鬼頭雄志:胴桐撫子 ①
粉砕鬼、鬼頭雄志に取って、胴桐撫子と言う人間は特別な存在である。それは他の人間と差別や区別分別していると言う意味に置いてではなく、自分の姉と同一視していると言う意味だ。
現在の寡黙で無骨な性格からは想像できない程、過去の雄志は姉に依存していた。彼女の死とその原因を重く捉えていた雄志は、明確に撫子と言う人間を姉と重ねていた。もっとも、撫子の姿形が似ているわけでも、雰囲気が似ているわけでも、性格が似ているわけでもない。
撫子を見ると、姉の死因を思い出してしまうのだ。
それが、あの日撫子の告白をその場で受けた理由である。二年ぶりに感じる姉の気配が、雄志の心を決めた。
今度は、失敗しないようにしようと。
それなのに、雄志は再び失敗をしてしまったようだった。
月曜日の夕方から、撫子との連絡が一切取れないのだ。思い返せば、懐かしい友人である結愛と三人で昼食を食べた時から少し表情には影があったし、土曜日に家に招いた時も、何処か辛そうな顔をしていた。
もっとも、後からならどうとでも言える。見間違いや勘違いだった可能性も高い。重要なのは、連絡が取れないと言う現状と、撫子が今どうなっているのか、それに対処するためにどう動くかだ。感情に任せて安易に行動することの危険さは、二年前に嵐から嫌と言うほど身体に覚えさせられた。
しかし安直に身体を動かす以外の行動は思いつかず、何もしないまま今日を迎えてしまった。常人よりも広い歩幅で、教室へと向かう廊下を進みながら雄志は舌を打つ。後悔と懺悔のこの二年間が、結局は無為に過ごしただけだったと言う事実が、雄志を苛立たせていた。その感情の昂ぶりは身体の外に漏れているようで、廊下で話し込んでいた同級生たちは、雄志を見ると目をそっと逸らしていた。腫物を扱うような同級生の態度は今に始まったものではないが、最近は大木樹も接触を控えているので余程なのだろう。
まさか、樹に話しかけられないことで不安を感じるなんて、ヤキが回ってしまったとしか言いようがない。雄志は右手で頭を押さえて、無力な自分に小さく溜め息を吐く。すると怒りが少しだけ薄れた。そのまま左右に頭を振ると、図体ばかり大きくなって、空っぽな頭の軽さが右手に伝わる。
「よお。土曜日以来だな。雄志」
そんな何も考えることのできない無力な脳味噌に、聞き覚えのある声が響いた。その声の持ち主は、本来ここにいるべきでない人間であり、雄志は驚いた表情で顔を上げる。
「美亜先輩?」
そこにいたのは、人生不敗の正社員であり、撫子の実の姉である胴桐美亜。土曜日以来仕事をサボり、逃げ続けていた彼女が、一体どうしてこの学校にいるのかが理解できず、雄志は我が目を疑った。
タイトなブラックスーツを着ている美亜は、一見すれば教師に見えなくもないが、殺気走った鋭い瞳と、右手に持った軍事用のスコップが、そんな勘違いをすぐに訂正する。周囲の学生も彼女の剣呑さを感じ取ったのか、美亜を避けるためにわざわざ他の教室を通って廊下を進んでいた。
「ああ、美亜先輩さ。胴桐美亜先輩だよ。鬼頭雄姿君」
首をグルグルと回しながら、美亜がシニカルに笑う。
「お久しぶりです」
他の生徒からの視線を背中から感じながら、雄志はなるべく普段通りに美亜に接する。土曜日は一体どこまで逃げたのか、どうして学校にいるのか、何故に得物であるスコップを持っているのか、そんなことは問わない。非常識を知らない美亜であれば、何をしても不思議ではないので、大した疑問ではないだろう。
