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胴桐撫子の恋愛関係  作者: 安藤ナツ
五月三十日 月曜日

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17/20

胴桐撫子:大木樹 ②

 驚天動地のHRから始まった学校生活は、面白くない程平穏な一日として終わった。

 苛めの存在に薄々気が付いていたであろう教師は、いつも通りの授業を繰り返した。姫は休み時間の度に謝罪をしに撫子の所まで足を運んだ。それに伴って、沢山の人間が撫子に頭を下げに来た。昼休みには、雄志と既知だったらしい撫子と三人で食事をした。昔の話をされると、顔を背ける雄志の姿が印象的だった。午後からの体育は、教師の怠慢で男女混合のバレーで、今まで話したこともない男子にトスを上げて褒められた。

 それは何処にでもある、本来あるべき学園生活だった。

 楽しかった、楽しいと思ってしまった。

 その苦しみから逃れようと、監獄のような校舎から、撫子は今、走って逃げていた。結愛の誘いも断り、雄志を誘うのも忘れ、撫子はひたすらに九十九折の坂を駆け下る。強く握った小さな拳は白くなり、口からは熱い吐息が漏れ、心臓が早鐘のように鳴り響くが、撫子は構わず走った。

 あの望んだような学園生活が、すべて仮初の物だと理解してしまったから。どうして姫が謝ったかはわからない。しかし彼女の行為は、何も知らないクラスメイトには善意に見え、それを許した撫子と言う人間を不相応に持ち上げた。その尊敬は、勘違いで間違いだ。ただ単にその場の空気に呑まれただけに過ぎない。

 結愛は、撫子のことを勇気があると評した。しかしあれはただ単に、雄志の存在を逆手に取っただけであり、撫子の勇気ではない。そして、雄志。大きな身体をした、あの愛しい人との関係も、決して本物ではない。自己防衛のために付いた、どうしようもない下劣な嘘だ。

 だから、今日見た物はすべて嘘だ。雄志に吐いた、たった一つの嘘を前提とした、本物の自分が何処にもいない、偽りの関係でしかない。

 誰も、本当の撫子の気持ちを知らない。からっぽな人間関係。

 望んだハッピーエンドの歪さに、撫子の心の中にあるのは後悔だけ。どうしてあんな嘘を吐いてしまったのか。朝までの悩みが下らなく思える程、その事実は撫子の心を抉る。

 一体、自分はどれだけの人間を騙せばいいのだろうかと、考えても答えは出ない。

 足をもつれさせながら、撫子が必死になって向かうのは、自宅だ。撫子が逃げ込む先は、考えうる限りそこにしかなかった。撫子に取って本物の関係はあそこにしかないから。楽しい家族との関係に逃げ込むために、撫子は全力で腕を振っていた。

 努力の甲斐もあって、いつもの半分の時間で撫子は家まで帰ることができた。肩は激しく上下し、心臓の鼓動は痛さすら覚えていたが、ゴミ箱をひっくり返したような騒々しい心を落ち着かせるのに、その苦しみは都合が良かった。

 このまま、上手く物事が考えられない頭のまま、両親の顔を見て、美亜にメールの返事をして、後は寝てしまおう。そうすれば少しは楽になれるはずだ。すこしは気持ち悪い現実に慣れるはずだ。深呼吸をして身体を落ち着かせながら、そう自分に言い聞かせた。


「おや、随分と遅いお帰りですね。撫子先輩」


 そんな撫子の小さな背中に、テノールボイスの青年の声がかけられる。

 慌てて身体ごと撫子が振り返ると、そこには見覚えのある男の子が電柱の後ろから出て来る所だった。優男と言う言葉がぴったり似合う線の細い少年で、端正な作りの顔と、雄志の忠告が特徴的で、撫子は彼のことを良く覚えていた。いや、忘れるわけがない。彼がいなかったら、自分の今の状況は有り得ないのだから。


