胴桐撫子:大木樹 ①
土曜日の嵐との会話以降の記憶が曖昧な頭を振りながら、撫子は学校の下駄箱から自分の上履きを引き出した。記憶が曖昧なのは、嵐の言葉が深く心に突き刺さったから……なんて漫画チックなトラウマではなく、単純に飲酒をしてしまったからだ。
罪悪感からか、嵐に強く勧められたのを断ることが出来ず、一杯だけ口に含んだのがまずかった。気が付いたら何故か日曜日の夕方だった。寝すぎたせいで体がだるく、寝るべきである夜に寝られなかったせいで頭が重い。いつだって月曜日は苦痛だったが、これほどまでに学校に行きたくなくない月曜日は久しぶりだった。
もっとも、嵐の言葉がまったくもって利いていないわけでもない。年上らしい精神論とも人生論とも言える嵐の言葉は、撫子の脳裏にそれなりの深さで喰い込んでいた。
あの若い社長の中では、『自分から進む』と言う行為が『幸せ』に直結し、そこには善や悪と言う概念は存在しない。暴力ですら何かを得るための正当な対価だと信じ、そのことを一ミリも恥じていなかった。自分と言うものを完全に信じ切っていた。
もし自分がもう少し愚鈍で単純で、その分素直な人間であれば、嵐を素直に尊敬できたかもしれない。しかし撫子は、進むことを恐れ、最低の日常を最悪の日常にしないように生きている、ことなかれ主義の凡人だ。そんな弱い生き方をしてきた撫子には、嵐の言葉は全て自分を弾劾しようとしているように聞こえてしかたがなかった。彼の意見に賛成できる人間は、物語の主人公になる資格があるんじゃあないだろうか?
曖昧に働く脳が下らないことを考えている間に、撫子の身体は無意識に教室へと足を運んでいく。最近は上履きがないとか、画鋲が入っているとかそう言うことは一切ない。代わりに、すれ違う人間からの不躾な視線を感じることが増えた。
「一週間の始まりだ……」
所々舗装が剥げた階段を一段ずつ上りながら、撫子はウォークマン越しに聞こえる楽しそうな声を聴きながら憂鬱に呟く。学校を楽しいという人間の心理が、撫子には理解できそうもなかった。
姫の下らないちょっかいに、雄姿に対する複雑な思い。笑顔で近付いてきてくれた結愛との関係もどう転ぶかわからない。学校には、撫子の弱い心を苦しめる火種しか置いていない。
それならばいっそ不登校にでもなってやろうかと思うが、両親のことを考えるとそれもできず、撫子は日常に流されるがまま、監獄に似た教室に足を踏み入れた。
「ごめんなさい! 撫子ちゃん!」
途端、爆音のような謝罪が撫子を襲った。それはもう殆ど攻撃性を秘めていて、本当に謝る気があるのかどうか怪しく感じられるほどだ。頭を深々と下げているのが、見間違いでなければ姫だという事実が、その考えに一層拍車をかけていた。
突然どころか、想像したことすらない光景に、撫子の身体は自然と一歩退いていた。今度はどんなことを考えたのだろうと、背中が凍りつくような錯覚を覚えるほどだ。
「逃げないで! 本当に悪いと思っているの!」
すると、顔を上げた姫が二歩間合いを詰めてくる。その瞳からは冗談のように涙が流れ落ちていて、綺麗な顔立ちが台無しになっていた。一体何事かと周囲を探るが、姫の顔が近すぎて上手く探ることが出来ない。ただ、その後には同じ様に泣きながら謝罪の言葉を口にする鏡花がいて、事態の深刻さを表している。
ここは鏡の国? それとも夢? 嵐に呑まされた酒が見せた幻影だろうか? 自分の身に何が起きているのかわからず、心臓の鼓動が早まる。しかし演技にしては真に迫っていて、顔を背けることが許されない雰囲気を放っている。
「私、本当に嫌な奴だったわ。根も葉もない噂を信じて、貴方を傷付けて、それを見て楽しんでいたの。本当に人として最悪よね? でも、許して欲しいの。おこがましいとは思っているけど、許してくれない? 貴方と友達になりたいの」
眼を真っ赤にし、嗚咽混じりに謝る目の前の美少女は一体誰なのだろうか?
