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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十二章・消える前の息

 自室へ戻った紗世は、扉を背で閉め、その場に立ち尽くした。

 目の前の卓の上には、先ほど用意したばかりの布袋がひとつ置かれている。

 旅支度と呼ぶにはあまりにも心許ない。替えの衣と、最低限の薬草、少しの銅貨。どれも必要なものではあるのに、袋は拍子抜けするほど軽かった。

 その軽さが、自分という存在の薄さまで示しているようで、紗世は袋から目を離せなくなる。

 この世界で過ごした時間を思い返しても、形ある荷物に変えられるものがほとんどないのだと、改めて思い知らされた。

 ここへ来てからの日々が、胸の内側でひとつずつほどけていく。

 右も左も分からなかった頃、励ましの言葉をくれたミレイア。

 不安を紛らわせるように、無邪気な笑顔で手を引いてくれたルナ。

 不器用な言葉で、さりげなく助け船を出してくれたマーリスやカリナ。

 そして、ぶっきらぼうな物言いの奥に、確かにあったはずのレオンの情。

 どれも紗世にとっては宝物のような記憶だった。

 そのはずなのに、今、袋の中には何ひとつとして残っていない。

「私がいても、いなくても……なにも変わらないのかもしれない」

 自分でも驚くほど平板な声が、静かな部屋の空気に溶けた。

 あの部屋で浴びせられた「番の話も白紙だ」という言葉が蘇り、胸の奥がぎゅっと縮む。

(私がいなくなれば、あの人は楽になれるのかもしれない)

 その考えが浮かんだ瞬間、心のどこかで踏ん切りのようなものがついた。

 逃げ出すためではない。これ以上、余計な重荷にならないためだ。

 ミレイアも、ルナも、マーリスも、カリナも。

 そして──レオンも。

 彼は王太子であり、炎王の後継だ。

 国の命運を背負って戦場へ立つ者が、紗世のような異邦人への情を理由に足を止めるわけにはいかない。

 だからあの冷たい言葉を選んだのだと、頭では理解できる。

 理解できるからこそ、今のままそばに居続けることが怖くなった。

 このまま城内に留まれば、誰かが彼の弱点として紗世の存在を見つけ出すかもしれない。

 そうなれば、彼の選択肢を奪うのは自分だ。

 紗世はゆっくりと卓へ近づき、布袋の口を確かめた。

 紐を固く結び直す。小さな音が、妙に大きく耳に届く。

(王宮のどこかで姿を消すか、霊脈の裂け目に向かうか……)

 ぼんやりとした二つの道筋が浮かぶ。

 どちらを選んでも簡単ではないが、この部屋にとどまるよりはましだと感じた。

 ここにいれば、誰かが扉を叩くかもしれない。レオンが戻ってくる可能性だって、捨てきれないまま揺らいでしまう。

 それが一番いけない。

 期待を手放すためにも、この場所から離れなければならない。

 意識して大きく息を吸い込み、吐き出す。

 自分にできる唯一の整理の仕方だった。

 窓の外は、すでに夜の色に染まっている。

 王都の空を覆う結界に、霊脈の光が淡く走り、雲の向こうで龍が身じろぎしているかのようなうなりが、地の底から伝わってきた。

 床石の下に眠る龍脈が軋み、黒と金の奔流がぶつかり合っている。

 その衝撃が、厚い石壁を通して紗世の足裏にまで届いた。

 夜が深まるほど、王都を支える霊脈は荒ぶりを増している。

 黒炎の王を失いかけている世界そのものが、見えない場所で悲鳴を上げているようだった。

 紗世は布袋を両手で抱き上げ、肩に掛ける。

 片側に重みが寄り、身体の重心が変わる。そのささいな違和感が、今から踏み出す一歩の大きさと重なった。

 部屋の中に、未練になりそうなものはほとんどない。

 与えられた寝台と、小さな衣櫃と、読みかけの書物が数冊。

 けれど、そのどれもが「ここで過ごした時間」の証であり、目に入れ続ければ気持ちが揺らぎそうだった。

 紗世は部屋の扉の前に立つ。

 木製の扉に添えた掌から、ひんやりとした感触が伝わった。

 ここを開き、廊下へ一歩踏み出せば、もう元の場所には戻れない。

 それでも、足は止まらなかった。

 逃げるのではなく、誰かの負担を少しでも減らすためだと、何度も心の中で繰り返す。

 そうしてようやく、扉の向こうへ手を伸ばす覚悟が形になっていく。

「これでいい」

 誰に向けたとも知れない言葉が、唇からこぼれた。

 ミレイアにも、ルナにも、レオンにも聞こえない小さな宣言。

 それでも紗世にとっては、自分をこの場所から解き放つ印のようだった。

 取っ手を回し、扉を押し開ける。

 廊下には、夜番の兵の気配と、灯台にともされた火の揺らぎがある。

 昼とは違う静けさを帯びた王宮の息遣いが、ひやりと肌を撫でた。

 一歩、また一歩と歩を進める。

 布袋が腰のあたりで小さく揺れ、そのたびに中の薬草袋が触れ合って音を立てた。

 紗世の呼吸は浅くなるが、それでも歩みは止まらない。

 背後で扉が閉まる音が響いた瞬間、獅子国の霊脈が深く悲鳴を上げた。

 誰の耳にも届かないほど深い地の底で、龍脈の流れがきしむ。

 黒と金の流れが交わり、どこか一点で裂け目を広げるような気配が走った。

 太陽の王と影の少女。

 ひとつの絆が断たれようとしている。

 まだ誰も気づいていない。

 王宮の者たちも、城下の民も、戦場へ向かった兵も知らない。

 ただ、この世界を形作る〝理〟だけが、その変化をいち早く捉えていた。

 紗世はそのことを知らぬまま、夜の廊下を進んでいく。

 消える前の息を、胸の奥でそっと噛みしめながら。


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