第十七章 影に名を与える
再び広間に獣人が集められた。
天井の高さが声を吸い、石床の冷えが足裏へ均等に伝わる。
入口近くではラガンの大きな背が通路を塞ぎ、ゼクスは壁際で腕を組んだまま沈黙を保っていた。
ミレイアは椅子に腰を下ろし、場の均衡を測るように全体を見渡している。
その中心に立つ紗夜は、足元がわずかに冷たく感じられた。
それは石の温度ではない。逃げ道が用意されているという事実が、身体を軽くしてしまう怖さだ。軽さは判断を鈍らせる。鈍れば、選択は誰かのものになる。
――逃げてもいい。
その言葉を向けられた瞬間、胸の奥が一度は解けた。
呼吸が通りやすくなり、肩の力が抜けかける。
楽になるという選択肢が、具体的な形を持って現れたからだ。
その感覚を知ってしまった以上、口にする言葉がどれほど重いかが分かる。
軽さを知った者が選ぶ重さは、逃げ場を持たない。
紗世は一歩、前へ歩み出た。
宣言の前に、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
睫毛の影が頬を横切り、床に落ちて消える。その短い間に、迷いを身体の奥へ沈めた。
「……私は、ここに残ります」
声は安定していた。揺れそうな部分は、喉より深いところへ押し込んである。
ラガンの眉がわずかに動き、ゼクスの表情が引き締まる。ミレイアは呼吸を整え、言葉を挟まずに待った。
「逃げたら、きっと楽になれる。でも――私は、王太子殿下の隣に立つことを選びたい」
名は呼ばない。呼べば、選択が感情の言い訳になる気がした。恋は確かに理由になる。しかし、鎖にしてはならない。
紗世が選ぶのは〝戻る〟でも〝逃げる〟でもない。〝残る〟だ。
「王太子レオンの番候補として……彼の影になります。炎を鎮める役目を、私が果たしたい」
言葉が広間に落ちた瞬間、足元の闇が濃さを増した。
灯の配置は変わらない。誰かが動いたわけでもない。
ただ、床に広がる黒が、境界をはっきりさせていく。
黒い炎の気配が、広間のどこかで応じた。
以前なら、近づくだけで胸が軋み、内側から拒絶が湧いたはずだ。
恐れが先に立ち、身体が命令を拒んだだろう。
今、紗世の内側に生じたのは別の感覚だった。
理と災厄、その境目に足を置く感触。
どちらかへ傾けば堕ちる。中央に立てば、触れても侵されない。
それは特別な力ではない。選んだ役目が身体に馴染んでいく感覚だった。重さはあるが、拒まない。
黒は近づく。熱ではなく、冷たさに近い感触が皮膚を撫でる。
紗世は呼吸を止めない。
止めれば恐れが勝つ。だから通す。吸って、吐く。その繰り返しが、足元を定める。
『……お前が決めることだ。俺は、無理に引き止めるつもりはない』
あの声が、不意に甦る。
彼なりの思いやりのはずなのに、刃のように残った言葉。
選べる自由を与えるほど、責任は増える。
紗世は、その言葉を初めて恨まなかった。危うさごと受け取り、ここに立っている。
ミレイアが口を開く。速度を抑え、確認として言葉を置く。
「逃げることは、恥ではありません。でも――戻ることは、覚悟です。それをご認識されていますか?」
慰めではない。判断の再確認だ。
紗世は頷き、唇を結び直す。頷いたことで、背中に一本の柱が通った感覚があった。
床の黒が炎に触れる。拒絶もしない。追い払わない。抱え込むように形を受け止め、境界を保つ。
「これが、私の立つ場所です」
影として立つとは、消えることではない。誰かの隣に立つため、自分の輪郭を明確にすることだ。
紗世は顔を上げ、前を見据えた。広間の空気が変わり、どこかで火が爆ぜる音がした。
黒と理の狭間に、鍵穴のような通路が開いていく。
踏み出した先にある答えは、まだ世界の側にある。それでも、引き返すつもりはなかった。