変貌とも呼べる姫の態度の違いに、撫子は言葉を失う。嘘を見抜く眼なんて持ってはいないが、嘘を言っているようには感じられない。泣きながら、下手を打てば土下座すらしてしいまいかねないほど、心の底から喋っているようにしか聞こえない重みが姫の言葉にはある。
苛めに飽きる素振りも見せていなかったが、改心したとでもいうのだろうか?
「ど、どうしたの小手川さん……」
ここは流れに身を任せていい場面ではないと、本能が告げる。天変地異の前触れにしか思えない姫の謝罪に、今まで以上の恐怖を感じながら、撫子はようやく姫に言葉を返した。異常事態に、撫子は姫の一挙一動を見逃さまいと神経を尖らせ、対応を待つ。
「私が悪かったの」
しかし姫は壊れたようにそう繰り返すばかりで、『許す』とでも言わない限り他のことを話すような雰囲気ではなかった。その様子に困惑しているのは撫子ばかりではなく、彼女の友達は勿論、普段は静観を決め込んでいるクラスメイト達までざわついている。このクラスの船頭であった姫が急に、思わぬ方向に舵を切るものだから全員がどう動けばいいのか互いを牽制し合っていた。
ここで謝らなければ、苛めを見て見ぬ振りをしていたことを謝るタイミングが失われてしまう。かと言って、これが結愛のような裏切り者を炙り出す罠の可能性も捨てきれない。
そう言えば、金曜日に勇気を見せてくれた結愛はどこにいるのだろうか? もしかして、彼女が何かをしたのだろうかと、姫の赦しを懇願する瞳から視線を切って周囲を探る。
すると結愛は直ぐに見つかった。日当たりの良い席に座り、他の生徒がそうであるように撫子のことを申し訳なさそうな瞳で見つめていた。どうやら、彼女でもなさそうだ。
ならば、この状況は誰の差し金なのだろうか?
下駄箱で万年筆を見つけた時よりも酷い違和感に、撫子は必死になって頭を回転させて納得できる答えを考えるが、
「撫子ちゃん。やっぱり駄目だよね。私なんかが……」
ぶつぶつと壊れたCDのように同じ言葉ばかりを繰り返す姫の表情が視界にちらつき、まともな思考ができない。現状が把握できない以上、下手なことも言えやしない。もっとも、こんなに注目を集めて緊張している舌では、九九の一の段すら言えない自信があるが。
そんな風に沈黙していたのがまずかったのか、姫の言葉からまともな日本語が消え去り、泣き言がただの泣き声へと変わってしまった。
恥も外聞もなく、大声で泣き叫び始める姫の様子は、殆ど狂気染みていた。一体、何に怯えているか知らないが、ここまで泣かれてしまうと、許さない自分が悪者じゃあないのかと錯覚してしまいそうだ。
周囲も同じことを考えているようで、何処からか「許してあげなよ」と言う男子の声が聞こえた。その一言に、『ふざけるな』と怒鳴り散らしかったが、撫子は自分の気持ちを押し殺し、大粒の涙を落とし続ける姫の頭を恐る恐る触れて見た。
すると、「許す」とも言っていないのに、姫は勢いよく顔を上げて、撫子に抱き着いた。
「ありがとう」
姫がそう言うと、何故か生徒の誰かが手を叩いた。それに続いて他の人間も手を叩き始め、意味の分からない拍手の渦が生まれる。まるで、撫子が姫の全てを許したかのように、クラス中の人間が感動映画を見たような表情で手を叩く異様な光景に、撫子は寒気を覚えた。
全員が聖女を見るように、撫子を眺めるが実際はそんな綺麗な物じゃあない。
ただ単に、あと少しで教師が来てしまう時間だと言うことと、大勢の人間に囲まれ、拒否するに拒否できない空気だったから、許した振りをしたに過ぎない。自分を守るためにした、雄志へ嘘の告白をしたように、場の空気に流されて、心のない仲直りをしただけだ。
勿論、そんなことを言えるわけもない。撫子の口からは「もう泣かないで」と相手を気遣う振りをした言葉が漏れる。状況に言わされた優しい台詞に、ぱらぱらと拍手が響いた。
他人が見る胴桐撫子と、自分が知る胴桐撫子、そして理想とする胴桐撫子。
自分が吐いた嘘の大きさに、泣きたいのは撫子の卑怯な心だった。