「授業をサボタージュしてでも帰って来るかと考えていたんですが、これなら学校をわざわざ早退する必要もなかった気がしますね。あ、自己紹介は必要ですか?」

「大木、樹、君?」

「ええ、疑問符は必要なしに、大木樹君です」


 学生服ではなく、普段着の樹は普段と変わらぬ笑みでこちらに近寄って来た。背は高いとは言っても、平均の誤差の範囲だろうし、黒いパーカーから覗く腕や首の太さは雄志の半分もない。それなのに、撫子は樹を恐ろしく感じた。その原因はハッキリとしていて、彼の表情にある。


「ちょっと、撫子先輩とお話したくて、家の前で張らせてもらいました」


 大木樹の顔面に張り付いた笑みが、撫子の本能に激しい警告を抱かせるのだ。

 小手川姫の嘲笑とも、盃嵐の哄笑とも、勿論胴桐撫子の曖昧な笑みとも違う、大木樹の笑みは、笑顔が牙を見せる獣の表情だと言う実例のように、明確な攻撃の意思が籠められていた。

 それだけで、雄志の忠告の意味は十分に理解できた。どうして、過去二回出会った時に樹に同じような感想を抱かなかったのか不思議な程だ。羊の皮を被った狼がいたとしたら、きっと彼の前世か祖先のどちらかだろう。

 この混乱した頭で、樹の言葉に耳を傾けることは、更なる混乱を招くだけだと、撫子は「ごめんなさい、体調が悪いので」その場で反転し、門の取手に手をかけて安全地帯へ逃げ込もうとする。

 が、撫子の行動が音より早いと言うことは有り得ず、樹の言葉が確かに鼓膜を震わした。


「それはそうと、今日の学校は楽しかったですか?」


 その問いは、撫子の動きを止めるには十分の意味を持っていた。


「苛めっ子との仲直り。クラスメイトとの楽しい交流。昼休みは、鬼ちゃんと……いや、結愛とですかね? 兎に角、今まで先輩が体感していた学園生活とは全然違ったでしょう? 楽しかったでしょう?」

「何で、知ってるの?」


 足を止め、撫子は樹の言葉に眼を大きく見開く。その後すぐに自分の流されやすさに舌を打つ。会話をしないと言う決心は何処に消えたのだろうか? 大体、言葉を返すにしても、樹が今日の出来事を知っていること自体は問題ではない。彼女である結愛が撫子と同じクラスにいるのだから、幾らでも話は聴けただろう。

 問い返すのであれば、樹の口調だ。まるで、今日と言う日を準備したのが自分だと言わんばかりの台詞に疑問を持つべきだった。もっとも、究極的に言えば、そんなことは無関係だ。撫子のミスは、雄志すら恐れる樹と会話をしてしまったことに他ならなかった。


「そりゃあ、知っていますよ。姫先輩に『苛めのくだらなさ』を教えたのは俺なんですから。あ、安心してください。平和的にですよ? ファラリスの牡牛なんて出てくる隙のない、五寸釘なんて入り口の金属探知機で引っかかるくらいにクリーンな話し合いで、彼女は苛めなんて下らない作業、止めてくれました」


 肩を竦めて「やれやれ」とわざとらしくポーズを決めながら、樹が淡々と語る。その内容まるで異国の言葉に聞こえ、撫子は阿呆のように口を開くことしかできなかった。


「もっとも、その様子じゃあ、あまり楽しめなかったようですね」


 堪えきれないように浮き上がった唇の下から、綺麗な白い歯が覗く。大人しい顔に似合わない、鋭い犬歯が光った。被っていた皮はもう、半分以上脱ぎ捨てていて、とんだ草食系男子だ、なんて笑う余裕は何処にもなかった。


「それも当然ですよね。新学期が始まってからずっと、撫子先輩は苛められていたんですから、幾ら姫先輩が麗しい首を下げた所で、先輩の怒りや無念が収まると思いません」


 あ、今の『麗しい』って言葉は結愛には内緒ですよ? あれで嫉妬深いんで。

 おどける樹の言葉に、撫子は反射的に頷いてしまう。


「ありがとうございます。そりゃあ、面白くないですよね。自分を散々苦しめておいて、謝れば許されると思っているんですからね。俺だったら、絶対に許さないですよ。でも、撫子先輩は許しちゃったんですよね。自分の感情とは関係なしに。何となく、その場の空気を読んで、周りの人間の眼を気にして。如何にも女子高生らしい理由で結構です。人間的で良いと思いますよ?」


