第十六章 空席の王座
玉座の間は、息をひそめた獣の腹の内のように重かった。
高い天井に掲げられた灯がわずかに明度を変えても、玉座の座面だけが冷え切っている。
そこに在るはずの存在が欠けている。
その欠落が、広間の沈黙を異様な形に整えていた。
扉が開き、鎧の擦過音が束になって流れ込んでくる。
列の先頭に立つオルディスは、一段下から玉座を仰いだ。
そこに敬意はなく、価値を量る眼差しだけがあった。
「今こそ新たな獅子の時代を。王太子は人間に惑わされた。獅子が誇りを失った証だ」
背後で将校たちが同調し、言葉は正義の衣をまとって広がる。
反対側では、顔を伏せる者が増え、囁きが鎖のように連なる。
「国を守るなら、汚れを取り除け」
誰かの声が落ち、空気が固まる。
「……その汚れとは、誰を指す」
問いは弱く、場を切り返す力を持たない。
答えは最初から用意されていた。
「人間を差し出せ。災いの元だ。黒い炎も、霊脈の乱れも、王太子の変化も――あれが招いた」
言葉が終わると同時に、紗世の背に重みが集まった。
数ではなく圧で迫る追い込み。胸の内が縮み、足が前へ出かける。
自分の存在が刃を呼ぶなら、ここで終わらせるべきなのか。
思考が一瞬、簡単な答えへと傾く。
その瞬間、間に立ったのはマーリスだった。紗世と刃の列のあいだに一歩を踏み込み、紗夜を見つめる。
「あなたが立つ場所は、犠牲の台ではない」
短い断言が、刃を受け止める盾になる。
ミレイアが半歩位置を変え、通路の線を断つ。ルナは紗世の手を強く握り、爪が食い込むほど力を込めた。
「守る者が、誰もいないと思ったか」
ラガンは低く告げ、ゼクスは剣の柄に触れたまま抜かない。抜けば正義が血を得る。だから今は抜かせない。その判断が、場の均衡を保つ。
オルディスの口元がわずかに歪む。
「命令のない防壁など、砂の城だ。王太子が戻る前に、決めるべきだろう」
広間の緊張が軋み、結界の縁が反応を示した。
そのとき、雷鳴めいた気配が王都を打った。
床下の霊脈が唸り、掲げられた灯の明度が一度だけ跳ねた。帰還の兆しか、それとも別の災厄か。
判断を許さない速度で、場の空気が再編される。
誰もが玉座へ目を向けた。
空席のままの王座が、答えのない問いを突きつけている。
そこに座るべき者が不在である事実が、命令の空白を生み、各々の正義を前へ押し出す。
紗世は一歩、踏み留まった。
前へ出れば犠牲の物語が完成し、退けば別の誰かが標的になる。
選択肢は二つに見えて、どちらも同じ重さを持つ。
だから彼女は、選ばないという選択で時間を稼ぐ。
マーリスは背中で圧を受け止め、声を整える。
「王権の不在を理由に血を流すのは、国のためではありません」
言葉は制度の線に沿って放たれ、感情を最小に抑える。
ミレイアは配置を保ち、ルナの手を紗世の背後へ導く。守る形を、はっきりと示すためだ。
オルディスは一段進み、将校たちに合図を送る。抜かせない側と、抜かせたい側。その境界が露わになる。
「決断は必要だ。空白は腐る」
ラガンが低く返す。
「空白は埋めるものではない。戻るまで守るものだ」
ゼクスは柄から手を離さず、足の向きを調整する。衝突の芽を刈り取るための配置。誰もが、今この瞬間に流れる血の意味を計算していた。
紗世は息を整え、言葉を選ぶ。自分が語れば、場は動く。動かせば、責任が生まれる。それでも、名を奪われる沈黙は選ばない。
「私を理由にするなら、ここで止めてください。国の名で誰かを切るなら、その刃は王のもとへ戻るまで鞘に収めるべきです」
広間に静止が落ちる。正しさの形がぶつかり合い、どちらも決定打を欠く。
空席の王座は変わらない。答えを与えないまま、問いを重ねる。だからこそ、今夜は決まらない。決めないという選択が、最も重い守りになる。