「私もさ、色々考えたんだよ。で、来ちまったんだ。これしか私にはできなかった。間違っているのはわかっているし、こんなことをしても誰も喜ばない」
相変わらず、わけのわからないことを喋る美亜。
ただ、真っ直ぐに突き付けられた軍事用スコップの鋭利な刃が、美亜の言いたいことをわかりやすく説明してくれていた。
向けられているのは、スコップではなく、明確な敵意だ。
そう理解すると同時に、雄志は咄嗟に後ろに跳ねた。
刹那。先程まで頭があった位置を、黒光りしたスコップの金属部分が薙いだ。目で見てからであれば反応が間に合わなかったであろう一撃に、雄志は美亜が本気で殺しにかかっていることを理解した。
こうなった美亜に対して、言葉で説得する無意味さを知っている雄志は、この場を収めるためにするべきことを確認し、ギュッと拳を強く握り固めた。
衆人環視の中で行われた凶行に、誰かが上げた金切り声を背中に感じながら、雄志は身を倒すように傾けて走り出し、一気に美亜との距離を詰め始めた。美亜の持つスコップは、一見するとふざけているようにしか見えないが、深い塹壕を掘る為に造られたスコップは硬く丈夫で適度な重さを持っていて武器としてはかなり扱いやすい部類に入る。それでなくともリーチと言う利点もあり、雄志が勝つには、スコップを無力化するために間合いを詰めることが絶対条件だった。
当然、美亜もそんなことは重々承知している。肩の動きから雄志の軌道を判断し、継足を封じるために飛び出して来るであろう右足の未来位置にスコップの先端を持って行く。
勿論、互いにここまでは予想済みだ。会社では、何度も手を合わせている相手であり、互いの手の内も殆ど知り尽くしている。
この攻防も、雄志がスコップを足の裏で蹴り飛ばし、その反動を利用した美亜が上手く距離を取り、仕切り直しの形になるだけであった。
「雄志。本当に、悪いな。私のために死んでくれ」
「お断りです」
絶対的に言葉が足りない美亜の台詞に、雄志が相槌を打ったのを皮切りに、二人が動き出す。スコップを槍に見立てて突撃する美亜を、雄志は横に回り込み、一つの塊と化した拳で殴りかかる。すると、美亜は横に転がるようにその一撃を避け、教室の中に入って行った。手合せでは互角の成績であるからこそ、机や椅子、それに無関係の生徒等の不確定要素が多い教室での戦闘を選んだのだろう。安定よりも混沌から勝利を導く。言動からは信じられない強かさ。こう言った思い切りの良さでは、絶対に適わないと雄志は舌を巻く。
このまま美亜を他って自分の教室に向おうかとも逡巡し、時間を開ければ開ける程、美亜の行動は読み難くなると判断した雄志は、覚悟を決めて扉をくぐる。
耳をつんざく悲鳴がそこらから沸く教室に入るや否や、雄志の顔を目掛けて椅子が二つ飛んできたが、雄志は左手でそれを難なくいなす。学校の備品を投げる奇襲に息つく暇もなく、雄志は顎を下から砕かんばかりの勢いで迫るスコップを視界にとらえた。上体を反らし、颶風を巻き起こすスコップを回避すると、反らした身体を勢いよくたたみ、美亜の額に己の額を叩きつけた。二倍近い体重差は、華奢な美亜の身体をそのまま後ろ向きに倒し、雄志はここぞとばかりにスコップを持つ右手首を踏みつけて反撃を封じる。少し体重をかけると、美亜はあっさりとスコップを手放した。
