第十六章 災いの名
王宮の空気は、目に見えぬ層で組成を変えていた。
歩みを進めるたび、会釈の角度が浅くなる。
扉の向こうで言葉が途切れ、笑い声だけが残った。
廊下の灯は硬質さを増し、壁の紋章が冷たく浮かび上がる。
紗世は肩をすくめ、呼吸を整えた。
戻ってきてから、安心できる場所が、日ごとに狭くなる。
誰かに押されている感触ではない。周囲の配置が変わり、彼女の立つ余地だけが削られていく。
囁きははじめこそ散っていた。
前線で起きた異変、霊脈の乱れ、黒い炎。
断片が別々の口から放たれ、やがて一本の糸に撚られる。
共通の言葉へと収束するまでに、時間は要らなかった。
「人間こそ、災いの元だ」
便利な定型句として、置かれる。言う者の名を伴わず、正しさの形だけが残る。
回廊で、オルディス派の騎士が、聞こえる声量を選んで言い放つ。
「王太子殿下は人間に惑わされた。獅子が誇りを失った証だ」
続けて別の者が言葉を重ねる。
「黒い炎も霊脈の乱れも、すべて繋がる。あの娘を王宮から遠ざけるべきだ」
言葉は衣をまとい、刃の用途を帯びる。秩序を守るためという名目が、切っ先を正当化する。
紗世は立ち止まりかけたが、歩幅を保った。
止まることは、自分が問題だと認める行為に近い。
怖れは脚に出る。だからこそ、一定の速さを崩さないように心がける。
背後から注がれる一線を、皮膚で受け止める。
振り返れば、鎧の胸当てが灯を弾き、騎士の眼だけが澄んだ確信を宿していた。
怒りでも憎しみでもない。国のため、という硬い理由。
(……また、逃げるの?)
胸の内で別の声が問いを立てる。
森で決めたはずの答えが、淡く震えた。
逃げれば守れると信じてきた時間があった。
だけど今は違う。自分が去れば、言葉の矛先は次の誰かへと移るだけ。
唇を噛み、歩みを続ける。
床の模様を数え、息の配分を刻む。
崩れないための手順を、身体に覚えさせる。
そのとき、廊下の奥で鎧の足音が止まった。
「例の人間を」
短い指示が落ち、続けて応答の気配が連なる。
名は呼ばれない。
討議の場で扱われる〝対象〟へと、彼女は変換される。
制度と階級が、その変換を容易にする。
名を外せば、判断は速くなる。
背筋に冷えが走り、喉の内側が乾いた。
感情が先行しないよう、紗世は指を揃え、掌の向きを整える。
歩行の角度を崩さず、衣の擦れを最小に抑える。
振り向かない。振り向けば、ここまで積み上げた決意が解体される。彼女は、解体の音を聞かないために前を見据える。
王宮の秩序は、見えない線で人を隔てる。誰が守る側で、誰が守られる側か。誰が名を持ち、誰が名を外されるか。線は今、彼女の足元を横切っていた。
通路を抜けると、警護の配置が変わっている。儀礼の名を借りた再編。要所に置かれた兵は、通過を許す角度を測る。紗世は規定通りに礼を取り、許可の沈黙を待つ。沈黙は合格の合図でもある。
進むほど、灯の色は白さを増す。影は長く伸び、彼女の歩みに遅れて追随する。置き去りにしない。置き去りにされない。
噂はすでに走り切り、次の段階へ移っている。責める相手を定め、距離を取る理由を整え、行動へと繋げる段階だ。災いの名が与えられれば、排除は秩序になる。
紗世は、胸の奥で数を数えた。呼吸、歩数、角を曲がる回数。自分が自分であるための確認作業。
王宮の灯は揺らがない。ただ白いまま、彼女の影だけを長く引く。名を奪う準備が進む中で、彼女は名を失わないために歩き続けた。




