表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胴桐撫子の恋愛関係  作者: 安藤ナツ
五月二十八日 土曜日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/20

胴桐撫子:盃嵐 ①

 驚天動地。

 撫子の頭の中を、そんな四字熟語が躍っていた。姉の美亜がこの町に引っ越して来て早々、自分から働くことを宣言したことよりもそれは衝撃だった。


『先輩? 聴いていますか?』


 その原因は、携帯電話の向う側の鬼頭雄志。撫子が朝ごはんを食べ終わるのと同時にかかって来た電話の内容に、撫子の頭はこれ以上ないくらい驚いていた。


「は、はい。えっと、雄志君の家にお伺いすればいいんですか?」


 雄志の方から遊びの誘いがあったのだ。今週は雄志が弁当を『美味い』と喜んでくれたり、クラスの一人から声をかけて貰えたりと、予想もしないことばかり起こったが、それらを差し置いてぶっちぎりの異常事態と呼んで差支えのない現実に、撫子は夢じゃあないかと頬を抓った。痛い。だからと言って、これが夢でないと言い切れる確証を、昔の人は何処で手に入れたのだろうか?

 そんな常識的な対応の根拠は今度の機会に考えるとして、今は雄志だ。基本的に誘っても興味あるのかないのかわからない、低いテンションでしか会話をしてくれない雄志から、遊びに誘って来るなんて天変地異の前触れにすら感じられる。


『ええ。世話になっている人達が、是非先輩に挨拶をしたいと言って聞かないんですよ』


 珍しく困ったような声を出す雄志。『お世話になっている人達』と言う表現の仕方は少し引っかかったが、意訳すれば『誰かに紹介したい』と言う意味ではないだろうか? それを断る理由などあろうはずもなく、撫子は一も二もなく「行きます」と短く答えた。


『来るんですか? 本当に迷惑かけますよ、嵐の奴は』


 自分で言っておいて、その物言いはどうなんだろうかと、撫子がクスリと笑う。


「私の家に来たら、私の家族が同じくらい迷惑かけるでしょうから平気ですよ」


 撫子も両親は良いとしても美亜を紹介するのはかなり恥ずかしいので、家族を紹介したくないと考える気持ちはわからなくもなかった。素手で作ったリンゴジュースを客に出すような人間をどう紹介すればいいのだろうか?


『では、十一時に駅前に来てください。昼飯は家の人が作るそうですから。後、動きやすい服装で、いつでも逃げられるようにしといてください』


 逃げる? あまり日常会話では使用しない単語に、撫子は首を捻る。一体、何から逃げれば良いのかわからなかったが、取りあえずジーンズとTシャツで良いかと適当に服装を頭の中で決める。美亜のおさがりが中心な箪笥の中に、女の子らしい服装など少ないのだから元々悩む必要など殆どない。それでなくても、自分を着飾って鏡の前で『可愛い』と思える図々しさが中々身に付かず、撫子はあまりお洒落に興味がなかった。


「了解しました。十一時に駅前ですね」

『では、失礼します』


 事務的な返事と共に、通話が切れた。充電する回数が増えた携帯電話をテーブルの上に置くと、撫子は洗面所に足を向けた。足取りは軽く、反面、気持ちは重かった。

 誘われたのは間違いなく嬉しい。

 何故なら、口に出して言うのも、頭の中に浮かべるのも恥ずかしい限りだが、撫子は雄志のことが好きだ。その原因は本当に些細なことで、『撫子先輩は俺の彼女だ』のたった一言で撫子は恋に落ちた。自分でも軽い女だと思うし、初心だとしか言いようがない。

 そして大好きだからこそ、雄志からの誘いに乗る自分に激しい嫌悪を覚える。

 何故なら、


「私と雄志君の関係は嘘だから」


 理由はその一つに限る。

 胴桐撫子は、我が身可愛さに虚偽の告白をした卑怯者だ。そもそも、あの告白は自分に向けた物であり、姫に向けた物だ。そこには鬼頭雄志と言う人間は一切関係なく、姫に対する服従の言葉でしかなかったのだ。

 心ない言葉で繋がった、薄氷の上で踊るような、前提から存在しない、胴桐撫子の恋愛関係。そんな砂上の楼閣に、撫子は本物の気持ちを育てようとしているのだから救いようがない。

 人を好きになるのに資格が必要なかったとしても、詐欺師を取り締まる法は存在するだろう。このまま雄志を騙し続けたままでいいのだろうか? あの告白を否定しないと言うことは、自分の気持ちを否定することにならないだろうか?

