盃雀:胴桐美亜 ①
電話、出たくないな。
少々わけありの十八歳。盃嵐の幼妻である盃雀は、枕元で流行りのCMソングを流す携帯電話を冷ややかな目で見下した。今時時代遅れなフリップ式の携帯のディスプレイに踊る名前は『胴桐美亜』。半年前に嵐の友人が連れて来た年上の後輩で、仕事も荒事も得意と、非常に優秀な社員なのだが、非常識を知らないのが彼女の欠点だった。
それを証明するように、現在時刻は午前の四時を少し回ったところ。気が短いのか長いのか、十秒間隔で鳴ったり鳴らなかったりを繰り返す携帯電話を、雀はできることなら無視したかった。
こんな風に電話をかけて来る時点で、電話の内容は百パーセントどうでもいいことなのだろうが、仕事の電話だった時のことを考えると出ないわけにはいかない。ふざけた内容だったら、会社の財布を握っている権限を使って給料を減らしてやろうと心に決めて、雀は携帯電話を手に取った。
「もしもし? 雀です。どうかしましたか? 美亜さん」
着信音が流れた瞬間に通話ボタンを押して、雀はなるべく平常通りに電話に出た。
『おはようございまーす。雀先輩。私だよ、私』
電話の向こうも平常運転らしく、声に色が有ったら山吹色に輝いていることだろう。
「『おはよう』じゃあないです。太陽が昇ってから言いましょうよ、それは」
『しかし雀先輩。こんな時間まで起きてるんだな? 書類仕事? それとも、緊急? どっちにしろ、呼んでくれれば手伝ったのに。先輩は若いけど、夜更かしはやっぱ駄目だぜ?』
「いえいえ。書類は昼間の内に終わりましたし、緊急の仕事の方も有りましたが、関守さんに行ってもらいました」
『そうか。じゃあ、嵐社長と夜の営みを……』
「嵐は昨日から出張中です。知っているでしょう?」
『じゃあ、ゲーム? 超低レベルクリアとかのやりこみ系なら、コツとか教えて下さいよ』
「あなたに起こされたんですよ! 馬鹿言ってないで、要件を言ってくれますか?」
何故、自分が起こしてしまったと言う考えが真っ先に浮かばないのだろうか? 雀は睡眠欲に負けそうな頭を掻きながら、美亜の思考回路を疑う。
『マジで? 起こしちゃいましたか。申し訳ない。で、用事なんだけど、明日の朝、駅前に集合。それだけです』
全く悪びれる様子のない美亜の態度に、思わず溜め息が毀れる。
「美亜さん。何時何処で誰が何を何故するんですか? 連絡はきちんと正確に手短に伝えて下さい。社会人の基本ですよ?」
年上の後輩と言う、普通だったらやりにくい関係のはずなのだが、雀の物言いに加減はない。雀にしてみれば、美亜はひたすら手のかかる姉であり、美亜から見た雀は頼りになる上司であり、お互いの認識に差異がないので問題にもならない。
『ああ、そうだった、そうだった。ごめんな、先輩』
「まったく。それでは、要件をどうぞ」
『明日ってか、今日だな。今日の朝十一時頃、妹をストーキングするから駅前に集合で』
言えたぜ! 褒めてくれ! と犬のように尻尾を振って喜んでいる美亜の姿を想像して、雀が再び深い溜め息を吐く。どうして、詳しく説明した方がより難解な文章になるのだろうか?
