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act-03 エルフの森

 まだらに降り注ぐ春の木漏れ日が地面に網目模様を映し出す。新緑の生い茂った森の空気は濾過したように澄んでいた。それらを肺いっぱいに吸ってみると、身体の内側から浄化されるようだった。

 クレミーは消えかけた街道を陽気に辿っていく。樹木を切り倒して作られた人工の小道はよほど整備が行き届いていないのか、進むにつれて徐々に大自然に飲み込まれつつあった。

 それにしても、思った以上に森は長い。旅立ちの準備を手伝ってくれた侍女に聞いたところ、一、二時間も歩けば隣町に着くと言っていたのだが、もうかれこれ出発してから三時間は経っている。外を歩き慣れていないという理由だけでは説明できない遅延だ。

 そろそろ日が傾き始めている。

 幸いにも今のところ魔物との遭遇はなく、またこんなにも穏やかな自然の中に凶悪な魔物が棲んでいるとも思えなかった。すっかり緊張感をなくしてしまったクレミーは終いには目を閉じて、時折聴こえてくるうぐいすの歌声に耳を傾けながら、安らぎに身を任せた。

 しばらく足を運ぶと、進路上に大きな倒木を発見した。街道を断つように横倒しになっているそれの高さはクレミーの身長を超えている。どうやらかなりの巨木のようだ。

 クレミーは眼前に『そびえ立つ』大木を見上げて、自分が小人に変身してしまったかのような感覚に陥った。倒れている木に『立つ』という表現を使うというのも妙だが、それほどまでにスケールが大きいのだ。

 クレミーは倒木を避けようと左右に回り道を求めたが、ここからでは折れ目も頂上も木々に隠れて確認できない。どこまであるかも分からない大木を当てにして、草木が鬱蒼とする深い林の中を掻き分けながら迂回するのは得策とは思えなかった。

 悩んだ挙げ句、結局、目の前の巨木を乗り越えて行くことに決めた。クレミーは片肩に提げていた荷物を先に幹に上げると、木の端に手を掛けた。

「あれ」

 いざ登ろうとして気が付いたのだが、樹皮の表面に足場にするための取っ掛かりがいくつか彫り込まれている。おそらくこの道を頻繁に行き来する冒険者か商人かが作ったものと見てまず間違いないだろう。

 ありがとうございますと心の中で謝辞を述べながら、クレミーは腕に力を込めて身体を浮き上がらせた。そのまま取っ掛かりを利用して一気に登ろうと頭上を振り仰いだその時、空を切り取る太い枝の上に、手に『何か』を持った小さな影を認めた。

「やあああっ!」

 その瞬間、影は枝から飛び降りてその『何か』を思い切り振り下ろした。落下の勢いに合わせて落とされたそれは頑丈な木の棒の先に鋭利な石をくくりつけて作ったハンドアックスだった。

 先に動いたクレミーは即座に倒木から手を離して間一髪その攻撃を避けた。石斧がクレミーの登ろうとしていた樹面をえぐる。

「くそお、ニンゲンめ!」

 奇襲の失敗を悔しがる声に、何者だとクレミーが幹の上を睨みつけると、攻撃を掛けてきたのはまだ年端もいかぬ少年だった。ただし、その耳は人間のそれよりも長く、尖っている。

「……エルフ!?」

「今だ! おまえたち、やれえ!」

 エルフの少年が叫ぶと、クレミーの両脇の草むらからもう二人仲間らしき少年が飛び出してきた。どちらも同じく石斧を持ってクレミーに襲い掛かる。

「おっと!」

 クレミーは右側から横薙ぎに振られた石斧を数歩距離を取ってかわすと、間髪入れず左側から飛び掛ってきた少年の振り上げた手を掴む。さらに少年の手から斧を払い落とすと、背中側に回り込んで少年の右手を後ろ手に締め上げ、左手を少年自身の首筋に回して押さえつけた。

「いてえ! 離せよ!」

「動かないでください!」

 クレミーが声を張り上げると、三人の少年はぎくりと動きを止めた。

「……あなた達がどうして僕を襲ったのかは知りませんが、自分を殺そうとしている相手に情けを掛けるほど僕はお人好しではありません。それでもまだ向かってくるのなら容赦はしませんよ」