 そもそも、この恋愛感情は本物だろうか? 雄志を騙している罪悪感や後悔がそう錯覚させているのではないだろうか? そんな考えすら浮かんでくる。

 たった一つの嘘が、撫子の心に温かい気持ちと、それを呑み込む大きな靄を生み出していた。もし姫がここまで考えて行動していたとしたら、あの嘘は想像以上の効果を上げていると言えるだろう。意外と物事を考えて動いているのだろうか? 想像できない。

 もっとも、靄を払う方法がないわけではない。勇気さえあれば、簡単に可能だ。


『ごめんなさい。雄志君、あの時の告白は嘘だったの』


 嘘を吐いたのなら、謝ればいい。誠心誠意を土下座でもして、泣きながら自分の愚かさを懺悔すれば、少なくとも嘘を吐いたと言う罪悪感と後悔とは別れることができる。


『でも、今は好きなの』


 そして何処にも嘘がない、真実百パーセントの気持ちを伝えることができれば完璧だ。図々しくて図太くてどれだけ鈍感であればそんなことを言えるか見当も付かないが、もしその返答が肯定の言葉であれば、言葉に出来ない感動だ。

 勿論、撫子にそんな勇気はない。弁当を作って渡すことはできた。横で一緒に食べることもできた。姫の圧力に逆らった。同級生の結愛に笑うことができた。その全部が全部、雄志から勇気を貰わなければできなかった行為だ。

 雄志がいなければ、勇気一つ出せないのだ。今思えば、昔から美亜にべったりで、自分から能動的に行動した記憶がない。勇気とは他人に依存する物だったのかと、自分の弱さが改めて浮き彫りになった気がした。

 この一週間考え尽くした考えを、再び頭の中でかき混ぜながら、撫子は洗面所の扉を開けた。新築の扉は勢いよくスライドし、母親の亜子や自分が毎日掃除しているバスルームが目に入った。白を基調とした明るい脱衣兼洗面所は、撫子お気に入りの空間だった。そのことを父親の泰道に言うと、大袈裟に喜んでいたのを覚えている。

 そして広い風呂場は美亜も随分気にいった。今も、スーツ姿のまま、紺色をした酒瓶片手に湯船に浸かって寝息を立てていた。


「……お姉ちゃん? そんな所で寝てたら危ないよ?」


 撫子の内心なんて一ミリも知ってなさそうな、幸せを具現化したような顔で眠る美亜に恐る恐る話しかける。美亜の奇行はいつものことだが、流石に肩まで水に浸かったままの状態で眠るのは生命にかかわるので、見て見ぬふりはできなかった。確か昨日は美亜の姿を一度も見なかったので、撫子が寝静まった後に返って来たのであろうが、何があったら風呂場まで酒を持って行こうとするのだろうか?

 酒の臭いが充満する浴室にパジャマ姿のまま足を踏みいれ、声だけでは起きる様子のない美亜に撫子は呆れながら近寄って行く。普段は酔うまで呑むような人間ではないのだが、余程嫌なことがあったのだろうか? そう言えば、最近は妙なことに、目が合うと曖昧に笑うと言う謎の行動を取っていたのが関係しているかもしれない。普段なら、目が合えば抱き着いて来てもおかしくない落ち着きのなさだと言うのに。


「お姉ちゃん。起きて」


 空になった酒瓶を取り上げて、優しく頬を二度叩く。酒瓶なのか撫子の掌のどちらかが引き金になったのかは分からなかったが、美亜はゆっくりと目を開けると、ベッドから起き上がるのと同じくらい自然に立ち上がり、欠伸をしながら背伸びをした。大量の水がぼとぼとと水面に落ちる。


「おはよう、撫子。今日もいつもと変わらない良い朝だな」

「いつもお風呂で寝起きしてたの?」


 悪びれる風もなく、酒臭い息で挨拶をする美亜に撫子は胸を撫で下ろす。いつも通り、少しだけ変な姉である。いや、流石にスーツ姿で風呂に入っているのを見るのは初めてなので、いつも以上に変な姉と呼ぶのが正確だろうか。


