第十二章・炎の背を追う影
レオンの言葉に胸を裂かれたような痛みを抱えたまま、紗世は部屋を出た。
重い扉が背後で動く。その隙間から、甲冑の留め金が鳴るような、乾いた音がかすかにこぼれてくる気がした。
完全に閉まりきる前、その音を飲み込むように、鋭い声が廊下を駆け抜けた。
「王太子殿下! 狼国との戦がさらに拡大しました!」
呼びかけたのは、炎獅隊の紋章を肩に刻んだ騎士だった。
緊迫した報せが耳に届いた瞬間、それまで静まっていた廊下が一気に色を変える。
近くの控えの間から兵が飛び出し、遠くで書類を抱えた文官が駆け足に切り替える。
さっきまで穏やかな昼下がりの流れを保っていた王宮の空気が、戦場へ向かう陣地のそれに組み替えられていく。
背後の部屋から、低い返答が漏れた。
「詳細を報告しろ」
短く抑えた声に、紗世の肩がわずかに震える。
さきほど、番の話を白紙にすると告げた同じ声。
だが今、その響きには個人の想いを挟む余地がなく、国の命令を扱う者の重さだけが宿っていた。
立ち尽くしていると、目の前を慌ただしく兵が通り過ぎる。邪魔にならないよう、紗世は壁際まで下がった。
すると、脇の小さな柱の陰が目に入る。そこに身を寄せれば、廊下を行き交う人々からは死角になる。
(見つかりたくない)
その一方で、扉の向こうの気配から目を離したくないという思いも生まれる。
相反する感情に背中を押されるように、紗世は柱の影へ身を滑り込ませた。
胸の奥には、まださっきの言葉が突き刺さったままだ。
『番の話を白紙に戻す』と、あれほど冷たく突き放されたばかりなのに、足は逃げ出すことを選べない。
彼がこれからどこへ向かい、どんな顔をして戦に立つのか。知らないまま背を向けたら、二度と隣には立てない気がした。
(私への拒絶も、戦うために切り捨てたものだったんだろうか)
戦が拡大したという報せと、番の話を白紙に戻すという宣告が、頭の中で重なっていく。
自分を遠ざけることで、戦いに集中しようとしたのかもしれない。
そう考えれば考えるほど、胸の痛みは深くなった。
やがて扉が開き、騎士の号令とともに、レオンが姿を現す。
「炎獅隊、出陣準備だ。軍装を整えろ」
周囲の兵に短く指示を出す横顔は、さきほどまで同じ部屋で言葉を交わしていた相手とは思えないほど、表情の余分な色を削ぎ落としていた。
私情を押し流し、王太子としての顔だけを残したような硬さがある。
革の軍靴が床を打つ音が、早足に廊下を進んでいく。
紗世は柱の陰で身を縮め、その背を目で追った。
ここで名を呼べば、彼は振り返るかもしれない。
そう思っても、喉は一向に開かなかった。
呼び止めてはいけない。
今、彼の前に立つ資格はない。
番の話を白紙にすると告げられた以上、自分はただの厄介事でしかない。
そう思うことでしか、揺れそうになる心を支えられなかった。
曲がり角の向こうから、炎獅隊の整列を告げる号令が響く。
武具の擦れる音がいくつも重なり、出陣前独特の空気が王宮の一角を満たしていった。
中庭へ続く大扉の手前に、炎獅隊の兵たちが列を成していた。
漆黒の軍衣に赤金の紋章が縫い込まれ、胸元には炎を象った飾り金具が光沢を帯びている。
ひとりひとりの肩にかかるマントが翻るたび、布の重みが空気の流れを変えていく。
その中央で、レオンが軍装へ袖を通していた。
侍従が差し出した衣を片腕ずつ通し、胸元の留め金を音を立てて閉じる。
肩当てが取り付けられ、革の帯が腰に巻かれ、最後に鞘に収められた剣が装着される。
その一つひとつの所作が進むたび、彼は個人の男ではなく〝炎王の後継〟へと姿を変えていく。
紗世は少し離れた柱の陰から、その光景を見つめていた。
ここからなら、整列する兵も、中庭の石畳も、すべてを見渡せる。
ただ、自分の存在だけは誰にも気づかれない。
胸の奥が焼けるように熱い。
さきほど突きつけられた拒絶と、今目の前で紗世の届かない高みに立とうとしているレオンの姿が、残酷なまでの対比を描いていく。
(私への言葉も、この戦のために切り捨てたのだとしたら)
それが事実だと分かったところで、慰めになるわけではない。
番としての未来を期待してしまった自分が、どうしようもなく愚かに思える。
それでも、あの言葉すら彼の責務に飲み込まれていったのだと考えると、胸の奥に複雑な澱が溜まっていく。
「炎獅隊、前へ」
号令とともに、兵たちが一斉に一歩を踏み出した。
軍靴が石畳を打つ音が重なり、地面から低いうねりとなって伝わってくる。
レオンはその先頭に立ち、背筋を伸ばしたまま中庭の中央へ進んだ。
出陣前、彼はふと動きを止め、振り返る。
炎獅隊の列の向こう側、王宮の回廊をなぞるように、どこか一点を探すように。
兵たちの間を縫うようにして、その目はある場所を求めていた。
廊下の影、柱の近く、自室へ続く棟へ向かう道筋。
そのどこかに紗世が立っているのではないかと、無意識のうちに考えていたのかもしれない。
視線がかすかに揺れた。
しかし、紗世はその先にはいなかった。
柱の裏で、紗世は両手を固く握りしめたまま動けなくなっていた。
今ここで飛び出せば、彼の目に届くことは分かっている。
それでも、一度白紙にされた番の話を持ち出す勇気はどこにもない。
もう一度拒まれたら、その瞬間に完全に壊れてしまうと感じていた。
(私がいなければ……あの人はもっと楽に戦えるのかもしれない)
そんな考えが、重石のように胸の奥へ沈んでいく。
自分の存在が彼の弱点になるのだとしたら、離れている方がいい。
そう思い込もうとするほど、涙がこみ上げそうになるのをおさえ込むのに必死だった。
中庭の端に据えられた巨大な松明に火が入る。
燃え盛る炎が石壁を染め、レオンの背を黒々と縁取っていった。
炎を映した石壁の影が長く伸び、レオンの背へ絡みつく。
その影は、彼を戦へ引きずる鎖のようにも見えた。
王太子として背負わされた宿命と、炎の力そのものが、あの背中を前へ前へと押し出していく。
紗世は、その姿を焼きつけるように見つめ続けた。
炎に照らされ、誰より強くあらねばならない人。
それなのに今は、手を伸ばしても届かないほど遠い存在に感じられる。
出陣の号令が上がる。
炎獅隊が一斉に歩み出し、軍列は城門へ向かって進んでいった。
レオンが振り返った理由を確かめるすべもないまま、紗世は燃えるような背を見送り続ける。
炎の向こうに飲み込まれていくその姿を、ただ目で追いながら、胸の内でかろうじて残った想いだけを、誰にも見えない場所へ押し込めた。




