第一章・胸の奥でひらく頁
その日も変化のない一日を過ごす予定だった。
帰宅し、バッグを椅子の背に掛け、ジャケットをハンガーに移す。ストッキングを脱いで丸め、洗濯籠に放り込むと、脚にまとわりついていた一日の疲労が少しだけ軽くなった気がした。
両親は留守だったので簡単に夕食を済ませ、食器を洗い終えた。時計の針はまだ早い時間を指している。それなのに、今日という日がすでに全部終わってしまったような感覚が胸の内を満たしていた。
紗世はリビングの棚の下段に手を伸ばした。奥へ押し込んでいた紙箱の角に指が触れる。古い段ボールでできた箱は、端が柔らかくなり、ところどころ色が抜けている。
膝の前へ引き寄せ、蓋を持ち上げると、ふわりと紙の匂いが立った。中には、昔どこかで拾った手紙や日記の切れ端が詰め込まれている。親戚の家の押し入れから出てきたものもあれば、古本の間に挟まっていたメモもある。差出人の名前が分からないものがほとんどだ。
一枚をつまみ上げると、薄くなったインクの行が目に入った。均等ではない文字の間隔、途中で力の抜けた線。
読み始めると、部屋の静けさに別の呼吸が混じったような気がした。
書き手の悩みや、誰にも打ち明けられないまま胸に抱えた願いが、文字の隙間から立ちのぼってくる。
(ああ、この人も、がんばろうとしていたんだ)
そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯がともるような感覚が広がった。
自分とはまったく関係のないはずの人生なのに、その人がふと漏らした弱さや諦めきれない望みが、今の自分の内側に触れてくる。
仕事で埋めたはずの感情の層に、やわらかな重みが一つ載せられたようだった。
机の端に手紙を置き、紗世は息を整えてから、小さく呟いた。
「……誰かの人生に、ちゃんと役に立って終わりたい」
声に出してしまえば消えてしまうかもしれない願い。それでも、音にしなければ、自分でも誤魔化してしまいそうで怖かった。
けれど、言葉が空気に溶けた次の瞬間には、別の声が胸の裏側から押し上がってくる。
(……でも、私なんて)
自分でさえ、そう思ってしまう。
視界の端に、過去の場面がいくつも浮かびあがる。
学生時代、グループ発表の準備のほとんどを任されて、当日の評価は発表を担当した子の名前だけで呼ばれたこと。
自分の手が加わった資料なのに、拍手の輪の外側で「おつかれ」と肩を叩かれて終わったあの帰り道の重さ。
職場でも似たような場面がいくつもあった。
受付が混み合う時間帯にさりげなく電話対応を代わったこと。
入力ミスに気づき、相手に恥をかかせないように調べ直してから静かに訂正したこと。
そのどれもが「助かったよ」の一言と笑いと一緒に流され、話題が変われば跡形もなく消えていく。
必要とされるのは居心地が悪い。期待に応えられなかったときの失望を恐れてしまうから。
それでも、必要とされない空気の中にいると、胸に小さな穴が開いたような心細さが広がる。
役に立ちたい気持ちと、価値がないという痛みが、同じ場所で絡み合ってほどけない。
「……なんで、こうなんだろう」
自嘲にも似た声が漏れたが、涙にはならなかった。泣くほどの出来事ではないし、泣いたところでなにも変わらないことを、もう何度も確かめてしまっている。
紗世は箱の底に指を伸ばし、古い日記を一冊取り上げた。
手のひらより少し大きいノートで、表紙の角は擦れて丸くなり、紙の色も時間を含んだような黄味を帯びている。
留め具を外して開いた瞬間、ページの端から微かな風が抜け、インクの跡が照明の光を受けて淡い筋を作った。
一行目に記された日付は、紗世が小学生だった頃のものだった。
その日あったことと、そのときの気持ちを拙い文字で綴っている。
読み進めるうちに、胸の奥に刺さっていた棘が、ゆっくりと位置を変えた。
言葉を抱えきれず、それでも投げ出したくなくて、紙に書くしかなかった誰か。
その人の孤独が、自分の暗がりと静かに重なっていく。
(もし私が、この人のそばにいたら。……少しは楽にしてあげられたのかな)
そんな想像がおこがましいことも分かっている。
それでも、胸の奥に灯った光は、否定しきれないほどあたたかかった。
誰かの話を聞いて、言葉を選んで返すことなら、自分にもできるかもしれない。
直接なにかを変えられなくても、「一人じゃない」と感じてもらえる隙間くらいは、作れるかもしれない。
ページを閉じると、紙が擦れ合う音が部屋に広がった。
窓の外から差し込む街灯の明かりが、カーテンの隙間から細く入り込み、床に伸びた紗世の影と重なり合う。
ひとりで過ごす夜は、今日も同じように深まっていく。いつも通りテレビはつけず、スマートフォンもテーブルの上に伏せたままだ。
それでも胸の奥では、小さな灯が消えずに揺らぎもせず残っていた。
誰かの言葉を受け止めてしまう自分の性質が、面倒だと感じる日もある。
それでも、いつかその性質ごと、きちんと役に立てる場所に繋がればいい。
閉じた日記を箱に戻しながら、紗世は小さな声で問う。
「私にも、誰かの頁を少しでも明るくできる日が、来るのかな」
返事をする人はいない。
ただ、胸の奥でひらいた頁だけが、静かに新しい文字を待っていた。




