第十七章 甘い逃避
ひとりきりの部屋は、夜明け前の色を溜め込んでいた。
窓の外の灯がわずかに明滅し、そのたびに壁へ細い影が生まれては解ける。
紗世は椅子に腰を下ろし、背を預けない姿勢のまま時をやり過ごした。
休めば楽になると知りながら、あえて力を抜かない。
ここで崩れれば、思考まで流されてしまう気がしていた。
逃げればいい。
その考えには、責め立てる刃がない。
命を狙われる恐怖も、誇りや国の理に絡め取られる重圧も消える。
名を薄め、役目を手放し、人として静かに暮らす。
朝の気配に怯えず、足音を数えず、眠れる夜を取り戻す。
想像は整いすぎていて、指先の力が抜ける。
胸の奥で、息が一度だけ軽くなる。
楽になる。
それは悪い言葉ではない。むしろ、傷を覆う布のような救いの形をしている。だからこそ危うい。
そこへ、炎の色が割り込んだ。
泣いたレオンの横顔。『守ると言いながら、いちばん傷つけた』と告げた声。あの場で、彼は逃げ道を示した。
『……お前が決めることだ。俺は、無理に引き止めるつもりはない』
選択肢を並べるその態度は、彼なりの思いやりだった。それと同時に、重さをこちらへ預ける行為でもある。紗世はそれを受け取ったまま、まだ返せずにいる。
目を伏せ、膝の上で指を組む。影が床に濃く落ちる。逃げれば、あの瞬間を出来事として棚に置けるのか。守ると誓った言葉を、過去の一幕にできるのか。答えは胸の内で形を結ばない。
逃げたら、きっと楽になる。
ただ、その先に立つ自分を思い描いた途端、足元が頼りなくなる。整った未来図の端で、置き去りになる顔がある。
紗世は小さく息を整え、背筋を伸ばした。
甘さは、危険なほど説得力を持つ。疲れ切った心に、即効性のある処方だからだ。紗世はそれを否定しない。否定すれば、もっと強く引き寄せられる。だから一度、正面から受け止める。楽になる道がここにある、と認めた上で、別の問いを重ねる。
その道を選んだ自分は、一体なにを守るのか。
答えは簡単ではない。守られる側でいる安堵と、守る側に立つ覚悟は、同じ場所に並ばない。楽になることと、背中を並べることは、異なる方向を指す。
紗世は立ち上がり、窓辺に近づいた。外の灯が一度だけ陰影を変え、部屋の輪郭を際立たせる。逃避の甘さが、静寂に包まれた部屋に溶け込む。その甘さを断ち切るのではなく、抱えたまま歩けるかどうか。それが問われている。
レオンの言葉が、もう一度胸に触れる。引き止めないという選択は、彼自身の痛みでもあった。逃げ道を示したのは、守れなかった事実から目を逸らさないためだ。ならば、こちらも逃げ道を理由に目を逸らすわけにはいかない。
紗世は椅子の背に手を置き、体重を預けずに立つ。
楽になる未来は、今も甘い。だが、その甘さの裏で残る震えを、無視しない。震えは、ここに立つ理由を教える合図だ。
(……私は、あなたの隣に立つことを選びたい)
言葉はまだにはできない。それでも、予感が輪郭を持ち始める。選択は苦い。苦いからこそ、噛みしめて進める。
窓の外の灯が消え、夜明けの色が部屋に満ちる。選ぶための静けさが、ここにある。紗世は深く息を整え、甘い逃避を胸に残したまま、次の一歩を思い描いた。