三度の攻防に及んだ小さな戦闘は、取りあえずスコップを美亜の手から奪った雄志の勝利と言う形で決着した。
「騒がせたな」教室でことの成り行きを見守っていた生徒達に言葉だけで謝って、雄志は改めて美亜の方に眼を向ける。「で、先輩。どうしていきなり襲って来たんだ?」
「……撫子が泣いてんだよ」
床に張り付けられた不利な状況だと言うのに、美亜は不遜に不敵に薄らと笑いながら、あまりにも美亜らしい答えを呟いた。
「泣いていた?」
あまり面白くない話に、雄志が鸚鵡返しをする。
「ああ、今週に入ってあいつはずっと泣いているんだ。部屋からも出てこないし、飯も食わねー。知らないのか? お前、あいつの彼氏なんだろ?」
連絡を取ったのだが、無視されたことを説明する気にはなれず、雄志は一言だけ「知らなかった」と答えた。
「知らなかった! 傑作だな! 彼氏さんよ!」
普段は聴くことができない皮肉が混ざった挑発するような言葉に、雄志は嫌悪よりも違和感を覚える。恐らく、撫子が泣いているのが原因だろうと、雄志は一人で納得する。その気持ちは痛いくらい理解できる。雄志だって、今すぐに撫子を泣かせた人間を問答無用に骨折りたい気分なのだから、美亜はそれ以上の怒りを感じているだろう。
そこまで考えて、ふと違和感の正体に気が付く。
雄志には襲われる理由がないのだ。
守るべき対象である撫子を傷つけた覚えなどないと言うのに、美亜はまるで全ての原因が雄志であるかのように殺意を放っているのだ。美亜は非常識を知らないだけであって、決して常識がないわけではない。ましてや、理由もなく人を傷付ける行為は絶対にしないはずだ。
「気が付いたか? 雄志。誰が撫子を泣かしたのか!」
始めて見る美亜の怒りの気迫に、雄志は無意識に飛び下がる。その眼はあの日、上級生達を殺す気で殴りつけた自分を見るような、激しい感情が渦巻いていた。
そして、美亜と距離を取ってしまったことに後悔すると同時に、顔面に鈍い衝撃が走る。衝撃の正体が美亜の左拳だと気が付いた時には、正中線上に幾つもの痛みが走り、波のように全身に痛みが広がって行き、声を漏らすこともできない。
「鬼頭雄志。撫子はお前の名前を呟きながら泣いてんだよ! それがお前の死因だ」
しかし、全身に響く痛みに吐き気を堪えながらでも、美亜の怒声だけはやけにクリアに聞こえた。もしかしたら、学校中に聞こえる大きさで叫んでいるのかもしれない。
怒りで完全にスイッチが入った美亜とは対照的に、雄志の頭は一気に熱が引いていた。
「そうか。俺の名前を呟きながら、泣いているのか」
呼吸するだけで全身が軋むのを堪え、雄志はゆっくりと立ち上がる。これくらいの痛みであれば、耐えられる。姉や撫子が受けていた苦痛と比べるまでもないと、悲劇のヒーローでも気取っているかのようだ。
「そうだ。お前の名前ばかり、何度も何度もだ。雄志、本当に何したんだ?」
律儀に立つのを待ってくれた美亜が、脚を前後に開く拳法のような構えを取るのを視て、雄志もそれにあわせて構えを取る。正直に言えば、戦う理由が一切ないのだが、この茶番を終わらせるためにも、終わった後のことを考えるにも、ここで美亜と戦うのは決して悪くない選択に思えた。
「俺は、何もしてないですよ」
「てめぇ、何笑ってるんだ?」