「妹って、撫子ちゃんですか?」
『お、知ってますか。流石は我が妹! こんな田舎で埋もれる逸材じゃあないからな』
「美亜さんのお話の中に何度か出てきましたからね。嫌でも知っていますよ」
休憩時間に美亜が話すことと言えば、妹か週刊漫画に対する厳しい評価が大半で、社員で美亜の妹の名前と、彼女が小学館派だと言うことを知らない者はいない。しかしストーキングにまで手を出しているのは想定外だった。流石は非常識を知らない女である。
「で、どうして可愛い撫子ちゃんをストーキングするんですか?」
『そうなんだよ、聴いてくれよ先輩! あいつ、明日……じゃあない、今日か! 今日、映画を見に行くみたいなんだ!』
「映画くらい、女子高生は見に行きますよ。ハリウッドの派手な奴じゃあなくて、アイドル俳優が出るようなのを見に行くんじゃあないですか?」
最近はもっぱら借りて見る方が多くなってしまったが、雀も映画を見るのは大好きなので、それが一体どうしたんだと言葉を返す。その途中、ふと美亜が慌てる理由に見当が付き、「あ、もしかして彼氏とですか?」冗談めかして言ってみた。
『断じて違う!』
すると、ハウリングする美亜の怒声が携帯から飛び出し、雀は顔を顰める。ここまでムキになると言うことは、もう完全に彼氏だろう。過保護な姉が、彼氏のできた妹を心配している。そんな所だろうと辺りをつけて、雀は早口で捲し立てる美亜の言葉に耳を傾ける。
『私はさ、昨日見ちまったんだよ。撫子が母さんに明日映画を見に行くって報告しているところを! あ、あいつは外出する時には母さんに報告してから出かけるんだ。可愛いだろ? 本当にそう言う子供らしい所と、最近ふと見せる、大人っぽい表情が堪らないんだ。おっと、脱線! あいつが映画を見に行くなんて滅多にないから、不思議だなと思って盗み聞きを続行していたら、友達と行くの? って質問に対して、少し困ったように『うん』と頷いたんだ。あれは絶対に友達とじゃあないと私は思うんだ』
「ふわー。まあ、美亜さんが言うなら、そうなんでしょうね」
聞き流しても問題なさそうだと判断して、雀は欠伸を隠さずに相槌を打つ。
『その通り! わかってくれるよな、雀先輩! あのカオスな仕事場の唯一の良心!』
「友達じゃあないなら、彼氏ですよ。親御さんにばれるのが恥ずかしかったんですよ」
『否! 断じて否だ! やっぱり否だ! 百人乗っても大丈夫!』
二十歳を過ぎた乙女のギャグとは思えない台詞に、雀はこのまま通話を切ってしまおうかと思うが、それでは直接この家まで来る可能性があるので雀は仕方なく頷く。
「そうですね」
『恐らく、撫子の可愛さに眼を付けた、慧眼男に誘われたんだろうな。きっと、撫子は誘いを一度は断ったんだけど、しつこくお願いする男に負けて、撫子は広い心で一度だけデートを許したんだろう。野郎、撫子の心の広さにつけ込みやがって』
怒涛の如く電話から流れ出てくる言葉に呑み込まれそうになりながら、雀は呆れ果てる。一体、何処からそんな妄想が出て来るのだろう?
何度も写真で見た(見せられた)撫子は、名前の通り長い黒髪が似合う小柄な少女で、あれほど可愛ければ引く手は数多だろう。その御淑やかな様子が映った写真からは、二人の血の繋がりは怪しく見え、社内では美亜の妄想説が出て来るほどだ。写真は盗撮か、ネットで落とした物だろうとも言われている。
『そう言うわけで、さりげなく邪魔をしたいから、協力してくれよ?』
「何がそう言うわけでなんですか? それに、ストーキングからレベルアップしていますよ。いや、ダウンですか? でも、まあ、わかりました。どうせ明日は休みですし、生撫子ちゃんもみたいですし、協力しますよ」
このまま美亜を放っておいたら、相手の男を殴り飛ばしかねないと判断して、雀は面倒だが首を縦に振った。正常な判断かどうか微妙だったが、もうそろそろ眠気に耐え切れなくなった脳髄では、その他の判断は不可能だった。
「でしたら、九時半にフランシーヌ集合しましょう。あそこなら、駅前も覗けますし」
『いや、いっそのこと今からフランシーヌ行かないか? 私はもう、身体中を駆け巡る熱い血潮が止まらなくなってきたぜ!』
「……モーニング奢ってあげますから、九時半集合です」
『わかりました。先輩、夜分遅く失礼しました』
その言葉を最後に通話は切れ、雀は携帯を枕元に放ると、
「この時間が迷惑だって常識はあるんだ」
やはり非常識を知らない後輩だと嘆いて、再び眠りについた。