「っと、朝八時か。まあ、睡眠時間に問題はねーな」

「いや、就寝場所に疑問を持とうよ」

「撫子も明日から風呂場で寝てみろ、腹の中にいた時を思い出せるぞ」

「思い出すも何も、羊水に浸ってた記憶を持ってないよ、普通の人は」


 撫子の言葉には一切耳を貸さず、言いたいことだけを言いながら、美亜が脱衣所まで移動する。動くたびに水が音を立てて床に落ち、その飛沫が撫子の裾を塗らす。生温い水温が伝わり、顔を顰める。

 文句を言っても美亜が素直に受け取る人間でないということは十年以上昔から知っているので、撫子は困ったように笑うと服を脱ぐように促した。


「お洗濯するから、脱いで?」


 誰かの為に。美亜の根本的な行動原理に従って、お願いさえすれば基本的にはすんなりと従ってくれる。


「確かに、こんなもん着て事務所には行けないよな」

「土曜日なのに仕事があるの?」

「何時だって仕事はあるぜ、社会人の辛いところさ。って、今日はなんか、社長夫妻が昼飯奢ってくれるって言うんで、事務所に行くだけだから、仕事はしないんだけど」


 身体に張り付いたジャケットやシャツを脱ぎ散らかしながら、美亜が楽しそうに本日の予定を教えてくれる。自分とは全然似ていない美亜の彫刻染みた美しい身体を眺めながら、何処かで聞いたことのある予定だと撫子は微笑んだ。


「嵐の料理はマジで美味いからな。今から楽しみだ」


 普段であれば撫子の予定を聴いた上で、『一緒に行こうぜー』と誘って来るはずなのだが、一糸纏わぬ姿になった美亜は、バスタオルで男らしく髪の毛を拭くと、「じゃ、行ってくる」と脱衣所を出て行ってしまった。やはり、いつも以上に変だ。

 濡れた足跡を作りながら、二階の自室へと向かう美亜の背中を見送り、撫子は姉の不調に首を捻る。遊びに誘わないなんて本当に久しぶりだし、先程の答弁だって意味不明な言動はいつものことだが、撫子の質問に答えないと言うことがそもそも有り得ない。

 もっとも、美亜のシスコンぶりには少々困惑している所がなくもないので、最近の美亜の態度は不信ではあっても、不都合ではなかった。美亜もいい歳なのだから妹離れなのだろうと、撫子は軽く考えた。

 自分に付いて来ると言って利かない姉を宥める必要性がなくなったことに安堵しながら、撫子はライムグリーンの歯ブラシを手に取った。因みに、美亜の歯ブラシはピンクだ、乙女チックなセンスだと茶化したら、「いや、桃の味がしそうじゃね」と返されたのを良く覚えている。

 念入りに歯を磨きながら、撫子は水を吸って重くなった美亜のスーツの処遇を考える。二着買って三着目が貰える安物ではあるが、安いからと言って簡単に捨てるわけにもいかない。かと言って、これをクリーニングまで持って行くのも中々勇気がいる。どうして自分の服装に悩む前に、姉の衣類の世話をしないといけないのだろうか?

 しかし撫子は、美亜の理不尽さが嫌いではなかった。最も頼りになる家族で、一番の理解者。いつか、雄志に真実を告げる時が来るとしたら、美亜の協力は必要不可欠だろうなと、なんとなく撫子は思った。




「待たせてしまいましたか?」


 約束をした駅前には、集合時間の二十分前だと言うのに、雄志の巨大な姿があった。遠近法をまるで無視した身体は、この間の映画館と同じ黒のタンクトップにジーンズを貼り付けていた。その姿は待ち合わせをしていると言うよりは、炭鉱に出かける鉱夫のようと言った方が納得する人間が多いと言っても過言ではないだろう。


「いえ、俺も来たところですから」


 立派な体格とは裏腹に、必要最低限に小さい声で雄志が答えた。ただ、珍しいことに撫子の格好が気になるのか、視線を何度か足元と顔を往復していたのを見逃さなかった。

 撫子の身を飾るのは、黒のタンクトップと、年季の入ったダメージジーンズ。


「えへへ。お揃いですね」


 少し恥ずかしそうに、撫子が笑う。俗に言う、ペアルックだ。あまり外見に気を使わない雄志ならば、きっと今回も同じ服装で来るだろうと、思い切ったのが功をそうした。もっとも、服装は同じだが、その格好から受け取るイメージは雄志とはかけ離れた物だった。

