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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十二章・白紙の言葉

 レオンから呼び出しがあったのは、喧噪がようやく落ち着き、宮の廊下に人の足音がまばらになりはじめた頃だった。

 案内役の兵の背中を追いながら歩くあいだ、紗世は自分の足音だけがやけに大きく響いているように感じていた。

 辿り着いたのは、王族の執務にも使われるという一室だった。

 扉の前で兵が一礼し、静かに退く。

 戸が開かれた瞬間、内側の空気が肌に触れた。人の気配は乏しく、先ほどまでの廊下とはまるで別の世界のように、重く澱んでいる。

「入れ」

 低い声が内側から届き、紗世は胸の奥に生まれた緊張を押さえつけるようにして一歩を踏み込んだ。

 部屋の中央には長い机、その奥の窓際にレオンが立っていた。

 昼の名残りを含んだ淡い明るさが、彼の肩口を縁取る。鍛えられた体を覆う黒衣の上から、炎を象った紋章の刺繍がわずかに浮かび上がっていた。

 あの夜以来、彼が意識して距離をとっていることは分かっていた。

 朝食の席に姿を見せない日が続き、廊下で鉢合わせても短く挨拶を交わすだけで、すぐに歩み去ってしまう。

 それでも、こうして呼ばれたということは、話すつもりがあるということだ。なにかが変わるかもしれない。

 そんなわずかな希望が、胸の片隅に芽生えていた。

「レオンさ──」

 呼びかけようとした声を、彼の言葉が遮る。

「俺が側にいれば……お前も焼き尽くす」

 机越しではなく、真正面から紗世と向かい合う位置に立ちながら、彼は目を合わせようとしなかった。

 感情を押し込めたような声音は、誰かに向けた説明というより、自分自身への宣告に近い。

 紗世は一瞬、言葉の意味を取り違えたのかと思った。

 だが、続いた言葉が、その甘い錯覚を容赦なく断ち切る。

「巻き込みたくない。番の話も白紙だ」

 短く告げられたその二つの文が、鋼の矢のように胸に突き刺さる。

 ——番。

 この世界で一生の伴侶を公に定める、獣人たちの古くからのしきたり。王族がそれを選ぶということは、個人的な想いだけでなく、国と国との結びつきまで変えてしまう大事だと聞かされていた。

 正式に告げられたのはつい先日で、側仕えの女官たちに祝われ、半ば夢見心地のまま受け止めたばかりだった。

 それが、今、なにもなかったことにされる。

 喉の奥に、呼吸にならない空気がたまる。

 どうにか言葉を探そうとするのに、頭の中はまっ白で、うまく形にならない。

「……私が、邪魔なんですか」

 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

 問いというより、自分の存在を確かめるための音に近い。

 本当は、違うと言ってほしかった。

 『お前のせいじゃない』と、即座に否定してほしかった。

 それだけでよかったのに、レオンは黙ったままなにも言わない。

 言葉を見失っているのか、それとも語る資格が自分にはないと思っているのか。

 沈黙の理由を探そうとすればするほど、答えが見えなくなっていく。

 張り詰めた静けさが、紗世の心をゆっくりと圧迫していった。

「……そうですよね。私なんかが隣にいたら、きっとご迷惑ですよね」

 笑おうと口元に力を込めても、頬はうまく動いてくれなかった。

 薄く吐き出した言葉は、自分を守るための皮肉にもならず、ただ空中で解けていく。

 番という響きに、未来を重ねてしまった自分が愚かに思える。

 この世界でも、必要とされない場所ばかり求めているのだと、胸の内側で冷たい理解が広がった。

「……分かりました。ご迷惑をおかけしました」

 これ以上ここにいると立っていられなくなりそうで、紗世は小さく頭を垂れた。目を上げれば、なにかを期待してしまう。だから視界は足元だけでいいと、自分に言い聞かせる。

 一礼を終えると、そのままドアへと向かう。

 一歩一歩がやけに重い。膝から力が抜けそうになるのを、かろうじてこらえながら歩を進める。

 扉の前に立ち、金属のノブへと指を伸ばした。ひんやりとした感触が指先に触れる。

 そこでようやく、背後の気配がわずかに揺らいだのを感じた。

『待て』

 そう言ってくれたら。

 たったそれだけでよかったのに、その声はいつまで経っても届かない。

 代わりに室内を満たすのは、衣擦れさえ起こさない沈黙だけだった。

 耳が痛くなるほどの無音を振り払うように、紗世はノブを回し、扉を押し開ける。

 廊下の空気が流れ込んできた。

 背後で扉が閉まる鈍い音がして、二つの世界がくっきりと分かたれた気がした。

 ──その背中を、レオンは動けずに見送るしかなかった。

 扉が閉まったあとも、彼はその場から一歩も動けなかった。

 部屋のなかには、紗世が立っていた位置だけがぽっかりと残されているように感じられる。

 机の端に片手をつき、もう片方の手で額を押さえる。

 胸の内側で、呪いのように焼けつく記憶が浮かんでは消えた。

 炎の力は、この国を守るために授かったものだ。

 敵対する者を薙ぎ払い、凍える土地にあたたかな気候をもたらし、民を豊かにする。

 そう教えられてきたはずなのに、その力は幼いころから身近な人間さえ傷つけてきた。制御を誤った一瞬の火が、どれほどのものを奪ったのか、数えることさえしたくない。

 紗世はそれを知らない。

 知る必要もないと、レオンは思っている。

 あの夜、彼女を抱きしめかけた腕に、抑え込んでいた炎がかすかに走った瞬間の恐怖を、彼女に伝えるつもりはなかった。

(俺が側にいれば、あいつまで焼く)

 その確信があるからこそ、番の話を白紙に戻すと告げた。

 自分の手で彼女を失う未来を思い描くくらいなら、今この場で切り離した方がいい。

 そう判断したのは、守るためであり、決して彼女を否定したかったからではない。

 それなのに、口から出た言葉は、彼女の居場所そのものを奪うものになってしまった。

(本当は守りたい)

 この世界に連れてこられた異邦人としてではなく、ひとりの女として、同じ高さに立たせたい。

 それでも、自分の力に巻き込んで壊してしまう未来の方が、あまりにも鮮明に思い描けてしまう。

 言い訳のような本音が喉元まで込み上げては、そこで固まり、声にならず消えていく。

 呼び止める一言を選べないまま、レオンはただ拳を握りしめ、閉ざされた扉を見据えていた。


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