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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十七章 逃げ道の地図

 夜明け前の小部屋は灯りを落としていた。

 闇に慣れた目には、石壁の継ぎ目の陰影まで見える。

 壁の向こうを巡回する鎧の音が、一定の間隔で近づいては離れ、金具の擦過が最後に残って消える。その規則性が、逆に不穏だった。規則が維持されているのは、秩序が生きている証でもある。同時に、秩序が誰かを探すときの足取りでもある。

 息をするたび、冷えた空気が喉の奥に残った。吐く息は白くならない。けれど、胸の内側だけが冷えていく。

 机の上に地図が広げられる。紙の端を押さえる重石が、王宮の紋を刻んだ小さな金具だった。このような道具は本来、書庫の管理官が扱う。

 今ここにあるのは、正規の手続きを踏む時間がないからだ。

 正規が失われた夜に、正規の道具が役に立つ皮肉が、紗世の思考を乾かした。

 ラガンの指が、王宮の外周から森へ抜ける細い線をなぞる。

 爪の先が紙の繊維を押し、跡がわずかに残る。

「今なら森の民のルートで、人間界に近い場所まで運べる。追手も散っている。夜が明けきる前が勝負だ」

 言葉は端的で、命令に近い調子なのに、押しつけがましい響きがない。彼は状況を見て、切り口を示している。そうしなければ、誰かの恐怖がこの部屋を支配することを知っているからだ。

 続けて、ゼクスが地図の別の印を示す。墨で書かれた小さな点。通路の分岐。門の内側の巡回線。

「お前がいなくなれば、『人間こそ災い』という旗は揺らぐ。オルディス派の大義が弱まれば、騎士団も割れる。……そういう算段だ」

 淡々とした声だった。紗世を裁くためではない。傷が広がらないよう、先に布を当てる手つきで語られる。だからこそ、言葉が胸の奥まで届いてしまう。

 紗夜が逃げれば、剣が抜かれる理由がひとつ減る。

 王宮の空気から、あの冷たい監視が薄まる。

 レオンも、王として戦うことに集中できる。そう考えた瞬間、整いすぎた未来図が、甘さを伴って迫った。

 甘い、と気づいた途端に、足の震えに意識が向く。

 紗世は指先を握り込み、爪が掌に食い込む痛みで自分を戻した。机の縁に落ちる自分の影が濃くなり、無意識に床へ滲むのを感じる。ここで崩れれば、二人が組み立てた線も、守るための時間も、まとめて失われる。

「……私が、ここにいない方が……」

 言いかけて、声が止まる。喉の奥でなにかが引っかかったまま、うまく呼吸ができない。言葉にしてしまえば、選択が確定してしまう。確定した瞬間に、置き去りにするものの形がはっきりする。それが怖い。

 ラガンが、ひとつだけ頷いた。頷きは許しではなく、現実の受領だ。

「逃げることは、間違いじゃない」

 その瞬間、胸の内の張りが一度解けた。

 張りつめていた糸が緩むような感覚。

 安堵が先に立ち、続いて、別の痛みが押し寄せる。

 楽になることを望んでしまった自分が、急に重くなる。

 守りたいと願った人の背中を、思ったより簡単に置いていけそうだった。

 紗世は視線を落とし、地図の細い線を見る。

 逃げ道は救いの形をしている。

 森の民の道は、王宮の者が軽々しく踏み入れない古い取り決めに守られている。

 境界を越える者には、名ではなく立場が問われる。

 だからこそ、そこに踏み込めば戻れない。

 戻れないことが、今は安全でもある。

 それでも指を伸ばせない。

 地図の線に触れた瞬間、自分の居ない未来が現実になるからだ。

 扉の向こうで足音が止まった。短い沈黙。誰かが耳を澄ませている気配が、木目越しに伝わる。規則の巡回ではない。なにかを探している足の止まり方だ。

 ゼクスが言葉を切り、ラガンの手が地図の端を押さえ直す。

 二人とも、抜刀より先に呼吸を整える。抜けば正当化が完成する夜だと知っているから。

 紗世は顔を上げる。二人の眼を順に見て、最後に地図へ戻した。逃げられる。だからこそ、選ばなければならない。選ぶことは、誰かを守ることと同義になる。

 胸の奥で、まだ形になりきれていない決意が固まっていく。言葉は遅れていい。まず、足が迷わない場所へ。紗世は重石に触れ、地図がずれないよう押さえた。自分の手で、逃げ道の線を確かめるために。


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