第十四章 霧の挑発
霧が前線を飲み込み、獅子国と狼国の軍勢は睨み合っていた。
湿り気を含んだ冷気が鎧の隙間へと入り込み、空気を吸い込むたびに喉の奥がひりつく。
地面は昨夜の血を吸い、踏み込めば泥が鈍い音を立てる。
草は折れて土に貼りつき、そこに新たな足跡が重なるたび、戦が長引いていることを知らしめる。
レオンは最前列の後方で陣を組み直し、短い命令を下していく。
声は低く、余計な熱を含ませない。
王の言葉は、兵の骨にまで染み込んでいなければならないからだ。
「左翼は下がれ。盾列を前へ。弓は撃つな。こちらから手を出すことは禁じる」
それは被害を増やさないための布陣だった。
霧の中で無闇に矢を放てば、敵味方の区別すら曖昧になってしまう。
狼国は嗅覚も聴覚も優れている。
霧が濃いほど、彼らの闘志は煽られやすい。
理が通る状況ではないと分かっていても、理に縋るしかない。縋らなければ、王として立っていられない。
霧の向こうから、狼の気配がうねるように押し寄せてくる。怒りが群れの呼吸になっていた。
噂という名の火種が、戦場の湿り気すら無視して燃え広がるのを、レオンは肌で感じていた。
やがて、狼国側の将が一歩前へ出た。鎧の縁に濡れた霧が張りつき、声だけが刃のように澄んで届く。
「獅子国王子よ。妹の仇討ちに燃えていると聞いたぞ。人間を王宮へ招き入れ、国を乱した挙げ句、今度は我らまで巻き込むつもりか?」
事実と歪曲が混ざり合った噂だった。狼兵たちの間にざわめきが走り、怒りが膨らむ。
獅子側の兵たちも、息を殺しながら相手の言葉を噛みしめる。
王宮の出来事が、こうして戦場へ持ち込まれる。その現実がレオンの胸の内を硬くした。
守るべきは国境だけではない。王の判断の正しさそのものが、今、試されている。
「こうなったのは、やはり人間のせいだ。人間なんかがこの地に来なければ……」
将の言葉に呼応するように、狼兵の気配が尖る。霧の中で殺気だけが立ち上がり、獅子側にも波のように伝わった。
レオンはなにも反論しない。
言を返せば、火種に息を吹き込むだけだと知っているからだ。
沈黙は王の鎧であり、同時に誤解を増幅させる空白でもある。
獅子族の兵たちの中から、低い唸り声が漏れた。
誰かが一歩前へ出る。続いて、もうひとり。
挑発に釣られた感情が、霧の中で形を持ち始める。
「黙れ、狼!」
刹那、飛んだのは矢ではなく投げられた短槍だった。
霧を裂き、狼兵の肩へ刺さる。
痛みの叫びが上がった瞬間、狼側の列が崩れ、獅子側も踏み込む。
局地的な衝突――そう呼ぶには、勢いが強すぎた。
「下がれ! 止まれ!」
制止の声が幾つも重なる。だが、霧が音を吸い、刃がぶつかり合う金属音だけが増していく。
盾がぶつかり、膝が折れ、泥が跳ねる。
血は霧へ溶け込み、輪郭を曖昧にしながら新しい赤を増やした。
「落ち着いてください! このままでは我が軍は劣勢になってしまいます」
側近の叫びが耳を打つ。
レオンは歯を食いしばった。剣に手をかけても、抜かない。抜けば、王の感情が戦場へ混入する。理を保つためには、耐えるしかない。
霧の向こうで倒れる影を見たとき、胸の奥で別の痛みが跳ねた。
守れなかった命が重なる。
その重さは、いつの間にか紗世へと繋がっている。拒んでしまった存在。取り返せない言葉。そこへ新しい血が積み上がるたび、責める刃は外ではなく自分自身へと向く。
――俺がもっと早く過ちに気づいていれば。もっと早くに自分の本心に触れていれば。紗世の存在を受け入れていれば。
思考が一瞬、揺らいだ。揺らいだ隙に、霧の中でまた誰かが倒れる。
誤解が暴力に変わる速度は、戦略より速い。
レオンは拳を握り締め、爪が掌へ食い込む痛みで、なんとか自分を繋ぎ止めていた。
怒りが理性を侵食しはじめている。
それを認めた瞬間、背筋が冷えた。
王の代理として抑えてきたものが、限界に近い。
戦場は、危うい均衡へと入った。
そして胸中に、不吉な予感が芽を出す。
誤解が、また新たな血を呼ぶ。
今度は、取り返しのつかない形で――。