 剣帯に吊るした長剣ウォーキングソードが音を立てる。捕らえられた少年がびくりと全身を震わせた。

 クレミーが他の二人の方に鋭い眼差しを向けると、彼らははっとして構えていた石斧を電気でも走ったみたいに慌てて地面に放り投げた。

 ふう、と安心したクレミーはあらためて目の前の少年を見た。エルフの寿命は人間の何倍もあると聞いたことがあるので実際には判らないが、外見だけでいえば人間の十歳ほどだろうか。その吸い込まれるような瞳には一点の穢れも見出せなかった。

 何か事情があるのかもしれない。

「大丈夫。戦う気がないのならあなた達を傷つけたりはしませんよ。ただ、このまま見過ごすのは襲われた僕の気が済みませんから、何か訳があるなら話してもらえませんか」

 クレミーが優しく諭すと、地上にいる少年は半べそになりながらこくこくと首を縦に振り、取り押さえられている少年は目を伏せて黙りこくった。しかし、初めに襲ってきた少年だけは木の上から気丈にもクレミーを睨み付け、それから勝ち誇ったように笑った。

「おいニンゲン。これ、なーんだ」

 少年は見せ付けるように手に持ったリュックを揺らした。それは先に幹の上に乗せておいたクレミーの手荷物だった。もちろん中には携帯食料や現金が入っている。

「あ、ちょっと、その鞄は――」

「えいっ!」

「うぐっ!」

 一瞬拘束の力を緩めた隙に、押さえていた少年が離れてクレミーの鳩尾に肘打ちを喰らわせた。完全に不意を衝かれたクレミーは痛みに片膝をつく。

「ずらかるぞ!」

 鞄を持ったリーダーらしき少年の合図で三人は森の奥へと駆け出した。あの巨大な倒木をまるで跳び箱でも跳ぶように軽々と飛び越え、たちまち森の茂みの中へと姿を消してしまった。

「うう……」

 腹部の鈍痛と、年少者にしてやられた情けなさとでクレミーはしばらく立ち上がることができなかった。子供だと思って寛容な態度で接した結果がこれだ。無様この上ない。

 でも、どうしてこんなところにエルフがいるんだろう。

 ふと不思議に思ったその時、クレミーがやって来た街道を同じように辿ってくる者がいた。ちらりと目を向けると、どうやら若い女のようだった。年齢はクレミーと同じかそれ以下か。もっとも、何よりも気になったのは彼女もまたエルフ族であるという点なのだが。

 狩りの帰りだろうか。動きを阻害しないために露出の多い格好をしたエルフの少女は背中に大きな弓を携え、肩には討ち取った魔物を担いでいる。毛皮と食料に使うモリギツネだ。

 クレミーはおもむろに立ち上がって剣の柄に手を掛ける。相手は弓手で、しかもまだ武器を構えてはいない。もう先程のようなへまはしないつもりだ。

 先手必勝、やられる前にやれ!

「うおおおおお!」

 剣を抜いたクレミーが雄叫びを上げながら突進する。すると少女はびっくりしたように獲物を取り落とし、あたふたと左右を見回すと、泡を食って逃げ出した。

 拍子抜けして立ち止ったクレミーを置いて、少女は目にも留まらぬ速さで来た道を引き返して行く。と思ったら突然かくんと横に折れ、近くの適当な樹木の後ろに身を隠した。そのままそっと顔だけ覗かせてクレミーを窺う。

 二人の間に沈黙が流れる。

「あの……」

 気まずさに耐え切れなくなったクレミーが先に声を漏らした。神経質になっている少女はその呟きにすら敏感に反応し、びくんと小さく跳ね上がると、一本後ろの木へと移った。そしてまた顔を覗かせる。

 すっかり戦意を削がれたクレミーは剣を仕舞い、剣帯から鞘を外して地面に置いた。加えて両手を上げて害意がないことを示すと、不器用に少女に向かって笑いかけた。

 少女はそこで初めて安心したように息をつき、落とした獲物を拾いに戻ってきた。至近距離で見る彼女の思った以上に整った顔立ちや、エルフ特有の色鮮やかな翠色の長髪にクレミーはどぎまぎさせられた。