「ああ。俺、笑っていますか?」
その高揚が口元から漏れてしまっていたらしい。口元を触ると、確かに少しだけ浮き上がっているようだった。ようやく、全てが終わるのだと思えば、それも仕方ないだろうと、自分に言い訳をする。
「『どうして私はあんなことを』!」
その不用意な行動を、美亜は見逃さなかった。身体を雄志に対して横に向けながら、矢のように飛び出した肘が、乱暴に鳩尾を抉る。急所にはギリギリ入らなかったが、そんなことは全然関係ない圧倒的な暴力に雄志の体がくの字に折れた。肺からごそっと空気が抜け出し、息苦しさを覚える喉を、鋭い手刀が貫く。息が詰り、こみ上げてきた酸っぱい胃酸の味が口の中に広がる。
それが、一発となく降り注ぐ。
「『雄志君』! 『ゆうしくん』! 『ユウシクン』! って、泣いてんだよ! 撫子がぁ!」
ご丁寧に、撫子の台詞から抜粋したものだろうと思われる掛け声付きでだ。この一撃は撫子の分だと言う、少年漫画染みた、いかにも美亜が好きそうな趣向だった。二つ三つと美亜は次々に攻撃を重ねていく。幾ら雄志が丈夫で、美亜との体重差があるとは言え、その連撃の前にはほとんど無意味だった。
「『もう嫌』! ってよ!」
静かな叫びと同時、美亜の健脚から放たれた膝が雄志の顎を打ち抜く。スコップを持っていない美亜と戦うのは初めてだったが、持っていない方が断然強い。流石は非常識を知らない女。武器を持ったら弱くなるなんて、非常識過ぎる。
怒涛の攻撃によって血なまぐさい口から残った酸素を吐き出し、そんな弱音を心の中で吐いた。頑丈な身体は、本来であれば気絶していても不思議でない攻撃を受けても未だに倒れることはなかったが、それだけだった。
先のように無力化して、撫子のところに行こうなどと考えていた自分の迂闊さを呪った。何が美亜と戦うのも悪くないだ。完全に悪手。選択を間違えた。自分勝手な笑みが、逆鱗に触れただけじゃあないか。
そんな後悔も、美亜は汲み取ってくれない。
「『雄志君、ごめんなさい』っ!」
何とか構えを取ろうとした雄志ではあったが、がら空きだった胴体に二度目の衝撃。最早、蹴られたのか殴られたのか、確認を取る余裕すらない。それなのに、『ごめんなさい』と言う撫子らしい優しい言葉に、ついつい口元が緩んでしまう。
それがますます美亜の苛立ちを加速させた。美亜は教室の机に拳を叩き込み、「畜生!」と獣のように吼えた。
「何で! どうして撫子はこんな奴を好きになったんだ?」
悲痛な叫びと共に、美亜は腕を伸ばして雄志の襟首を掴んで自分の方に引き寄せた。
「教えてくれよ! どうして、撫子はお前のために泣いているんだ?」
その叫びに、雄志の顔から笑みが消えた。撫子が雄志のために泣く理由が、雄志にはまったく思いも寄らなかった。
「何がありゃあ、『好きになってごめんなさい』なんて言葉が出てくるんだよ!」
まるで異国の言葉のように、美亜の台詞が雄志の耳朶を打つ。雄志はその言葉が信じられず、重たい首を動かして美亜の顔を窺う。嘘であって欲しい言葉は、泣き出しそうに歪んでいて美亜の口から出たようで、苦悶の表情からそれが真実だと強引に知らされた。
だからと言って、雄志は素直にその言葉を受け止められない。頭を埋め尽くす沢山の疑問符。何故、謝罪の言葉が撫子の口から出るのだろう? どうして、撫子は自分のことを好きだなんて嘘を吐くのだろう?
