第十五章 泣いた若き獅子
炎は、確かに途切れていた。
先ほどまで空を裂いていた黒も朱も、嘘のように力を失い、戦場には焦げた匂いと押し殺された呼吸音だけが残っている。
誰も剣を下ろせない。獅子族も狼兵も、次に起きる出来事を待つしかなかった。
その中心で、レオンは紗世を抱き締めていた。
鎧越しに伝わる震えが、初めは小さく、やがて隠しきれないほどに大きく広がっていく。
歯を噛み締め、王として整えてきた呼吸が崩れるたび、胸の奥に堰き止めてきたものが溢れ出すのが分かった。
「俺は……」
声は続かなかった。
喉が鳴り、言葉が折れる。
次の瞬間、レオンは紗世をさらに引き寄せた。
これは逃げ道を塞ぐための力ではない。
失うことを拒む、必死な力だった。
「俺は、お前を守ると言いながら、いちばん傷つけてしまった」
告白が地に落ちた瞬間、彼の肩が崩れた。
堪え続けてきたものが、ついに堤を越える。
泣き声は咆哮とは似ても似つかない。
迷子になった子どものような、行き場を失った音だった。
涙が鎧の縁を伝い、土に落ちる。
紗世は胸に額を預けたまま、熱でも炎でもない湿り気を感じ取った。
王として積み上げてきた威厳が、今、静かに解けていく。
周囲の兵たちが、ひとり、またひとりと膝をついた。
その行動は、恐れからではない。
命令でもない。
誰も言葉にしないまま、敬意だけが地面に広がっていく。
弱さを晒した瞬間、レオンという存在が、周囲の者の心にむしろ深く刻まれた。
紗世は息を整え、彼の背に腕を回す。
強く抱くことはしない。重さを預けるだけの抱擁。
それでも、そこには確かな選択があった。
王であること。人間であること。
背負う責任の重なりが、まだ二人の間に横たわっている。
すべてが溶け合ったわけではない。
だが、離れないと決めた事実が、炎よりもはっきりとそこにあった。
レオンは涙を零しながら、何度も息を吸い直す。
呼吸を取り戻すたび、朱雀の炎が小さく脈を打ち、黒い痕を押さえ込んでいく。
感情が鎮まれば、力も従う。
その因果を、彼自身が身をもって示していた。
やがて、レオンは額を紗世の肩へと預けた。
声はまだ震えているが、崩壊の兆しは消えている。
「……弱さを見せた俺を、許す必要はない」
それは謝罪でも懇願でもない。自分自身へ課す言葉だった。
王として、再び立ち上がるための区切り。
紗世は言葉を返さず、ただ彼の鎧に指を添えた。
逃げない。慰めもしない。ここに在ると示すだけで、十分だと分かっていた。
兵の列に、少しずつ動きが戻る。負傷者を支える者、裂け目の様子を確認する者、散乱した武器を集める者。
それぞれが役割へ戻っていく。戦は終わっていない。だが、破滅の臨界は越えた。
レオンは腕を解かずに、深く息を吐いた。 胸の奥で鳴っていた警鐘が、ようやく静まる。
「……お前を手にした代償は、かならず俺が払う」
低く落とされた言葉には、迷いがない。
大切な者を守れなかった過去を背負いながら、これから選ぶ責任を引き受ける声だった。
紗世はようやく顔を上げ、彼を見た。
そこにあったのは、完全な王でも、泣く子どもでもない。
選択の重さを理解した若き獅子の姿だった。
「ひとりで払わなくていいです」
短く返した言葉が、空気を変える。
彼と共に立つと決めたからこそ言える一言だった。
レオンは小さく息を吐き、頷く。
「……ああ」
それ以上の言葉は要らなかった。
黒い炎はまだ地下で燻っている。だが今は、地面に沈み、封じられているのだ。
怒りと自責を糧に暴れるものではなく、向き合うべき影として存在していた。
弱さを晒したことで、すべてが解決したわけではない。
失った命は戻らず、国境の緊張もまだ消えてはない。
それでも、壊れかけた王は立ち直りの一歩を踏み出した。
紗世はその隣に立つ。守られるためではない。選んで、共に責任を背負うために。
静まり返った戦場に、朝の気配が忍び寄る。
泣いた若き獅子は、再び歩き出す。その歩みは重くとも、確かだった。