「あの、どうしてこの森の中に……?」

 少女は若干の怯えを含む細々とした声でクレミーに恐る恐る尋ねた。

 その質問に答えようと口を開いた時、クレミーはある問題に直面した。目の前の少女に対してどのように接するべきかという問題だ。皇城内では、身内相手にも敬語で話していたが、それに息苦しさを感じていなかったかと聞かれれば、答えはおそらく『ノー』になる。ところが、既に皇子という身分を捨てたというのならば、そのような丁寧な口調からも離れるべきではないだろうか。

 それに何より、もし口調で皇子だとバレたら大変だ。

「ええと、」

 クレミーが語頭を漏らすと、少女は獲物を担ぎ上げるために屈んだ姿勢のままクレミーを見上げた。上目遣いのその瞳にはまだわずかに恐怖が滲んでいる。

「森に入る前の分かれ道に立て札があったんだけど、そこにこっちの道の方が安全って書いてあったから、かな」

 クレミーが慣れない口調に苦労しながら説明すると、少女はぽかんと首を傾げた。

「安全……ですか? たしか、あそこの立て札にはこちらの森には立ち入らないように書いてあったはずなのですが。それに、森の入口にも同じようなことが書かれた看板があったと思いますし」

「ええ、そんな……」

 クレミーは記憶を辿った。あの幼児が書いたような稚拙な字は忘れようにも忘れられない。今思えば、そのいかにも怪しい立て札をもっと疑うべきだったのかもしれない。

「あっ」

「どうかしましたか?」

「もしかしてさっきの子供達が……」

「こども?」

 かくんと首を傾げる少女に、先程の事件について話す。いきなり襲われたこと、犯人はエルフ族の少年達だったこと、荷物を盗られたことなどをだ。

「ああ……あの子達はまたなんということを……」

 少女は頭が痛いといったふうに額に手を当て、それからはっと気付いたようにクレミーの方を見ると、急いで頭を下げた。

「ごめんなさい! 村の子供達が大変なことを! それもそうですよね、警戒されても仕方ないです。……本当にごめんなさい」

「いや、謝るのは僕の方だよ。どんな理由があろうと、君に剣を向けてしまった。許してほしい」

 お互いに非を認め合って、ひとまずその話は終わりにした。 

「そうだ、村って?」

「この森の奥地にあるエルフの村です。そこではわたしを含め少数のエルフの民が暮らしております」

 ということは、さっきの少年達は村に帰ったということだろうか。クレミーは倒木の向こうへ目を向ける。

「あ、申し遅れました。わたしはシャロンという者です。知っていますか? エルフは一族全体が一つの家族とされているので姓がないのですよ。……えっと、お名前を伺っても?」

「あ、うん。僕はクレミー・ド――」

 ドイルと名乗ろうとして言い留まった。確かに皇家は捨てたが、姓をどうするかまでは考えが及んでいなかった。とはいえここでドイルを名乗るのも面倒なことになりそうなので、急遽、母方の旧姓を拝借することにした。

「――ミルフォード。よろしくね、シャロン」

 クレミーはごまかしのつもりでぎこちなく笑った。

 シャロンは特に疑う素振りもなく、「クレミーさんですか。そういえば、帝国の皇子様もそんな名前だった気がします」と先程までの怯えが嘘のように笑顔で手を差し出した。クレミーは彼女の何気ない一言に内心ひやひやさせられながらも、表向きには快く握手に応じた。これから名乗るたびにこのような複雑な思いが影を落とすのだろうかと思うと、いささか気が重くなった。

「ところで、人間がその村に行くのはまずいのかな。えっと、ほら、盗られた荷物のこともあるし」

「いえ、人間を好んでいないのは一部のエルフのみなのです。本当は、種族の違いとか寿命の違いとか関係なしに一緒に暮らせたらいいのですけれど……。って、そうじゃなくて! 私の知り合いだと言えば、村の人達もわかってくれると思います、たぶん、おそらく、もしかしたら……」

 尻すぼみになるシャロンの言葉。だがそれでもクレミーを安心させるには十分だった。このまま荷物を見限って来た道を引き返すことになるだろうと半ば諦観していたため、その安堵感もひとしおだ。

