第十五章 夜明けの選択
夜明け前の森は、白い靄をまとって息を潜めていた。
幹の太い木々が幾重にも重なり、枝葉は空を覆い尽くしている。
里はまだ眠りの底にあり、焚き火の跡も灰色に沈みかけていた。
試すように鳴いた鳥の声が、湿った空気に吸われて消える。
紗世は里の外れに立ち、指先を強く握り込んだ。足元に落ちる輪郭は昨夜より落ち着いている。それでも消えたわけではない。呼吸のたび、胸の奥で黒い感触が確かに応じる。
――私がいない方が、あの人は楽なのかもしれない。
そう思い込んでいた。だから王宮を離れ、ここまで来た。王宮から離れれば、誰も壊さずに済むと信じていたからだ。
だが夜が明けかけた今、その考えは別の形に変化している。
楽にしてあげたい、ではない。
傷つかずに済む場所へ、自分が逃げたかっただけだ。
昨夜、ルナが泣きながら告げた言葉が、胸の底で重みを持ったまま残っている。
『王子さまは苦しそうな顔をしている』
自分がいない方がいいと決めつければ、彼の変化を見なくて済む。近づけば怖い。関われば、壊れてしまうかもしれない。だから最初から関わらない。その選択を思いやりの形に変え、自分を守っていたのだと、紗夜はようやく理解できた。
紗世は唇を噛み、喉を通る冷えた空気を受け止めた。
弱いから。
人間だから。
この獣人の世界や王宮で、自分は異物だから。
そうした言葉を盾にし、選ぶ責任そのものを放棄してきた。
守られる側でいれば、決断しなくて済む。
どこかで、その楽さに甘えていた。
だが、守られているだけで成り立つほど、この世界は甘くはない。
戦場に現れた黒い炎が、それを示した。
レオンの心の内にある影が、自身の退路を塞いでいる。
紗夜が逃げ続ければ、別の形でさらに傷を広げるだけ。
紗世は背筋を伸ばした。恐れは消えない。
だが、恐れを抱えたままであっても立つことはできるはずだ。
「……私は、私の弱さと一緒にこの世界に残る」
小さな声だったが、紗夜の言葉は揺らいではいなかった。
彼女が口にした瞬間、足元の黒がわずかに濃さを増し、靄の白へと溶け込む。
威圧するような気配ではない。
触れても傷つくことはない、静かな包囲のような感覚だった。
焼く力ではなく、覆う力。同じ黒でも、性質が異なる。
背後から足音が近づいてくる。
夜番を終えたユラだった。
髪に霧の粒を残したまま、紗世の姿を見つけて歩みを止める。言葉はなく、ただ状況を測るような沈黙があった。
紗世は振り返り、ユラと正面から向き合う。
逃げないと決めた以上、目を背ける理由はない。
「ユラ。お願いがあります」
「……なに」
「獅子国へ戻りたいです。……戦場にいるあの人の元へ」
ユラの眉がわずかに動いた。
否定が浮かびかけたが、ユラはそれを静かに飲み込んだ。
その代わりに短く息を吐く。
「正気か。あそこは――」
「分かっています」
紗世は遮るように言い切った。
声が震えそうになり、奥歯に力を入れる。
「逃げたわけではありません。自分で選んで、ここに来ました」
昨夜の自分が言えば、空虚な強がりに聞こえただろう。
でも今は違う。
選択を、自分の手に戻したいという意思がある。
ユラは黙ったまま紗世を見つめる。
その表情は厳しいが、拒絶ではない。
理解が追いつくまでの時間を置いているようだった。
「どうせ壊れてしまうなら、ひとりより誰かと一緒の方が、立っていられる気がしただけです」
言葉が落ちた瞬間、胸の内が少し軽くなった。
選ぶことは怖い。
それでも、放棄するよりはましだと、はっきり思えた。
風が動き、靄が流れていく。
木々の影が地面に長く伸び、その端が紗世の足元の黒と重なる。
黒は応じるように形を変え、境目を曖昧にした。
黒い炎と同質でありながら、焼かない黒。
包み、耐え、共に在るための力。
紗世の選択は、すでに戦場へと繋がっている。
その感覚だけを胸に残し、森の夜明けは少しずつ色を変化させていった。




