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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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エピローグ 雪と牙の兆し

 円卓のざわめきが完全に収まりきらぬまま、扉が乱暴に開いた。

 蝶番が擦れる音が大広間の高い天井へ跳ね、次の瞬間、冷たい空気が一本の刃のように滑り込む。

 石床の上を走った冷えが、白布のかかった卓の端から足首へ伝わった。

 雪の匂いをまとった男が膝をつき、胸の上下を押さえながら頭を垂れる。

 伝令の作法は徹底していた。

 国の顔が揃う場で、息の乱れを言い訳にしない。

「狼国、北方の雪山より急報! 霊脈が……乱れております」

 狼国の将が顔を上げる。先ほどまで微動だにしなかった表情が、刃物の角度を変えたように鋭さを帯びた。怒りではない。守るべき領域が侵される予兆を、骨で受け取った反応だった。

 伝令は掌を握り、言葉を噛みしめるように続ける。

「山の獣たちが夜を徹して吠え、群れの規律が崩れています。人里へ下りる個体も出ました。雪原に、黒い筋のような痕が走ったと……」

 獅子国の代表たちの間で空気が詰まる。霊脈の異常――それは、いまここで語られた『第三の歪み』と切り離せない。報告の内容があまりに早い。まるで、こちらの会議を待ち構えていたかのようだ。

 レオンは背筋を伸ばし、席を立ちかけた。身体が先に動くのは、守るべきものを知っているからだ。

 だが次の瞬間、重心を落として踏みとどまる。

 ここは戦場ではない。各国の印が並ぶ会議の場で、獅子国だけが先走れば、誓約そのものが揺らぐ。

 狼国の将は伝令の差し出す簡易の報告札へ目を落とし、膝の上で拳を固く握った。

 音のない力が指先に集まり、握り込むほど、理性が逃げ道を塞ぐ。

 怒りに溺れないと誓ったばかりだ。だからこそ、今の沈黙は重い。

 その沈黙に、床を滑るような足音が重なった。誰かが近づいてくる気配が、衣擦れひとつでわかる。

 麒麟の使者が姿を現し、薄い衣の裾を波のように動かしながら円卓の中央へ進む。

 獣の国々の会議では、発言順も席次も厳密だ。にもかかわらず、彼が歩みを止められないのは、今夜の報告が条文よりも先に世界の均衡へ触れているからだった。

「北に起きている乱れは、ただの兆しではありません」

 使者の声は高くも低くもない。だが、耳の奥へ沈む。言葉の芯が霊脈を知る者のものだった。

「獅子の炎と、影の少女の結びは、次に来る〝雪と牙の歪み〟を解く鍵となる」

 言い切った瞬間、場の目が一斉に動く。

 向けられた先にいるのは紗世だった。彼女は席の脇に立ち、まっすぐ前を見ている。背後に立つレオンの気配が、熱のように張りついて離れない。準契りの印は隠せない。手の甲に刻まれたものが示すのは、恋情ではなく、互いを拒まぬという選択の結果だ。

 紗世はなにも言わない。言い返せば、会議は感情へ落ちる。沈黙を保つのは、逃げのためではない。対話の余白を残すための判断だった。

 そして彼女は、レオンの背へ一歩だけ近づく。寄りかかる距離ではない。孤立させないための距離。獅子国の王が世界へ責を示すとき、影を宿す者が背後で同じ重さを受け止める――その形を、言葉抜きで示した。

 狼国の将の顔がわずかに変わる。獅子国への不信が消えたのではない。次の脅威が、国境の外から来ると確定しただけだ。黒豹国の使者が口を結び、鹿族の代表が杯から手を離す。

 誰も口にしないまま、結論だけが場に落ちた。紗世は、もはや一国の事情ではない。

 雪山で始まった乱れは、会議の外で待ってくれない。円卓の白布が皺ひとつなく敷かれているほど、現実は皺だらけだ。

 レオンは短く頷き、伝令へ命じる前に、各国の代表へ向けて言葉を整える。次に動くためには、合意が要る。合意を得るには、恐れではなく責任を示す必要がある。

 戦後の円卓は、また別の戦いの入口になりつつあった。雪と牙の兆しが、北から確かに迫っている。


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