 もうすぐ日が落ちる。

 夜行性の魔物は凶暴といわれる。できれば暗くなる前に村に着きたいものだ。

「大丈夫ですっ。わたしが案内しますから」

 シャロンはぐっと胸の前でガッツポーズを取ると、獲物を抱えて歩き出した。――森の入口に向かって。

「そっち逆だけど」

「……はっ!?」

 シャロンは慌ててくるりとUターンをすると、羞恥に頬を赤らめて逃げるように倒木を飛び越えた。獲物を担ぎながらもその動作は軽快だ。

「本当に大丈夫かな」

 ずんずんと先を行くシャロンの背中を眺めながら、クレミーは先行きが心配でならなかった。

 夕暮れのエルフの森にはからすの感傷的な鳴き声がこだまし、西からの落陽が道なき道を歩く二人の身体を煌々と照らしていた。




     *




「すごい……森の中にこんな広い空間があったなんて……」

 円状に森を切り拓いてつくった広大な芝生の広場には布張りの家屋が散在している。中心に置かれた銅像を囲むようにして同心円状に家々が建ち並び、布越しに漏れる家の明かりや、ゆらゆらと立ち昇る調理の湯気などからは村の営みが盛んに窺えた。帝都とはまた違ったあたたかさがそこには感じ取れた。

 それがシャロンの暮らすエルフの村『ルンカ』の風景だ。

 ルンカとは太古の昔にこの豊かな森を発見し、仲間と共に村を建てたエルフ族の先祖の名前で、現存するエルフの民は総じてルンカの血を引いていると伝えられている。中心にある銅像もそのルンカを模して彫られたものだ。 

 二人がエルフの村に着いたのは日没をとっくに過ぎて、月がちょうど真上にのぼった頃だった。

「なんだか、思ったより時間が掛かりましたね」

「……そうだね」

 シャロンの悪意のない感想に、クレミーは呆れを通り越して力無く答えた。

 本来ならば、ここまで遅くなるはずはなかったのだ。倒木のあった地点、すなわちクレミーが危うく殺されかけたあの因縁の場所にいた時点で既に村は目前だった。

 ところが、道中でシャロンが「近道があるんです」と得意満面に林の中を進んでいったせいで、もちろん方向音痴の彼女のことだから村に着くまでにかなりの紆余曲折を経たのは言うまでもないが、それに加えて彼女が狩ったモリギツネの同胞達に追い回されたり、途中で「愛用の弓を落としてしまいました!」と来た道を随分と遡ったり、終いには完全に迷子と化したシャロンが泣きそうな顔でクレミーに縋ってきたりしたので、結局こんな時間になってしまった。

 今まで一人の時はどうやって村に帰っていたのだろうか。クレミーは隣にいる森生まれ森育ちの超天然娘の横顔を見やり、それから諦めたように嘆息した。

 当の本人はここに行き着くまでの苦労はもう水に流してしまったようにうんと伸びをすると、クレミーを振り返って無邪気に笑った。

「わたし、お腹ぺこぺこです。帰って早くご飯にしましょう!」

「あ、シャロン……」

 言うが早いか、シャロンは嬉々として一つの家に向かって駆けて行く。同心円の最も外側の家だ。クレミーは攫われた荷物のことがいささか気がかりではあったが、シャロンのあの無垢な笑顔を見ていたら、些細な問題だと思った。

 家の中から顔だけ出して「クレミーさん早く早く!」と手招きするシャロンに急かされてクレミーは布製の玄関をくぐった。丸太を組んだ足場に獣皮を敷いて布地を被せただけの簡素な造りの家の中は天井から吊るされたランタンの橙色の光で満たされており、どことなく幻想的だった。

「あの、クレミーさん。本当はこの村にも公衆浴場があるのですけれど、思いのほか帰りが遅くなってしまって、その……」

「時間切れ?」

「そうなのです。ごめんなさい……」

 しゅんとするシャロンに、クレミーは手を振って答える。

「いいよいいよ。別に一日お風呂に入らなかったところで死ぬわけじゃないから。むしろ、シャロンは平気なの?」

「へっ?」

「だって、女の子なのに」

 察しが悪いシャロンにクレミーが付け加えると、彼女はそんなことかと合点がいった。

「いえいえ。森で生活している以上、こういうことには慣れてますから」

 シャロンは得意げに胸を張った。

 それから二人は申し訳程度にタオルで身体を拭いた。――もちろん別々の場所で。

「この灯りはどうやって点いているの?」

 身体を拭き終えてお互いに顔を合わせると、クレミーは気になっていた疑問を投げかけた。

 ランプに明かりを灯したければ蝋燭かオイルやガスといった燃料が必須である。ところが目の前のランタンにはそれらしいものはなく、ただのガラス球にしか見えなかった。

 森の中なので電動はありえないだろうし、何よりこの部屋には放電石も電気配線も見当たらない。

 シャロンは少し意外そうな顔でクレミーを見つめ、「魔術ですよ」と悪戯っぽく笑うと、ランタンに人差し指を向けた。すると、まるでスイッチのオン・オフを切り替えるようにランタンの灯が明滅し始めた。