 心でも読んだかのように、樹は撫子がついさっきまで考えていたことを口にする。咄嗟に撫子は「違う」と小さな声で呟いた。何故、そう呟いたかは自分ではわからなかったが、否定しなければならなかった。


「俺は、そう言う主体性のなさって言うのは結構好きですよ? 人生論って言うか、自分なりの哲学なんですけど、人間って言うのはより幸せになるために、より良い人間関係を求めていると思うんです。そのためには、自分の考えを捨て周囲に合わせることも、重要だと思いますよ。自分の意志なんてなくても、辿り着いた先の自分が、がらんどうでも楽しければ万事解決です。そう言う風に、選択して生きるのが人間です。今の撫子先輩と同じようにね」

「違う」

「いえ、違いません。先輩は自分に取って一番都合が良い道を選んできました。だから、あの日は告白を断ったし、姫先輩の苛めにも逆らいませんでした。全部、先輩が自分で選んだことです。ここ、重要ですよ。あなたが選択したから、今の結果があるんです」


 心の底を這うような樹の言葉が、撫子の背筋を薄く震わせた。

 樹の台詞は、あえて考えないようにしていたことだった。まるで状況的にそれしか取るべき手段がないように、『流された』と散々繰り返していた撫子だが、それは正しくない。どんなに選択肢が限られていようと、たとえ一つしかなくても、『選ばない』と言うことができたはずなのだ。

 目の前の笑顔の面を被った青年は、親切にもそんなことを丁寧に教えてくれた。流されたんじゃあない、自分で選んだんだと、責任を持てと、叫んでいるのだ。

 だから、撫子は「違う」と呟いた。そんなこと、認めたくもなかった。


「違う? なるほど、じゃあ先輩は『鬼ちゃんへの告白』も、流された結果の産物だって認めるんですね?」


 樹の鋭い問いが、撫子の心臓の鼓動を一気に加速させる。姫と鏡花、そして自分しか知らないはずの秘密を、なぜ樹が知っているのだろうか? いや、それよりも、他には誰が知っているのだろうか? もし、もし雄志の耳に入っていたとしたら……。


「安心してください」またしても、撫子の心を読んだように、樹が撫子に微笑みかける。「知っているのは、あの二人に俺だけです。他の人間は姫先輩の狂言だと思っているんじゃあないですか? そう言う風に、俺は立ち回りましたから」


 そう優しく語る樹の顔は、眼を細めた幸せそうな形になっていたが、対面する撫子は決して微笑んでいるわけではないと理解できた。


「でも、その反応で確信が持てました。撫子先輩。あの時の告白は嘘だったんですね。先輩は、俺の友達で遊んだことを、認めてくれるんですね」


 雄志は樹をどう危険視しただろうか? 『大木の言葉は正しい、間違ってはいない』と慄いていた。その通りだ。友人を騙されたから樹はこの場に立っているのだ。大木樹は、これ以上なく正当な理由で怒っている。


「先輩は、雄志の気持ちを利用したんですね? 自分が傷つかない為に、楽をするために、生贄にしたんですね?」


 形だけを繕った笑顔が、ゆっくりと撫子の正面にまで近寄ってくる。


「自分が傷つかないために、最悪を避けるために、雄志の人格なんて関係なしに、先輩は雄志に告白したんですよね」


 その通りだった。何度も後悔した、贖うことのできない過失だ。それでも、撫子は「違う」と口にした。樹が、この事実を雄志に伝えるという、最悪な結末を回避するために。


「ああ、そうなんですか。じゃあ、この台詞を用意した意味はなさそうですね」


 撫子がそう反論するのを予想していたのか、樹は愉しそうに唇を吊り上げて、印象的な犬歯を光らせた。そしてたっぷりと間を開けた後、ゆっくりと聞き逃すことがないように呟いた。それは巨大な鎚を振り下ろす時の、絶対に外さないことを目的とした注意力に満ちていた。