 胸元が大きく開いた、少し小さめのタンクトップから大胆に露出した肩。美亜のおさがりで履くのを躊躇うくらい色褪せたローライズのジーンズから覗く眩しい肌。同じ衣類を使っても、撫子の格好は柔らかい女の子らしさを主張していた。


「似合いますか?」


 少し震える声で訪ねると、顔が一気に火照るのがわかった。自意識過剰も良い所だろうと、そんなキャラクターじゃないだろうと、頭の中に数々のツッコミの言葉が躍る。いっそ殺してくれた方が助かる羞恥心に悶える撫子は、すぐさま訂正の言葉を口にした。


「やっぱり、今のは……」


 しかしそれよりも早く、「似合っていますよ」と言う雄志の声が耳朶を打った。聴き間違いでない証拠に、雄志の顔は少しだけ朱に染まっていた。そう言えば、お弁当を食べてもらった時も「美味しいです」と訊きもしないのに答えてくれたことを思い出す。意外と面倒見がいいらしい。お世辞じゃないのかと疑うが、「行きましょうか」誤魔化すように雄志はその場で反転し、駅の方に歩き始めてしまった。撫子はむず痒い恥かしさに、歯の根が浮いてしまうのを堪えながらその背中を追いかけた。


「電車に乗るんですか?」


 結局、口を押えきることはできなかった撫子は、隣を歩く雄志に行く先を訊ねる。


「いえ、家は駅裏です。駅前にしたのは、少し訊きたいことがありまして」


 質問を待っていたかのような即答に、撫子は少なからず驚いた。雄志から質問してくるのは、これが初めてで、それがまた嬉しかった。


「昨日、メールで『佐々結愛』と話したと書いてありましたが、その佐々結愛は、大木樹の彼女のですよね」

「はい。その通りの眼鏡が似合う佐々結愛さんです」要領を得ない質問に、撫子は正直に答える。「大木君の彼女さんの佐々結愛さんに間違いないです」


 撫子の答えに、雄志は「そうですか」と小さな声で答える。なにか都合でも悪いのか、雄志はそのまま太い腕を胸の前で組むと、口を噤んでしまった。そのまま何か考えているようで、口を再び開けたのは五十メートルほど歩き、駅裏に続く地下道の階段を下り始めた時のことだった。


「先輩。その時に大木はその場にいましたか?」

「いえ。二年の廊下ですし、いませんでしたよ」

「そうですか」雄志は胸を撫で下ろして息を吐く。「大木だけには気をつけてくださいね」


 傍から聴けば、撫子に対する執着にも、樹に対する警戒心にも聴こえる言葉だが、雄志の表情にそう言った感情は見て取れない。むしろ、怯えているような顔をしていた。

 粉砕鬼と恐れられる雄志が怯える存在。撫子は背筋に冷たい物を覚える。

 しかし撫子の知る樹は、恐怖や畏怖からは程遠い存在に思えた。雄志と比べたら小さく見えるが、高校一年生としては高い身長。雄志とは比べ物にならない柔和な顔。第一印象だけなら、百人中九十九人は樹を選ぶだろう。もっとも、あの張り付けたような笑顔だけは好きになれないが。


「気をつけるって、あの子はそんな危険人物なんですか?」

「俺なんかより、よっぽど」


 思い切って質問をすると、美しいアオイロに塗られた地下道に雄志の低い声が反響した。地下道は床から天上まで余すことなく、海のような青系統のグラデーションがかかっており、写真のような迫力の海の生き物達が生き生きと描かれていた。薄暗い地下道のイメージを吹き飛ばす、芸術と呼んで差し支えないレベルの明るい絵ではあったが、雄志の言葉はその底に沈んでいきそうなほど重たかった。


「そうは言っても、わかりやすい危険さはありません。少なくとも、暴力的な意味では殆ど無害のはずですよ。流石に撫子先輩じゃあ勝てないでしょうけど、特に鍛えてなくても四・五人で囲めば余裕でしょうね。別段頭が良い訳でもないです。中の上くらいでしょうか? それに口が上手いわけでもない。お喋りではありますが。両親が大人物でもないです。言い換えれば、普通の人間です」