「すごい!」

「火の魔術の一種です。……こんなこともできますよ」

 クレミーに褒められて上機嫌なシャロンは今度はランプに向けた手を開いた。そしてさっきよりも強く力を集中させたところ、ガラスの中の灯が突然ぼうっと燃え上がった。盛んに燃焼する炎は容器を焦がさんばかりにその勢いを増していき、やがて部屋の中が真昼のように明るくなった。

「ま、眩しい……!」

「あはははっ」

 シャロンがかざしていた手を下ろすと、ランタンは元の火力を取り戻した。しかし灯が消えていないということはシャロンが魔術を使い続けている証拠だ。単純な術なら無意識的にも唱えられるということだろうか。

「それにしても、驚きました。クレミーさんは魔術をご存じないのですか?」

「知っているには知っているんだけど……」

 アレンという偉大な魔術師の魔術を間近で見てきたのだから、とは言わない。

「僕は使えないから」

 セントラルバニアには魔術という文化があまり浸透していない。他国には昔から、中央といえば剣、剣といえば中央といったイメージで通っているらしく、はるばる帝都にやって来る若き芽の多くは騎士団志望や武者修行目的であることが多かった。そして、その分魔術の発展は遅れることになる。結果、魔術を専門に教える学校もなければ、独自の研究機関もないといった非魔術志向の国が生まれてしまった。一応、知識や技術は書物という形で他国からの輸入しているものの、使い手の欠乏も相まって、実用レベルに達していないというのが現実だ。

「えっ、そうなのですか? わたしはてっきり使えるのだと思ってました」

 だって、とシャロンはクレミーの胸の辺りを指差した。クレミーはまさか自分まで燃やされてしまうのではないかと思ってどきりと心臓が跳ね上がった。

「こんなにも魔力に溢れている人、わたし見たことないですよ」

「えっ?」

 シャロンはちょっと首を傾げると、それから思いついたようにぽんと手を打った。

「そうだ! わたしが魔術を教えてあげればいいんだ」

「え、本当に?」

「はい! ……といっても、わたしも簡単なものしか使えないのですけれど」

 シャロンは恥ずかしそうにぺろりと舌を出した。

「十分だよ。実は昔からけっこう憧れてたんだ」

「それは何よりです。では、何から教えましょ――」

 その時、シャロンの腹の虫が盛大な音を立てた。そこで初めて二人は夕食を食べていないことに気が付いた。

「わ、恥ずかしい……」

「まずはご飯だね。魔術は明日にでもお願いしようかな」

「はい……」

 クレミーは顔を真っ赤にしたシャロンとともに、少し遅めの夕食の準備に取り掛かった。献立は本日シャロンが獲ってきたモリギツネの香り焼きと、村で採れる山菜のスープだ。

 食事を終えた頃にはすっかり夜も更けてしまった。クレミーは食卓の椅子で早々に舟を漕いでいるシャロンを寝床に連れて行き、玄関先にあった水瓶で食器を洗った。最後にクレミーには消せないランタンの灯をシャロンに消すように囁きかけると、いくつか寝言を並べたのち、ふっと灯が消えた。

 クレミーは思い出したように軽鎧を先程のタオルで拭いてから、適当にその辺の床で横になった。

「やっぱり着替えは持ってくるべきだったな」

 かさばるので諦めたが、やはり服を替えないとどこか心地が悪い。城の恵まれた生活が身体に染み込んでいるクレミーは実を言えば身体を流さないことにもかなりの抵抗があったのだが、シャロンの前ではそんなことは口に出来るはずもなかった。

「僕はもう、皇子じゃないんだから……」

 疲労から眠気はすぐにやって来た。

 ろくに帝都を出たこともない皇子の放浪一日目は、これにて幕を閉じた。

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