の中で震えているのが確認できた。
「すいません。大木からです」
律儀に誰から来たかを知らせると、ズボンのポケットに手を突っ込んで雄志は財布を撫子に手渡す。突然の出来事に目線が雄志の顔と二つ折りの茶色の財布を三往復する。
「好きなの飲んでください」
「でも……」
「プリクラ代払いませんでしたから」
断る言葉を入れる間もなく雄志は電話に出ると、出入り口に向かって走って行った。身体の大きさに似合わぬ機敏さで、何人かの人間が驚いた表情で雄志を見ていたのがおかしかった。
雄志の姿が見えなくなるまで見送ると、撫子は雄志の財布をカバンの中にしまい込んだ。好きな物を飲めと言われても、人の財布を開けるのは気が引けた。それでも、緊張によって喉は乾いていたので、スカートのポケットから小銭入れを取り出して、自販機の前に立つ。即決で、滅多に飲まない赤色をした炭酸飲料のボタンを押した。
がらがらと大袈裟な音を立てて落ちてきた缶を取り出し口から掴み取り、撫子は冷たく弾けるそれをゆっくりと喉に流し込んだ。
「私、なにしてるんだろ」
飲みなれない炭酸飲料の甘さと冷たさに、心臓は通常営業に戻り、冷静さを取り戻した思考がそんなことを考えた。
同級生に苛められて、家族には嘘を吐いて、成り行きで付き合うことになった後輩に気を使わせて、一体自分は何がしたいのかと情けなくなってくる。
姫に対する嫌悪よりも、家族に対する背徳よりも、雄志に対する罪悪よりも、自分自身の脆弱さに腹が立った。
どうして強くなれないのか、どうして戦えないのか、どうして反論できないのか。逃げるわけでも、戦うわけでもなく、ただただ言いなりとなっている自分が嫌いだった。
それを証明するように、プリクラに写った撫子は酷い表情をしていた。自己嫌悪の上に笑顔を貼り付けただけの、今にも泣き出しそうな顔。
この写真を撮った時はそんなことを考える余裕は何処にもなかったはずだが、それでもやはり心の底は表れてしまうものらしい。名は体を表すという言葉に嘘はないようだ。これには真実が確かに写っている。
シートの上に鏡合わせをしたように並ぶ自分の表情は、過去も現在も未来も暗示しているようで嫌気がさしてくる。
昔から撫子は周囲に流されて生きてきたし、今もその結果としてこの様だし、きっとこれからもその延長線上だろう。何処かで自分を変えないといけないと思うのだが、きっと何処まで行っても撫子は撫子のままだとも思う。
美亜がいつかの朝に言っていた。『私に私をやめろって言うのかい?』と。どれだけの欠陥も、自分だと認めて割り切れる彼女に取っては、究極の自己肯定の言葉だろう。それとは対象に、撫子にしてみれば変わることなどできないと言う、呪いのような言葉だ。
どうして同じ血を引いているのに、こうも違うのだろうか?
頭の中をぐるぐると回り続ける、黒いヘドロのような思考が行き着く先を想像して、撫子は慌てて俯いた顔を上げた。
「お姉ちゃん。ごめんなさい」
きっと、あのまま考えていたら、姉と自分の繋がりを否定していただろう。いや、それだけならまだいい。姉を羨んだ挙句、嫉みまで感じ始めていたかもしれない。家族に対する劣等感なんて、感じたくもない。
孤立してしまった自分に取って、家族だけは最後の安らぎだから、今まで通り大好きな人達であって欲しかった。
かぶりを振って、残ったジュースを一気に飲み干す。空になった缶を赤色に塗装されたゴミ箱に捨て、撫子は視線を自販機から騒がしいゲームセンターの中心に視線を向ける。見えるのは、騒がしい機械の群れと、その正面に座り画面に従ってボタンを押す同じ年頃の男達。その後ろには何人か並んでいて、画面を覗き込んでいる。
普段ゲームの類をやらない撫子にとって、その光景は異様でしかなく、多くの人間を惹きつける画面に少しだけ興味が沸いた。それに、このまま立っていても建設的な考えができるとも思えなかったので、気分転換を兼ね、画面を覗こうとゲーム機の方に足を向ける。
人垣の間から覗き見ることのできたゲームの画面では、二人の屈強な肉体をした男達が拳で殴り合っていた。勝手なイメージだが、いかにも男の子が好きそうなゲームで、撫子にとっては理解がしにくい分野であった。隣の画面を見ても似たようなもので、興味が刺激されるような物はなかった。
このまま見ていても仕方がないと、撫子は通学用のカバンを持ち直した後、中々戻ってこない雄志を探すことにした。喧騒とタバコの臭いの中に立っているくらいなら、あの鬼の隣の方が何倍もマシだった。何を考えているかわからない仏頂面は、姫の笑い顔よりも、ゲーム画面を真剣な表情で眺める男達よりも、よっぽど好感が持てる。
自分の中では意外にも雄志の評価が高いことに驚きながら、撫子はゆっくりとその場で回れ右をした。
「君、北高の生徒でしょ? 一人?」