 淡々とした雄志の語りに、撫子は耳を傾ける。こんなに長く雄志が喋ったのは初めてで、それが自分に対することじゃあないのは少しだけ悔しかった。


「異常なのは、あいつの価値観です」

「た、例えば、どう危険なんですか」


 足元を泳ぐ背美鯨の背中を歩きながら、撫子は要領を得ない雄志の答えに相槌を打つ。今の説明では、樹がどう危険なのかがさっぱりわからない。むしろ、より好意的な人物にすら聴こえてきた。どんな悪逆を尽くせば、目の前の雄志よりも巨悪な存在になるというのだろうか? 訊ねるのが少し恐ろしかったが、口を閉じて返事を待った。


「例えようがないです。あいつが直接何かをしたって話は聞いたことがないもので。もしかしたら、俺が単純に大木のことを嫌いなだけかもしれません。それでも、なるべく大木には近付かないで下さい。あいつは本当に自己中心的で自己に忠実的で、それでいて排他的じゃあないんです。それこそ、撫子先輩のお姉さんや、俺を引き取ってくれた嵐に匹敵するくらい」


 結局、具体的なイメージは一切上げられなかったが、最後の例え話で、撫子は納得した。自由気ままで考えなしで勢いだけあって、どうしようもなく勝手な姉の同類項。なるほど、雄志が念を入れるのもわかると言う物だ。

 言葉は多少厳しいものがあったが、要するに「あいつに関わると厄介事が付いてくるぞ」と言う意味だろう。思い返せば、雄志に告白したあの日、呼ばれてもないのに付いてきて、姫の考えも撫子の気も知らずに話を強引に進めていた。トラブルメーカーと呼んでも違和感のない活躍だった。

 しかしあの日。樹が来なかったら、今日はきっと全然違った一日になっていたのだろう。そのことに感謝していないと言えば嘘になるが、少なからず恨んでいるというのも事実である。真逆の感情を矛盾なく心に植えつけると言う点においては、姉よりもよっぽど性質が悪く思える。

 それだけで人付き合いを判断するのもどうかと思うが、予想できない混沌とした人間は既に間に合っている。友達になってくれた結愛には悪いが、樹とはなるべく距離を置くことにしよう。


「それにしても、雄志君、友達なのに滅茶苦茶言いますね。大木君のこと」


 自分も好き放題考えているわけだが、雄志はそれに輪をかけて酷い。殆ど貶めているのと変わらない。影口悪口も良い所だ。


「滅茶苦茶?」撫子の問いに、珍しく雄志が笑った。「あいつの言葉より滅茶苦茶なものはないですよ。もし話す機会があったとしても、真剣に耳を傾けてないで下さいよ? 大木の言葉は正しい、間違ってはいない。あいつが正常だと言う前提があってですけど」

「つまり。友達だから言っているってことですか?」


 どうにか雄志の言葉を好意的に解釈しようとするが、「友達かどうかも微妙ですが」なんともつれない言葉が返って来るだけだった。

 しかしこんなにも饒舌な雄志は初めてだった。壁に描かれた泡と共に地上を目指して階段を上がりながら、雄志の口をこれほどまでに動かした樹を少しだけ羨ましく思う。きっと、これも信頼関係なんだろう。まだ喧嘩はおろか、愚痴の一つもこぼし合ったことがない撫子とは雲泥の差だ。

 いや、本音で語り合うことができない時点で、その差は絶望的か。地下道の階段を上り切り、撫子はそんなことを思う。いつか、知らせなくてはならない。そのいつかが来ないことを祈る自分は卑怯なのだろうか?


「大木の話はもういいとして、あれが家……俺が居候しているマンションです」


 何度も何度もループした思考に嵌りかけた撫子の意識を、雄志の声が引っ張り上げる。丁度地下道からの階段も終わった所で、撫子は顔を上げて雄志が指す方に顔を向ける。そこに見えたのは、比較的新しそうな黒色の建物。田舎らしくその後ろは直ぐ山になっていて、大雨の時土砂崩れの被害に遭ってテレビで放送されそうなマンションだなと思った。


「五階建ての築三年。一階と二階が嵐さんの経営する人材派遣外会社のフロアで、三・四階にそれぞれ六部屋。五階は盃夫妻の家です」

 淡々と頼んでもないのに説明をする雄志。その表情は少し誇らしげで、まるで自分の輝かしい経歴を語るような表情で、なんだかおかしかった。待ち合わせをしてから十分位しか経っていないと言うのに、今日は中々珍しい表情ばかりが覗ける。頭の中の暗い思考は放り出して、撫子は取りあえず今日一日を楽しもうと心の中で決めた。いつか来る恐怖を眺め続けることができる程、撫子の精神は強くないのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