第一章・頁が揺れたとき
風呂を終え、ドライヤーの音が止む。湿り気を含んでいた髪が指の間を抜けていき、首筋にひやりとした感覚が残った。
スウェットに着替えた紗世は、ベッドの端に腰を下ろす。薄い布団越しに伝わるマットレスの沈みと、壁の時計が刻む律動だけが、部屋の時間を示していた。
テレビはつけていない。スマートフォンの画面も伏せたまま、室内には生活音と呼べるものがほとんど存在しない。
しばらく天井を眺めたあと、紗世は上半身を起こし、手を伸ばした。机の端に置いておいた古い日記を指先で探り当てる。先ほどまで読んでいたものだが、どうしてももう一度確かめたい文章があった。
表紙を開き、紙の手触りを確かめながらページを戻っていく。黄ばんだ紙がぱり、と小さく鳴り、やがて目的の箇所で動きが止まった。
震えを含んだインクの跡で、そこにはこう残されていた。
『あなたが読んでくれたなら、私の人生は誰かに届いた』
紙に触れた指が、自然と力を失う。
書き手が誰なのか。この文章を書いたとき、どんな部屋で、どんな表情をしていたのか。
なにひとつ分からない。それなのに、胸の奥でなにかがふっと温まる。
(誰にも届かないと思い込んでいた人が、最後に望んだこと)
行間に残された孤独と、わずかな望み。その両方が、自分の輪郭に重なっていく。
職場で名前を呼ばれることが少ない自分。誰かの負担を引き受けても、終わった途端に空気へ溶けてしまう貢献。
「居てもいい」のだと理解されている一方で、「いなくても回る」と判断されている感覚。
ページの言葉は、そんな自分の心の奥に触れ、静かに揺さぶりをかけてきた。
意識しないうちに、喉が動く。
「……私も……誰かの役に立てる力がほしい」
それは願いとも呟きともつかない声だった。強い決意を込めたわけでもなく、泣き言として吐き出したわけでもない。ただ、胸の奥で長く丸まっていた想いが、ふいに形を帯びて外へ零れ出た。
言葉が宙にほどけていく、その瞬間だった。
日記の文字が、水面に石を落としたあとのように波打った。インクが滲んだのではない。線そのものがゆらぎ、輪郭に脈動が走る。
「……え?」
思わず顔を近づけた紗世の目の前で、細い文字の列が、紙の上からわずかに浮かびあがったように見えた。
疑いを確かめるようにページの縁を押さえた瞬間、紙の奥から光があふれ出した。
白でも黄金でもなく、蛍光灯の色とも違う。色の名前を探そうとしても当てはまる言葉が見つからない、異質な光だった。
それは文字の周囲をなぞるように広がり、水面が裏返るような動きで紙の表層を押し広げていく。
ぱん、と耳の奥で弾けるような感覚が走る。
部屋の空気が震えた。背中に当たるベッドの感触がじわじわと変質し、固定されていたはずの床の位置が遠のく。風はないのに、肩ほどまで伸びた髪がふわりと持ち上がった。
湿気を帯びた紙の匂いが濃くなり、鼻の奥を刺激する。さっきまで無臭に近かったこの部屋が、古い図書室の奥の棚のような匂いで満たされていく。
「……閉じなきゃ」
咄嗟にそう思い、紗世は本を閉じようとした。
だが、指先に力を込めるより早く、光がページの隙間から吹き出す。
ゆらいだ光は、やがて本の範囲を超え、部屋の空間そのものに触れた。天井の蛍光灯の明かりが引きずられるように細く伸び、壁に落ちていた影が逆方向へ流れ出す。
フローリングの木目は水紋のように広がり、一直線だったはずの線が幾重にも重なる円へと姿を変えた。
空気には見えない脈動が生まれ、胸の中へ直接押し寄せてくる。まるでこの部屋全体が、見知らぬなにかの呼吸に合わせて形を変え始めたかのようだ。
日記を包んでいた光が、さらに勢いを増した。
頁が自動的に捲られ、紙がぱらぱらと鳴る。その隙間から、言葉とも音ともつかない気配が漏れ出し、紗世の耳の奥を撫でていく。
胸の奥が跳ね、呼吸の流れが乱れた。
めまいのような浮遊感に襲われる。耳鳴りがじんじんと広がり、時計の音も冷蔵庫の駆動音も、別の世界の出来事のように遠ざかっていく。
視界の中心で、日記の頁がゆっくりと反転する。
紗世は反射的に目を閉じた。本能が目の前で起きている状況を拒否していた。
その夜、紗世の部屋では、それ以上の異変は起こらなかった。
日記の頁も光を失い、六畳間はいつも通りの静けさを取り戻す。
ただ、彼女の知らぬところで、世界のどこかの歯車だけが、確かに噛み合い始めていた。




