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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十三章 強くあれ

 戦場の夜は、眠りの底にまで煙の気配を連れ込む。

 獣人たちが交代で見張りに立つ。

 鎧の継ぎ目が擦れる音が、闇のどこかで途切れ途切れに鳴っている。

 眠りに落ちた兵の輪は、熱と汗と土の匂いを抱えたまま動かない。

 その端に、焚き火がひとつだけ赤い舌を伸ばし、風の筋を受けて形を変えている。

 レオンはそこへと歩み寄った。

 誰にも声をかけず、誰の許しも要らない場所へと向かう。

 彼の外套の裾があおられ、乾いた土の上で微かな音を鳴らす。

 その背中に背負っているのは、勝利の標。時期王の肩書きを兵たちは疑いなく信じている。

 だが今夜のレオンは疑われないことが重かった。

 彼が炎へ手をかざすと、熱が掌の皮を撫で、骨の内側まで入り込んできた。

 朱雀の加護を受ける黒い炎――それはただの焚き火ではない。

 赤の中に墨を落としたような影が混ざり、火は奥底の見えない深さを持っている。

 王家の血に応じて燃え方が変わると、レオンは幼いころから教え込まれてきた。

 強い王であるほど、火は従う。

 迷いのある王ほど、火は荒ぶる。

 そう言われ、火の前で膝を折り、泣くことすら許されずに立たされた日々があった。

 今、目の前にある黒が形を変えるたび、重なるものがある。

 紗世の最後の視線だ。

 拒絶でも怒りでもない。

 責める刃の鋭さすらなく、そこには諦めだけが残っていた。

 人は、言葉が届かないと悟ったときに、ああいう目をする。

『怖いのに……どうして、あの人のことばかり考えてしまうんだろう』

 彼女の声を耳にしたわけではない。それでも、あの沈黙の向こう側に、きっとこの言葉が横たわっていたはずだ。

 王宮で、人間として息をするだけでも怖かったはずだ。

 そんな彼女と幼いころの自分が重なる。

 そして、耐えきれずに目を逸らしてしまう。

 火が弾け、火の粉が宙を舞う。

 レオンは瞬きをひとつして掌を握り締めた。

 剣を握るときと同じ力が、勝手に指に入った。

 力を抜けば崩れてしまう気がしたからだ。

 あのとき口にした言葉が、遅れて喉を裂く。

 取り消すことのできない刃だった。

 誰かを守るための刃ではなく、彼女の心を切り離すための刃。

 時期王となる自分は、いつも正しい刃を選んできたはずなのに、紗世に向けたそれは明らかに違った。しかしそれを認めること自体が、王としての背骨を折る行為に感じられる。

 喉の奥から、熱い息と一緒に零れる。

「……俺は、間違ったのか」

 自分の声が異様に近くで響いたような気がした。

 動揺が眉をわずかに動かし、すぐに顔を固めた。

 誰に問いかけたのかも分からない。レオンの立場は、問いが許されない。

 答えを得る前に結論を出し、兵を動かし、国を守れと教わってきた。

 だから、代わりに命じる。

 胸の内に幾度となく叩き込まれてきた短い言葉を。

『強くあれ。迷うな。揺らぐな。勝て』

 幼いころから繰り返された呪文が、今も骨の隙間に残っている。

 王は背を見せてはならない。王は弱さを持ってはならない。王が崩れれば、国が崩れる。兵の誇りも、民の明日も、王の肩に載っている。

『だから、欲するな』

 その戒めが最も重かった。欲は王を曇らせる。曇りは判断を狂わせる。狂いは死者を増やす。理屈は明快で、逃げを許さない。

 それでも、紗世を傍におきたいという衝動は消えない。

 炎の熱より深く、内側を焦がしてくる。守るべき国と、守りたいひとりが、別の重さで胸に居座る。どちらかを軽く扱えば、もう片方も崩れる気がした。

「……俺は、あいつにどうしようもなく惹かれている。抗うことができぬほどに……」

 誰にも届かない、届いてはいけない声が夜気に溶ける。

 吐き出した瞬間、胸の内が少しだけ軽くなり、その軽さが次の恐怖を連れてきた。言葉にした途端、戻れない地点へ踏み込んだことに気付いてしまったからだ。

 焚き火が、突然、大きく形を変えた。黒い炎が跳ね上がり、影が伸びる。

 見張りの足音さえ止まったように錯覚する。レオンは目を細め、火の中心を見据えた。

 なにかが呼応した――そう口にしかけ、唇を噛む。

 偶然だ。戦場では風向きひとつで炎は踊る。

 朱雀の加護が強まっただけかもしれない。そう切り捨てれば楽だ。楽であるほど、胸の底に沈む不安が増す。

 黒い炎の奥で、ごくわずかな気配が触れたように感じた。

 名を呼べば届く。そのような距離ではない。

 それでも、同じ空の下にいると、確かに思えた。

 レオンは外套を翻し、背を向ける。

『強くあれ』

その呪文をもう一度だけ噛みしめながら。


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