第十五章 森の火影
深い森の奥には、森の民の隠れ里が息を潜めるように在る。
天を覆う木々は幾重にも枝を重ね、夜は厚い幕のように降りてくる。
月の白さは葉に砕かれ、地へ届く前に失われる。
その代わり、中央に設えられた焚き火だけが、円を描くように人の輪郭を浮かび上がらせていた。
紗世はその端に腰を下ろし、膝を抱えたまま炎と向き合っていた。
彼女は王宮を出てあてもなく歩いていた。
本当は元の世界に戻りたかったが、どうすれば戻れるのかが分からなかった。
だからひたすらに歩き続けていた。
そしてなんとかここへ辿り着くことはできた。
だが森の民は人間を歓迎しない。
この地に一晩だけ留まることは許されたが、里に入ることは許されなかった。
葉擦れの音が強まるたびに、肩が強張る。
炎を見ていると、形を変える影が内側から立ち上がることに紗夜は気がついた。
枝が落とす影ではない。
その影はまるで自分の奥底に沈んでいた、黒い塊のようだった。
ふとした拍子に、記憶が掠める。戦場を裂いた大地。噴き上がった黒炎。悲鳴が折り重なり、霧が暗く染まった光景。
それは紗夜自身の記憶ではなかった。
だが焼き尽くすような熱と凍りつくような心の冷えが現実のように伝わってくる。
焚き火の暖かさの中に、異物のような緊張が混じり、指先の感覚が現実から離れていく。
――これは私のものではない記憶。一体誰の記憶だろう。
そう思い至った瞬間、喉が塞がった。胸の奥が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
――もしかして、これはレオンの記憶?
そう気付いた瞬間、胸のうちに言い表せないような苦しさが流れ込んできた。
その苦しみはレオンが感じているものだと気づくのに時間はそうかからなかった。
「彼は後悔しているの?」
紗夜がぽつりと尋ねると、焚き火の黒い炎がその存在を主張するかのように、大きく伸びた。それはまるで、紗夜の問いかけを肯定しているようだった。
「……だからこんなに苦しんでいるのね」
そう言葉にすると、妙に腑に落ちた。
紗夜は頭の中に流れ込んでくる記憶を一つひとつ、パズルのピースを埋めるように繋げていく。そして気がついた。
レオンの心にある影が、戦場の災厄と繋がっているのなら。あれは誰か遠い存在の罪ではない。自分もまた、糸の一端を握っているのだということに……。
浮かぶのはレオンの顔だった。
拒まれた夜の言葉。
追い払うような目つき。
だが今ならはっきりと分かる。
あれは自分を切り捨てるためではなく、彼自身を守るための選択だった。
王として崩れないための、防壁だったのだ。
「私がいるから、あの人は壊れていく」
声にすれば軽くなると信じた言葉は、胸の底へ沈んだままだった。
王太子である彼は、背負うものが多すぎるのだ。
守護の炎を持つ者が、怒りと自責に呑まれかけている。
その引き金が自分であるなら、ここに留まることは慈しみではなく、ただの逃げだ。
紗世は焚き火に手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。
熱が触れる前に、黒い冷えが先に肌へ触れてくる気がしたからだ。
そのとき、背後で枯れ枝が折れる音がした。
振り向くと、木立の間からルナが姿を見せた。
旅の埃が頬に残り、目の縁は赤い。
森の民の里付近に入るには導きが要る。それでも彼女はここまで来た。
「……ルナ?」
名を呼ぶ間に、ルナは唇を噛み、抱え込んでいた感情を溢れさせた。
涙が頬を伝い、焚き火の明かりを受けて小さく輝く。
「お姉ちゃんがいないと、王子さまの目がぜんぜん笑ってない」
短い言葉が、胸の中心へ突き刺さる。
紗世は反射的に息を吸い、否定の言葉を探した。
――私のせいじゃない。私がいなくても戦争は続く。黒い炎は私だけのものじゃない。
そのどれもが、ただの言い逃れだと理解していた。
ルナは泣きながら首を振る。
「怖いのは分かるよ。私も怖い。でもね、王子さま……最近、怒ってるんじゃないの。ものすごく苦しそうな顔をしている……」
純真無垢な瞳から見たレオンの様子が語られる。
紗世は唇を開いたまま、言葉を失った。
逃げたかったのは、未知の世界からではない。自分が壊してしまうかもしれない未来からだったのだ。
だが逃げた先で聞かされたのは、彼がすでに壊れかけているという現実だった。
焚き火が弾け、火の粉が舞い上がる。その粒が闇へと消えるのを見送りながら、紗世は炎を見つめた。
赤い火の奥に、黒い影が一瞬だけ重なった気がした。
逃げているのは、誰なのか。
問いは答えを持たないまま、森の夜に溶けていった。