そんなこと、有り得ないじゃあないか? 撫子が雄志のことを好きだなんて。
「答えろ! 鬼頭雄志! お前はどうして、撫子と付き合っていたんだ! なんで、撫子なんだ! 何を狙ってた? 何をしようとしていた! どう利用していたんだ!」
答えの出ない疑問に焦げ付く脳を、美亜の咆哮が揺らす。
ただ一言、「撫子を救うために付き合っていた」と答えたいのに、喉を痛めすぎた雄志は満足に言葉を返すこともできず、美亜の鋭い視線を逸らさないでいるのが精一杯だった。
その沈黙をどう受け取ったのか、美亜も口を閉ざしてしまう。野次馬根性を出してことの成り行きを見守っていた同級生達も何故か一斉に黙り込み、教室の時間が止まったような錯覚を覚えた。
「やあ、鬼ちゃん。朝から修羅場だなんて、あやかりたいね」
勿論、時が止まることなどありうるはずもなく、何処か気の抜けたテノールボイスが時計の針のように、雄志に時間の流れを教えてくれた。
「しかも年上の女性とかよ。まったく、俺もそうだけど、君もいい加減年上好きだな」
場違いに下らないことを言いながら、教室の扉をくぐってきた足音に、雄志は何とも言えない気持ちになる。今この状況で、彼以上に頼りになる人間はいないだろうし、自分を助けるようなタイミングで出て来たことは不本意ながら嬉しくもある。
「ああ? 誰だ、お前?」
しかし、そんな状況だからこそ、凄まじい嫌悪がある。二年前を思い出すような激しい既視感がある。視線だけで人を殺すことができそうな美亜にさえ、怯まず笑顔で答える彼に恐怖すら抱く。頼むから、余計なことをしないでくれと祈らざるを得ない。
「俺ですか? 大木樹君ですよ。ビッグムーンじゃあなくて、大きな木の樹の樹です」
大木樹。数少ない雄姿の友人は、青信号の横断歩道を渡る気軽さで美亜と雄志の間に立った。目の前の小さな背中は、少し気取った風ではあるが、気負ったようには見えず、何処かこの状況を楽しんでいた。
「で、その樹が何の用だ? 取り込み中なんだがな」
その笑顔が気に喰わなかったらしく、美亜は不機嫌を隠さずに樹を見据える。下手なことを答えれば、間違いなく拳が飛んでくるだろう。
「いや、ちょっと鬼ちゃんに用がありましてね。それを言いに来たんですよ。『ここは俺に任せて撫子先輩の元に行け』ってね」
刹那。美亜の右拳が風を切って放たれた。弧を描く一撃は、手加減が何処にも見えない鋭いもので、雄志は咄嗟に樹の首根っこを掴んで自分の方に引き寄せる。風を切る音と共に、樹の髪の毛が何房か吹き飛んだ。もし直撃していたら、樹は死なずとも気絶は免れなかった一撃だ。
「早っ! 見た? 鬼ちゃん! アトラクションレベルだったよ、今のスピード!」
だと言うのに、樹の顔面からは余裕が消え去らない。楽しそうに美亜を見つめるだけで、危機感の一つも覚えていないようだ。
「樹君よ、ふざけているか?」
その緊張感のなさが功をそうしたのか、笑みが不気味だと思ったのか、何かを隠し持っていると勘違いしたのか、美亜は舌打ちをして一歩後に距離を取る。その間合いは拳の間合いを越えていて、樹でもどうにか美亜の攻撃を見切れる最低のラインだった。
だからと言って、樹が美亜に勝てると道理にはならない。恰好をつけて乗り込んできたのだから、勝算があるのだろうが。周囲の野次馬も同じ気持ちらしく、あまり目立たない同級生に強い視線が集まる。
「ふざけているのは、あなたでしょう? 朝っぱらから凶器を持って学校に乗り込んで、俺の友達をリンチにかけるなんて、非常識極まりない」
が、樹の言葉はあまりにも普通だった。何処かから「正論だ」と突っ込みの声が上がったのも、必然と言えるだろう。しかし、雄志は『正しい』と言う意味の恐ろしさを良く知っている。大木樹、最大の武器が、正しさだと言うことを知っている。
「それに、無意味です」
「ああ?」
「鬼ちゃんを殴って、何が解決するんです? 何か手段があったんじゃあないですか?」
やはり、もっともなことを言う樹。平常運転する友人に安堵を覚え、雄志は襟を掴んでいた手を離す。どんな図面を描いているのか知らないが、どうやらいつも通り口先から入るようだ。