「雄志は、本当に喜んでいたんですよ」



「あ」


 その言葉で、撫子は本当に自分のことしか考えていなかったことを理解した。


「いや、もし撫子先輩が嘘を吐いて鬼ちゃんを騙していたんなら、そう言って良心と言う奴を少しだけ煽ってやろうと思ったんですよ。

『雄志は撫子先輩が告白してくれたことを本当に喜んでいました。昔の噂に惑わされて距離を置かれる中、いきなり距離を詰めてきた先輩のことを確かに好きになっていましたよ? 楽しそうに観に行った映画のことを話してくれましたし、鬱陶しいくらい弁当が美味しかったことを語ってくれましたよ? 先輩は、そんな雄志を騙して何とも思わないんですか?』

 って。いや、良かった。あの鬼ちゃんの表情は、嘘じゃあないんですね? 騙されて遊ばれた鬼ちゃんは何処にもいないんですね? 本当に良かった」

「あ、あああ」


 雄志のことなんて、撫子は何も考えていなかった。いかに雄志に好かれようかと、嫌われないようにしようと考えるだけで、雄志の気持ちなんて微塵も考えていなかった。ただただ、自分だけのことを考えて、都合の良い考えばかりを並べていたに過ぎない。


「どうしました? そんな悲痛そうな顔をしないでください。胴桐撫子に騙された鬼頭雄志はフィクションであり、実在の人物とは一切関係ないんですよ」


 なるほど、大木樹は正しい。正しすぎる。撫子自身がそれを嫌と言うほど理解してしまった。そして、それ以上に残酷だ。このタイミングで最も効果的な攻撃を、躊躇なく選んで来たことからそれは疑いようがない。

 撫子自身の口から、あの告白を本当だと言わせ、良心に訴えかける言葉。姫と言う撫子が言い訳に使っていた存在まで取り除かれ、もう逃げ場など何処にもない。


「因みに、撫子先輩が雄志を騙す屑みたいな人間だった場合の決め台詞はこうだったんですよ。『でも、俺は赦します。だから、ずっと雄志を騙し続けてください。雄志が先輩を捨てるまで、嘘を吐き続けてください。できない場合は……わかりますよね』って感じですかね? こんな酷い台詞を言わずに済んで助かりました。撫子先輩が雄志のことを好きなら、関係ありません。お互いが納得いくまでいちゃついてくださいよ」


 笑顔の奥の凍て付いた瞳が、静かに撫子を見下す。樹は微塵も撫子を許そうなどと言う慈悲を持っていないようだ。お前には雄志を好きだと言う資格はない、その代り雄志を好きだと言う嘘を吐く義務があると言っているのだ。

 そんなことは絶対嫌なのに、撫子の口はまともに動かない。

 何を言っても、それは言い訳にしかならず、『雄志を傷つけない』と言う真っ直ぐな理由を覆すには至らない。何より、雄志の気持ちを無視していたと言う事実が、撫子の心を一気に砕いていた。欠けた場所からボロボロと気持ちが崩れて行き、雄志を好きだったと言う想いの真偽がわからなくなっていく。

 本当に雄志が好きだったのだろうか? 騙してしまった罪悪感からそう錯覚しただけじゃあないのだろうか? 苛められていると言う恐怖から、吊り橋効果で勘違いしたのでは? 姫に強く出られるカードとして傍に置く為の打算ではないだろうか?

 その答えは出ず、代わりに右目から一筋の涙が流れた。それに気が付くと、左からも零れ落ち、膝から力が抜けてアスファルトで舗装された道路に尻餅を付いてしまう。自分を責める言葉が口から漏れるが、それはまとまった形を持たず樹には届かない。

 樹が何か話しかけて来るが、嗚咽と鼻を啜る音で何を言っているのか聞き取ることはできない。それでも、樹の怒りだけはしっかりと伝わって来て、撫子は涙を拭いてしゃっくりを上げながら、「ご、ごめんなさい」と謝った。何度も何度も繰り返した。

 しかし樹はもうそれ以上一言も喋ることはなく、静かにその場で踵を返してしまった。唐突に表れて、言いたいことを言うだけ言い、勝手に去って行ってしまった。

 その黒い背中は、涙でぼやけた視界の奥で確かに笑っていた。

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