第二十章 選ばれた影
紗世は一歩だけ踏み出した。
朱雀の文様を刻んだ石畳は夜の冷えを抱え、足裏に硬い現実を返してくる。
月明かりの下、レオンの胸元の炎の紋は淡い熱を保ち、呼吸に合わせて輪郭がわずかに伸び縮みした。
さきほど彼が差し出した「決めろ」という言葉が、まだこの場の空気に引っかかっている。
命令ではない。逃げ道でもない。
誰かを裁く側に立ち続けてきた男が、初めて選ばれる側へ身を置いた証だ。
紗世はその重さを知っている。
選ぶことは、同時に責任を引き受けることでもある。王代理という肩書きが背負う責任とは別に、ひとりの男として誰かに委ねる責任がある。拒まれたときに残る痛みを、彼は理解したうえで差し出している。
紗世は手を伸ばし、途中で止めた。触れれば慰めになる。
だが今夜必要なのは慰めではない。失ったものを、失ったまま置き、そこに新しい線を引くことだ。
髪に挿された花飾りが、冷えた夜気にさらされている。欠けた一部を抱えたままの花弁は、守られてきた時間を黙って示す。
王妹リアナの名残を、祝福へ塗り替えるために飾っているのではない。弔いの重さを見えない所へ追いやらず、ここに連れてきたのだと、紗世は受け取っていた。
レオンは正面に立ち、言葉を発さない。待つという行為に慣れていない者ほど、待つときに荒さが出る。だが彼は、荒さを抑え込んでいた。強さとして押さえ込むのではなく、相手の意思を尊重するために。
紗世は胸の奥で自分に問いを立てる。影であることは逃げか。否。影は隠れる場所ではない。強い炎があるからこそ生まれる輪郭のそばで、同じ向きに立つための位置だ。レオンが〝太陽〟を降りたのなら、自分もまた影を言い訳にして後ろへ退くことはできない。
紗世は手を下ろし、代わりに言葉を選び取った。
「あなたの炎に焼かれるのではなく……隣で、その炎を一緒に見ていたいんです」
言い終えた直後、夜風が中庭を抜けた。花飾りの花弁が髪に触れて小さく鳴り、リアナの名が一瞬だけ近くなる。紗世はその音を追わない。追えば過去へ引かれる。過去を捨てずに、今ここに立ち続けるために、目の前の人間を見失わない。
レオンの目が一瞬だけ柔らかくなる。
王代理としての硬い仮面の隙間から、ひとりの男の顔が覗いた。
彼は声を出さず、ただ待っている。委ねるという行為が恐ろしいことを知ったまま、逃げずに。
紗世はもう一歩近づいた。
胸元へ伸ばしかけた手は触れない。触れれば、それが縛りになる気がした。
今の彼が欲しているのは鎖ではなく、選択だ。だから距離だけを詰め、息が混ざるほどの近さで、言葉を置く。
「もし許されるなら……あなたの影でありたいです」
従うためではない。置き去りにされないためでもない。共に立つと決めた者としての宣言だった。
レオンは小さく頷いた。その動きだけで、十分だった。失ってきたものの重さが、その頷きの中に沈んでいる。手を伸ばすことさえ怖かったはずなのに、彼はここで止まらない。
紗世は手のひらを返し、手の甲を差し出した。相手の手を掴む形ではなく、受け止める形を選ぶ。獅子国の作法では、誓いは口にするだけでは足りない。王家も騎士も、重要な決断の場では身体で示す。握手は同盟、手の甲を重ねるのは「互いを傷つけない」誓約に近い。
レオンも同じように手を返す。迷いが走るのが分かる。触れた瞬間に、戻れない場所へ入るのだと理解しているからだ。それでも彼は逃げない。
互いの手の甲が重なる。夜の冷えと、胸元の熱が交わり、炎は荒れず、影も怯まない。
二人の間に、言葉にしなくても折れない線が一本引かれた。
紗世はその線を感じ取り、花飾りの欠けた部分に指先を添えた。欠けたままの花を受け取るということは、喪失を抱えたまま未来へ進むということだ。
レオンは紗世の手を見つめ、短く言う。
「……ありがとう」
それは赦しを乞う言葉でも、慰めを求める言葉でもない。選ばれたことへの、ただの受領だった。
鐘の名残が消えきらない夜の中庭で、影は選ばれた。選ばれた影は、もう隠れない。




