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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十六章 守りの輪郭

 紗世の名が廊下の奥で〝対象〟として扱われた夜。

 王宮の灯は変わらないのに、影だけが濃くなっていった。

 壁の紋章は輪郭を強め、石床の冷えが足裏に染みる。歩く者の気配が増えているのに、声は減っている。言葉が減るほど、意図は増える。

「こちらです、紗世様」

 ミレイアの声は低く落ち着いており、迷いがない。

 手首を取る指は乱暴ではないのに、離脱の速さだけが鋭い。

 守るというより、逃げ道を選び取っている手つきだった。

 紗世は引かれるままに足を運びながら、胸の内に生じる抵抗を飲み込む。

 守られる側でいることが、今は怖い。守られれば守られるほど、誰かの刃に理由が生まれるような気が紗夜はしていた。

 曲がり角の先では、マーリスが待っていた。

 衣擦れひとつ立てずに立ち、周囲を一瞥してから短く頷く。

「あなたを安全区画へ移します。今夜だけは、誰も信用しないで」

 命令の形をしているのに、誓いとして響いた。あの人がここまで言い切るのは、すでに内部で線引きが終わっているからだ。

 味方と敵の線が、顔ではなく名簿で引かれている。

 紗世は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。

「……私の存在が原因で、誰かが剣を取るようなことがあるなら……逃げることが正しいとは思えない」

 言葉を出した瞬間、自分の未熟さが痛いほど分かった。

 正しさを語りたいのに、現実の重さが追いつかない。

 ミレイアは足を止めず、横顔だけで答える。

「だから、逃げるのではなく移るのです。あなたが倒れれば、正義の顔をした者が笑う」

 声の端に怒りが混じる。誰かを焼く熱ではなく、身内を守る刃の鋭さ。

 紗世はその鋭さに救われる一方で、同じ鋭さが別の誰かを傷つける可能性にも思い至り、腹の底が冷えた。

 回廊の陰からカリナが現れる。いつもの軽さは消え、目だけが冴えている。

「動いたよ。東の警備が入れ替わった。オルディス派の名が混じってる。今、要所を押さえ始めた」

 情報は矢のように刺さり、次の一手を要求する。

 王太子の不在は、命令系統に空白を生む。空白は誰かの正義で埋められる。だから速さが要る。

 マーリスは一度だけ呼吸を整え、指を折って通路を数える。

「通路は二つ。片方は結界が薄い。……なら、こちら」

 迷いの余地を削るように決める。決めなければ、誰かに決められ手しまう夜だからだ。

 その瞬間、小さな手が紗世の指を掴んだ。ルナだった。泣いてはいない。泣けば足が止まると知っている顔で、唇だけが震えている。それでもその小さな手は離れない。紗世は彼女モテの温もりに胸の奥が痛んだ。

 守られる恐ろしさより先に、守りたいという衝動が立ち上がる。

「大丈夫。ここにいるよ」

 言い切った自分の声に、少し驚く。それは明らかに守る側に立つ言葉だった。

 言葉が先に立つと、身体が追いつこうとする。紗世は背筋を伸ばし、歩幅を崩さない。

 曲がり角の先でリアンが腕を広げるように立っていた。

 通路を塞ぎ、背を壁につける。近づく足音へ耳を澄ませながら、目だけで合図を送る。

「時間は稼ぐ。行け」

 短く迷いは一切ない。

 この王宮で、王代理である王太子の命がないまま刃に手をかける重さを、誰より知っているはずの人が先に立つ。その事実が、紗世の足を止めない理由になった。

 別の通路では、ラガンとゼクスが兵を散らしていた。

 二人は盾の位置を変え、互いの交差を減らし、衝突の芽を潰していく。

「王太子は不在だ。だからこそ、乱すな」

「命令がない? なら、俺たちが選ぶ」

 ゼクスの声が硬く落ちる。ラガンは頷き、口元を引き締めた。

 守るという言葉が、この王宮では政治になる。それでも引かないのは、守る相手が”だけではないと、もう知ってしまったからだ。

 通路を抜けると、空気が一変した。

 結界の膜が薄く、皮膚に冷たい感触を残す。

 刺すような気配が走り、誰かが金属を擦る音が響いた。

 足音がひとつ増えただけで、場に漂う緊張感が増幅する。

 全員が一瞬、同じ方向へ目を向けた。

 守りは完璧ではない。

 今夜、王宮は狩場になる。

 だからこそ、輪郭を描く必要がある。守る範囲を曖昧にすれば、誰かが抜け落ちる。

 マーリスが紗世の前に立つ。その背中が壁のように感じられた。

「ここから先は、私たちの選択です」

 紗世はルナの手を握り返し、足を前に出した。守られるだけの存在で終わらないと決めるために。灯は白いまま、影だけが動き始めていた。


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