第十五章 抱擁の代償
黒い炎が唸り、霧ごと空を削っていく。
熱が骨まで届き、耳鳴りの奥で獅子の咆哮が割れた。
レオンの前に立つ紗世は、指先の感覚が薄れていくのに、胸の内だけは痛いほど生々しさを覚えていた。
「近づくな。……俺は、もう誰かを守ることはできない」
その声音は紗夜を振り払うようなものだった。
拒絶ではなく、切り捨てることで自分を縛ろうとする声だと分かる。
レオンの背後で朱雀の炎に黒が絡み、境界を失いかけている。
そこに存在する線が消えてしまえば、もう敵も味方も区別されない。
紗世は喉を震わせ、息を整える。
熱が肺を焼き、言葉は掠れてしまう。
「焼き尽くしてもいいです。あなたが自分を責め続けるよりは、ずっといい」
言い切った瞬間、レオンの表情が崩れた。
怒りと自責が同時に燃料となり、黒い炎が膨れ上がる。
地面が裂け、火の舌が空へ伸びる。
そこに兵たちの声が重なり、悲鳴に近い響きが走った。
「……王太子殿下!」
「どうか落ち着いてください! このままでは……」
だが声は届かない。
レオンは剣を握り、世界ごと裁こうとしている。
その姿を見た瞬間、紗世の足は勝手に前へ出た。怖さが追いつく前に、身体が選んでいた。
駆け出す。熱で景色が歪み、足元の影が跳ねた。黒い炎が牙を剥き、彼女を拒む。それでも速度を落とさず、紗夜は最後の一歩を踏み込んだ。
鎧にぶつかる衝撃。硬い金属の奥で、確かな脈動が返ってくる。次の瞬間、影が溢れた。
黒い炎と同質でありながら、破壊とは異なる性を持つ闇。包み、離さないための力が、荒れ狂う火の輪郭を押さえ込む。行き場を失った熱が引き戻され、戦場の轟きが急激に薄れた。残ったのは荒い呼吸と、焦げた空気だけだった。
レオンが固まったまま、低い声を落とす。
「それでも、来るというなら――お前を守ることはできない」
今さらの免罪符のような言葉だった。紗世は答えない。その代わりに腕に力を込め、額を鎧へ押し当てる。
沈黙の中で、レオンの身体が小さく震えた。拒むはずの腕が反射のように動き、紗世の背を抱き寄せる。逃げ道を塞ぐその力は、誓えないまま離せなくなった証だった。
抱き締められた瞬間、黒い炎が一段と低く唸った。暴発寸前だった力が、行き先を失い、二人の周囲で圧縮されていく。これは焼き尽くすための熱ではない。
抑え込まれ、封じられるための形へと変化していた。
兵たちは息を殺し、距離を取ったまま動けずにいる。誰も近づけない。王太子の背後で、守護の炎が不安定に揺らぎながらも、崩壊を免れているのが見て取れた。
レオンの腕に、微かな力の変化が走る。抱き締める強さが増し、次いでわずかに緩む。その繰り返しは、抵抗と受容がせめぎ合う証だった。
「……代償が要る」
彼の声は低く、掠れていた。統べる者としてではなく、ただのひとりの存在として零れ落ちた音だ。
「お前がここに立つなら、俺は二度と元の場所へ戻れない」
紗世は首を振らなかった。逃げ道を示さないために、身体を離さない。
「それでいいです。選ばないまま壊れるより、選んで壊れたほうが、まだ救いがあります」
言葉は、彼女自身にも刃だった。それでも口にする。ここで沈黙を選べば、炎は再び牙を剥く。
レオンの喉が鳴り、息が深く落ちた。黒い炎が二人の足元で形を変え、裂け目を塞ぐように沈んでいく。完全には消えない。だが制御を拒む荒れ方ではなくなっていた。
彼はゆっくりと剣を下ろし、地面に突き立てる。金属が土に触れる音が、戦場に残る唯一の明確な合図になる。
「……この手に抱く代わりに、失うものがある」
「分かっています」
短く返した紗世の声は、震えを含みながらも折れていない。
兵の列に動きが戻る。負傷者を運ぶ者、炎の残滓を警戒する者、それぞれが役割へ戻っていく。戦は終わっていないが、破滅の臨界は越えなかった。
レオンは腕を解かず、額を彼女の髪へ預けた。そこに安らぎはない。ただ、崩れ落ちないための支点があるだけだ。
抱擁は救いではない。代償を伴う選択だ。それでも選んだ事実が、黒い炎を抑え込んでいる。
紗世は理解する。この腕に守られる資格はない。代わりに、共に背負う責任が生まれたのだと。
黒い炎は完全には消えず、二人の足元で静かに息づく。
抱いたことで失われるもの。
抱いたからこそ残るもの。
その天秤が傾いた先で、戦場は次の局面へ進み始めていた。




