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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十六章 二つの現実

 前線の空は煤けた雲が低く垂れ、戦の匂いをまだ抱え込んでいた。

 黒い炎が退いた地には、焦げた土と砕けた石、折れた槍が散乱している。

 熱はまだ引ききらず、靴底の下で灰が鳴る。

 兵たちは肩で息をしながらも、崩れた陣の形を確かめ、互いの名を呼び合って無事を確認した。

 ここには恐怖だけが残ったわけではない。

 王太子が踏みとどまった、その確かな手触りが、胸の奥で冷めずにあった。

 バルガスは焼け跡を踏み、顎の古傷を親指でなぞる。

 痛みが残るほど、今を現実として掴める気がした。

 立ち止まっていたら、目に映るものがまた炎へ戻りそうな予感が胸中に芽吹く。

「弱さじゃねえ。あの炎を止めたのは、殿下の強さだ」

 彼が断言すると、周囲の兵も頷いた。笑う者はいない。生き延びた歓喜は、次の瞬間には死者や負傷者の数に飲み込まれる。

 だからこそ、王の背に預けた命の重みを、彼らは軽々しく扱えなかった。

 バルガスは紙片を懐に押し込み、鎧の留め具を確かめた。

 指先がわずかに震える。

 この震えは疲労のせいだけではない。

 前線で見た踏みとどまりが、王都では別の形に変えられる予感が、骨の内側に触れていた。

 彼の耳に届く伝令の言葉は短い。

「王都は騒がしい」

 それだけだ。

 そこには余計な説明がない分、想像が増える。

 王都を知らぬ若い兵が、おそるおそる口を開く。

「殿下は戻られるんですよね?」

 バルガスは答えを急がず、焼けた大地を一度だけ見渡した。

 ここで死ななかった者たちの顔、ここで死んだ者たちの顔。その両方が、王の帰還を信じて並ぶ。

「戻るさ。だから準備を進めろ」

 命令の形にすると、兵の背筋が自然と伸びた。言葉の形があると耐えられる。旗の下にいるという感覚が、細くなった糸に結ばれた心を繋ぎ止める。

 その一方で――王都の空気は、まるごと別物だった。

 王宮の廊下では、鎧の擦れる音が増え、灯火の数が減っていった。

 暗がりが増えるほど、囁きが幅を利かせる。

 老獅子たち――長く王家を支えてきた者ほど、今夜の変化に敏い。

 彼らは儀礼の名を借り、騎士団を動かし、要所へ守りとして兵を置いた。

 表向きは忠節。だが内側には別の算段があった。

『王が弱さを見せた』

 その一言は盾にも刃にもなる。

 前線で見た者は踏み留まりと受け取り、王都で聞いただけの者は崩れと断じる。

 事実は同じでも、受け取る者によって形はいかようにも変化する。

 オルディスの言葉は、その裂け目に滑り込み、正しさの輪郭を整えていた。整えられた正しさは、判断を急がせる。急がされた判断は、刃を抜く理由になる。

 伝令は前線と王都を往復した。だが、道の途中で足止めされ、別の口から言い換えられ、ときに切り取られる。

 王宮では情報そのものが階級を持ち、通る門が違えば意味も変わる。

「殿下は人間の女を抱き、戦を止めたらしい」

「いや、敵前で泣いたと聞いた」

 噂が走り、尾ひれを増やし、真実より速く広がった。

 群れるほど大胆になり、誰かの確信めいた口調で固定されていく。

 前線では、兵たちが帰還を信じて準備を進めていた。

 王都では、帰還を恐れる者が備えを固めている。

 国はひとつの旗の下にあるはずなのに、同じ出来事が別々の現実として割れていく。

 バルガスは届いた報せの紙片を握り潰した。

 指に紙の角が刺さり、痛みが残る。

 嫌な予感が喉の奥で渇き、飲み下せなかった。

「王都へ戻る」

 そう告げると、部下が目を見開いた。

 前線を離れることがなにを意味するか、誰もが深く理解している。

 それでも背を向けられなかった。踏み留まりを見た者として、王都で作られる別の現実を放置できない。

 その頃、王宮の影はすでに次の獲物を定めていた。

 その獲物は王太子ではない。

 彼の選択を象徴へ変える、〝名〟を持たない少女へ。


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