第十七章 名乗らぬ者の選択
夜明け前の部屋を、細い灯が淡く満たしていた。
窓の外では巡回が途切れず、甲冑の擦過が、眠りの浅い獣の呼吸のように近づいては離れる。
紗世は椅子に腰を下ろしたまま、背を預けずにいた。休めば思考が緩み、選択まで流されてしまいそうだったからだ。
控えめな音で扉が叩かれる。入ってきたのはミレイアだった。いつもと同じ伸びた背筋。けれど今夜は、言葉を置く位置を測るような間がある。
「休めていますか?」
慰めにも命令にもならない問いだった。ただ隣に座るための合図。紗世は椅子を引き、向かいではなく横を示す。主従の線を外した沈黙が、短く流れた。
ミレイアは窓辺の灯を見やり、ゆっくりと口を開く。
「昔、ここに……迷われた方がいらっしゃいました」
名は出ない。それでも誰のことか分かる。獅子国の姫。理の中で育ち、理の中で選択を迫られた人。
「この廊下の角で足を止め、『逃げたい』と呟かれたことがあります。王族の道は、選ぶというより背負うもの。……それでも最後に、あの方は選ばれた。王族の道を……」
それは紗夜にとって指針のような語りだった。
立場が先にあり、世界が押しつけ、それでも折れない強さ。
紗世は胸の奥が一瞬ほど和らぐのを覚えながら、同時に、その強さに自分を重ねられない事実にも気づく。
小さく息を整え、首を横に振る。
「私は王族ではありません。でも――」
言いかけて、膝の上で結んでいた指を解く。床に落ちた影が濃さを変え、すぐに形を失う。
「命じられないから、選べるんです。誰かの都合で立つ場所を決められるのではなく、自分で決めて、自分で引き受ける」
口にした瞬間、背中を細い緊張が走った。自由は軽さではない。選べる分だけ、責任が逃げ場を塞ぐ。
ミレイアの眼差しが、紗世の頬を正面から受け止める。そこに同情はなく、試す冷たさもない。だが、逃げ道を残さない眼差しだった。
「逃げることは、恥ではありません。でも――戻ることは、覚悟です」
紗世は一度だけ呼吸を吸い、頷く。炎の中で泣いたレオンの声が、距離を越えて胸を叩いた。引き止めないと言ったあの言葉は、思いやりであると同時に、選択の重みを丸ごと預ける行為でもあった。
「……あの人の隣に立つと決めたなら、もう後ろへは行けません」
自分の声が、部屋の空気を変えていくのが分かる。夜明け前の静けさが、ただの無音ではなくなる。選択が形を持ち始める音が、確かに混じる。
ミレイアは短く頷いた。それ以上の言葉は添えない。助言を重ねれば、選択が紗夜のものではなくなってなしまうからだ。
外の巡回音が、わずかに間隔を詰める。王宮はすでに目覚め動きはじめている。名を持つ者たちが理を掲げ、名を持たぬ者を位置づけようとしている。
紗世は椅子から立ち、灯に背を向けた。名を――立場を――与えられないなら、自分で決めるしかない。
逃げないという選択に、理由を与えるために。
名乗らぬ者であることは、弱さではない。命じられないからこそ、選べる。その事実が、今は紗夜の足元を支えていた。
扉の外の気配が近づく。夜明けはまだ先だ。それでも紗世は、進む向きを定めていた。
選択はすでに終わっている。あとは、その重さを背負って歩くだけだった