「知ってるよ。でも、こうするしかなかったんだよ」
しかし、美亜も引かない。と言うよりは、最初にそのことは承知だと悪びれる風もなく言っていた。視線を一層鋭くして、改めて構えを取る美亜。
その様子を、「下らない。人生の浪費ですよ」と樹は満面の笑みで切り捨てた。
「こうするしかなかった? 違うでしょう? 覚悟を決めたような表情で、悟ったような口ぶりで、何を言っているんですか? どうすることも出来なかったんでしょ?」
明確な悪意を孕んだ樹の言葉に、美亜の瞳が初めて揺れる。どうやら、美亜の図星を、怒りに紛れて隠していた本物を上手く突いたらしい。
「妹が泣いている? じゃあ、助けてあげるべきじゃあないですか? こんな所で油を売っている場合じゃあないでしょう? 逃げ出してきて八つ当たりをしているだけの癖に、なんでそんなに偉そうなんですか? 妹が泣いているというのに、何もせず……いや、頼りにされずに、こんな凶行に出たんですか。そう思うと、同情すべきかも知れませんね? たった一人の大切な妹を救えず、意味のない八つ当たり。こんな惨めな人を俺は始めてみました。今日から人にもっと優しく出来るような気がしますよ」
そして、敵の弱みを握ったら容赦なく攻め立てる。樹の笑顔と神経を逆撫でる言葉の羅列には、殴られた雄志ですら同情を禁じえない。大袈裟に肩を竦める樹は、本当に楽しそうに美亜の顔を見ているのだろう。
「てめぇ、それ以上言ってみろよ」
握りしめた拳を振るわせる美亜は、決壊しそうなダムのように怒りを溜め込んでいることは想像に容易い。だが、それは樹に更なる口撃のチャンスを与えるだけだった。
「良いですよ。あなたは本当に惨めな人です。いや、それ以下だ。さっきまでのあなたはまだ、『妹』のために怒っていた。だけど今は、『自分』のために怒っているだけだ。あまつさえ、その暴力を俺に使おうとしている。もはや、力に使われているだけだ。人間の人間たる理由こそが知性だというのに、あなたはそれすらも捨てている」
よくもまあ口が回るものだと、雄志は鬱陶しいとしか言えない樹の先方に若干引く。
「もう黙れよ、クソガキ!」
怒りに身を任せ、射程外にも関わらず、美亜が攻めに出る。が、それは制裁を欠いた攻撃だった。先程の一撃を紙一重でかわして見せた樹にそんないい加減な攻撃が通るわけがない。樹は躊躇いなく、事前に練習したかのように、自身の肘を美亜の顔面に埋め込んだ。更に、その場に膝を付いた美亜を、ポケットから取り出したスタンガンで気絶させるえげつなさ。
やはり、こいつだけは敵に回したくない。『自分を助けるため』に行動してくれたとは言え、雄志はそう思った。どう考えても戦い方が悪役のそれだし、何より暴力的な行動を取ったにも関わらず、樹は自己防衛以上のことはしていない。美亜や雄志よりもやっていることは悪意に満ちているはずなのに、樹には一切落ち度がないのだ。
「あれ? まだいたの、鬼ちゃん。俺に任せて先に行けって言ったのに」
人を気絶させておいて、樹は屈託なく笑う。自分は正しいことをしたのだと、誇らしげにしているようにすら見える。
「ほら、行ってきなよ。撫子先輩が学校に来ないって、結愛がうるさくてね。眠れる姫を塔から連れ出すのは、王子様の役目でしょ? もっとも、贅沢を言えば、鬼ちゃんが引きこもっていた方が、美女と野獣ならぬ鬼と撫子には相応しいと思うんだけど」
面白くも何ともないことを言いながら、樹は美亜のズボンから外したベルトで、美亜の腕を後に回して拘束する。本当に、迷いのない男である。
「行けって、何すればいいんだよ」
そんな樹とは対極に、雄志は女々しい声を出した。樹の登場に驚いて忘れていたが、雄志は戦闘中に呆けてしまうほど困惑していたのだ。
撫子が学校に来ない理由。もし美亜が言った理由が本当であれば、どうすれば正解なのか、どうすれば間違わずに済むのか、雄志にはとんと検討がつかない。選択を誤った時、撫子はどうなってしまうのか、それを考えると、恐ろしくて動くことが出来ないのだ。
そんな雄志に、樹は変わらない爽やかな笑みで一言呟いた。
「知らないよ。困っているのは君の大事な撫子先輩でしょ? 甘えないでくれ」




