エピローグ 誇り高き狼
和平条件の確認は、淡々と進められていた。
条文が読み上げられ、同意の印が重ねられるたび、円卓に満ちる緊張は薄まることなく形を変えて残る。
静けさはある。だが、それは和らぎではなく、感情を押し殺した結果としての沈黙だった。
獅子国の大広間は広い。天井高く掲げられた紋章と、磨かれた床石が、集う者たちの立場を等しく照らし出す。にもかかわらず、各国の間に横たわる距離は、数歩では埋まらない深さを持っていた。
その空気を切り裂いたのは、狼国の将の声だった。
「獅子国を、我らはまだ信じてはいない」
低く、抑えた声。刃を含ませぬよう選ばれた言葉だからこそ、拒絶の重みが際立つ。
「戦場で、我らは多くを失った。名も、家も、帰る背中もだ」
彼の肩は揺らがない。感情を表に出さぬのは、弱さを隠すためではなく、背負うべきものを知っている者の姿勢だった。
「だが――」
言葉を継ぐ前に、短い間が置かれる。その沈黙は迷いではなく、怒りを飲み込むための時間だった。
「国を背負う者は、憎しみに溺れてはならぬ。憎しみは刃を鈍らせ、仲間を曇らせる」
円卓の空気が張り詰める。老獅子たちの背が強張り、鹿族の代表が無意識に指を組み替えた。
レオンは、その場で立ち上がった。議長席から離れ、狼の将の前へ進む。足取りは速くない。だが、ためらいもない。その所作自体が、言葉より先に意思を示していた。
彼は深く頭を下げる。王代理としてではなく、ひとりの獅子として。
「妹を奪った敵は、お前たちではなかった」
声は低く、揺れを含まない。
「俺の弱さと、この世界を蝕む影だ。守る力が足りなかった。その責は、すべて俺にある」
責を分けない言葉は、場に重く落ちた。逃げ道を断つような覚悟が、静かに広がる。
狼の将は、すぐには応じなかった。眉がわずかに動き、思考が巡る。その沈黙は拒絶ではなく、言葉を選ぶためのものだった。
やがて、彼の拳が一度だけ強く握られ、開かれる。
「……我らもまた、見えぬ敵に踊らされていたのかもしれぬ」
吐き出すような声が、円卓に落ちた。怒りを否定したわけではない。だが、それだけに身を委ねないと決めた音だった。
レオンは顔を上げ、将と向き合う。獅子と狼。かつて幾度も刃を交えた種族同士が、言葉だけで立っている。その事実が、場に新しい重みを生んだ。
「我らは誇りを捨てぬ」
狼の将が続ける。
「誇りとは、吠えることではない。背を向けぬことだ。我らは、次の戦を選ばぬと決める」
それは許しではない。和解でもない。だが、互いの誇りが踏み越えてはならぬ線を、はっきりと引いた宣言だった。
紗世は、レオンの背に半歩だけ近づいた。影を宿す存在として、ここに立つ選択を示す距離。言葉は出さない。沈黙が、対話の余白を守っている。
この場で生まれたのは、完全な信頼ではない。だが、誇りと誇りが正面から向き合うための土台だった。
狼の将は席へ戻り、円卓に手を置く。
「我らは忘れぬ。だが、未来を閉ざす選択もしない」
その一言で、議は再び進み始めた。
獅子国の大広間に満ちる空気は、依然として緊張を孕んでいる。それでも、そこには一つの変化があった。
誇り高き狼は、牙を収めたのではない。選ぶべき相手を、見誤らぬと決めただけだ。




