第十八章 反理の炎
護符が砕けた。
乾いた音が落ちた直後、王座の間の床に細い亀裂が走りる。石の目地を割って黒い炎が噴き上がった。
朱雀の赤でも、龍脈の輝きでもない。熱を伴わないはずなのに、肌が刺されるように痛む。
理を拒む力が、この空間そのものを捻じ曲げ、呼吸の通り道まで変えてしまうからだ。
炎は広がり、壁の紋様が歪んだ線へと崩れていく。
床に落ちる影は引き延ばされ、足元の位置感覚が狂う。息を吸うほど胸の奥へ冷たい圧が沈み、吐いても抜けない。
身体の内側に、見えない鎖が巻かれていく感覚があった。
その圧の向こうで、一瞬だけ輪郭の曖昧な獣影が立ち上がる。
角も爪も定まらない黒の塊。名を持たぬ存在の予兆――玄冥。
理の外側からこちらを覗き込む気配が、王座の間に居座った。
「退け!」
誰かの叫びが届くより先に、炎が跳ねた。石床から弾かれた黒が、刃のように空を裂き、鎧の継ぎ目へ噛みつこうとする。
レオンの胸の紋様が灼けるように疼いた。痛みは傷ではなく、呼び水だ。
彼の内側にある炎が応え、共鳴する。
剣を握る手に力が入り、呼吸が荒くなる。
以前、暴走しかけたあの感覚が、骨の裏側から這い上がってきた。
止めなければならないと理解しているのに、身体が先に反応してしまう。
恐れは形を持たないまま、刃の先に居座る。怒りでも憎しみでもない。
ただ、このままでは自分が〝器〟になるという直感だけが、冷たく確かな重さで腹の底に落ちた。
「……下がれ」
命じながら、レオン自身は一歩前に出ていた。後ろを守るため、前へ出る。
それが癖になっている。だが、今夜の相手は剣で押し返せるものではない。押し返そうとすればするほど、内側の炎が膨らみ、外へ出たがって騒ぎ出す。
次の瞬間、影が伸びた。黒い炎へ向かって、一本の線が差し込まれる。
紗世だった。彼女は恐れを飲み込むのではなく、恐れがあるまま足を運ぶ。
足元の闇が濃さを増し、炎の縁へ触れる。そこで止まらない。触れたまま、重ねる。
「今度は、私が隣にいます」
声はさほど大きくない。
それでも途切れず、王座の間の歪みに飲まれない声音だった。
影は炎を拒まない。追い払おうとすれば、反理はさらに牙を剥く。だから抱え込み、暴れる力に意味を与える。
黒の跳ねが、わずかに角を落とす。空間の捻じれが少し戻り、床の線が本来の位置を思い出す。
レオンは歯を食いしばり、剣を下ろした。刃で勝とうとする衝動を捨てる。捨てたからこそ、内側の炎は暴れきれず、息が通る道が確保される。
炎は消えない。だが、壊すためだけの力ではなくなっていく。黒の奥で蠢いていた獣影が、押し戻されるように引いた。完全ではない。世界のどこかがまだ歪んでいる。
それでも、二人は並んで立っていた。退かない形を、互いの足で作り直しながら。