景色が半回転すると同時、目の前には見知らぬ茶髪の高校生が立っていた。違う高校の生徒らしく、ブレザーを着崩し、ネクタイを緩めた軽薄そうな雰囲気の男で、その後ろには、野球部のような丸刈りの男が、薄く笑っていた。
「おい、ほんとにナンパかよ」
突然の出来事に撫子はその言葉の意味も分からずに二人の顔を交互に見やる。
「友達と来たの? あんまり来てない風だけど」
「え? あの、私……」
「格ゲー好きなの? 見ていたけどさ」
馴れ馴れしく話しかけてくる茶髪に、少なくない不信を抱く撫子。下校する前に会った大木樹にも言えることだが、面識もないのに笑顔で寄ってくる人間は不信がるべきだと教えてくれる類の表情だった。後ろに立つ坊主頭も似たようなもので、困った撫子を見下している表情は姫のそれに近い。
「何だったら、教えてあげるよ? 君、初めてっぽいし。奢ってあげる」
明確に下心が隠れている茶髪の言葉に、撫子は首を横に振って否定する。
「いいよ? 気にしなくても。今日バイト代入ったばっかりだから、何なら駅前のファミレスいかない? ゆっくり話そうよ」
が、男は撫子の言葉に耳を貸そうともせずに、強引に話を進める。坊主頭の方も、「それなら、フランシーヌにしないか?」と会話に加わり、より拒否しにくい状況になっていく。
口下手な撫子が男二人に何かを言い返せるわけもなく、おどおどと目を右に左にと送る。
「あ」
救いの手は、意外と簡単に現れた。
「ん? 手に持ってるのプリクラ?」
撫子の視線が、出入り口の自動ドアを潜る巨大な姿を捉えた。その全てを威圧するような迫力に、撫子は胸を撫で下ろす。
「何だ、友達と来てるの? 何処よ?」
坊主頭が撫子の左手からプリクラを奪い取る。女友達と来ているとでも思ったのか、男の表情は嬉々としていたが、そこに映った人間を見た瞬間笑みが凍ったのを撫子は見た。
「鬼頭、雄志」
畏怖のこもった呟きに、
「呼んだか?」
間髪を入れずに、こちらに歩いて来ていた本人が相槌を打つ。その落ち着き払った感情の感じられない声に、先ほどまで笑っていた茶髪と坊主の顔からは笑みが消え、瞳の焦点が合わなくなっていた。
粉砕鬼と呼ばれるだけのことはあるようで、雄志の顔は効果的だった。もしかしたら同じ中学校の同級生だったのかもしれないが、軟派な二人は逃げることも忘れてその場に立ち尽くすだけだった。
「ゆ、雄志君。来たばっかで、あれですけど。早く帰りましょう」
何とかこの場が収まったことに安堵して、撫子は雄志の後ろに隠れて学生服の裾を掴むと、出入り口を顎で指した。
「ええ、少し待っていて下さい」
いつもと変わらない仏頂面に、明確な怒りを込めた雄志が、視線は男達を睨みつけたまま、撫子の言葉に答える。
「お前ら、俺が誰かは知っているよな?」
静かな問いに、ナンパ男達の首が大袈裟に縦に揺れる。その様子を冷たい瞳で見下すと、雄志は背中に隠れた撫子の頭の上に大きな掌を被せた。
「ひゃう」
「撫子先輩は俺の彼女だ」
そして、ハッキリと断言した。
「手を出したら、二年前を嫌でも思い出させてやる」
有無を言わせぬ威圧的な雄志の言葉に、二人は慌てて背を向けると店の奥の方に引っ込んで行った。小さくなっていく背中を見送った後、雄志は溜め息を吐くと、撫子の頭の上から手をどける。少しだけ名残惜しいその手は、握り締めてポケットに突っ込まれた。出口に向かってゆっくりと歩き始める雄志の歩調は、撫子に合わせてくれているようだ。
撫子は耳まで真っ赤にして俯きながら、雄志の横に並ぶ。目は何故か雄志の手を追ってしまい、心臓はプリクラを撮ったときの比ではない程に鼓動を刻んでいる。
頭の中には雄志の先程の台詞が何度も何度も再生され、思い返すだけで喉が渇くような錯覚がした。
まさか、雄志の口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。今の今まで、何故雄志が告白を受け入れたのかわからなかったが、撫子はなんとなく理解できた。
誰かに『好き』と言われるのが、ここまで嬉しい物だとは思いもよらなかった。不謹慎ながらも、姫に言われた忌々しい命令に感謝するくらいに。
久しく忘れていた、自分のことを認めて貰えた喜びが、撫子の暗く沈んでいた思考を一気に引き上げる。
「あの、雄志君」
顔を上げて、撫子は雄志の横顔に呼びかけた。変わらない仏頂面は撫子のように紅潮することもなくいつも通りではあったが、「なんですか?」言葉は若干柔らかい気がした。
ゲームセンターの喧騒に負けないように、撫子は一歩だけ雄志との距離を詰めた。
「さっきは、ありがとうございました」
雄志を騙している撫子が言っては良い台詞ではないことは理解していたが、言わずにはいられなかった。
「その、嬉しかったです」
感謝以上の意味を込めた言葉に、雄志は何も答えなかった。ただ、顔を撫子から背けたことが全てを象徴している気がした。