第十二章・影の底に落ちた欠片
荒れ狂っていた炎が引き、回廊に残ったのは、煤の匂いと、今にも折れそうな梁の軋む音だけだった。
焼け焦げた床石にひびが走り、天井から崩れた装飾片がぱらぱらと落ちてくる。朱雀祭の装いを誇っていたはずの棟は、もう別の世界のように変わり果てていた。
紗世は、腕を回して肩を支えてくれているレオンの手に重心を預けながら、ふらつく足で立ち上がる。
足元には、揺らめく灯に縁どられた、自分の影が伸びていた。
その影の上へ、ぽとりとなにかが落ちる。
それは黒い火の欠片だった。
赤い炎が消えたあとも燻り続けていた煤の塊が、形を変えて残ったようにも見える。
炭の欠片ほどの小さなそれは、床に触れた瞬間、火花を散らすことも、煙を上げることもなく、影の輪郭に吸い込まれていった。
じり、と背筋を爪でなぞられたような感覚が走る。
熱いとも冷たいとも言えないものが、皮膚を通り越して骨の内側まで染み込んでくるようだった。
紗世は胸の奥で息を詰め、指先にまで痺れが降りていくのを堪える。
その瞬間、視界の端で世界の色が捻れた。
床も壁も、先ほどまで自分たちを焼こうとしていた炎の残り火ですら輪郭を失い、墨を流し込んだような濁った闇へ沈んだように見える。
(……なに?)
瞬きをひとつ落とす。
次の瞬間には、崩れかけた回廊の景色が戻っていた。
焦げた柱、ひしゃげた格子窓、崩落した梁。見慣れた宮殿の構造が、焼け跡としてそこにある。
しかし胸の奥だけは、先ほどの異変を忘れてくれなかった。
底に石を落とされた水面のように、じんわりと重さが沈んでいく。
足元の影へ、紗世はそっと視線を落とす。
その黒の輪郭のさらに奥で、ゆっくりと渦を巻く暗い水脈のようなものが、かすかな幻として浮かび上がる。
触れれば沈み込み、底の見えないどこかへ引きずられていきそうな、得体の知れない深み。
ほんの一瞬の感覚に過ぎなかったのに、心臓のあたりがひやりと冷えた。
紗世は無意識に両腕を抱き寄せ、肩を小さく縮める。
そのささやかな震えを、すぐそばにいるレオンは見逃さなかった。
なにが起きたのか、言葉では掴めない。
それでも、紗世の影を通り抜けていったものが、世界の理から外れたなにかであることだけは、本能が告げていた。
「……行く」
短く告げると、レオンは紗世の肩を抱き寄せ、倒れ伏したミレイアへ歩み寄る。
床に広がった血は、すでに黒く乾きかけていた。
レオンは彼女の身体を抱き上げ、腕の中に横たえる。
ミレイアの顔は青白いが、薄く開いた唇からは途切れながらも呼吸が漏れていた。
その安堵と、守り切れなかった悔しさが同時に胸へ込み上げる。
「まずは避難だ」
崩れた梁が背後で落ちる音を振り切るように、レオンは紗世とミレイアを庇いながら、炎に包まれた棟から離れていく。
まだ消え残る火が壁際で燻り、焼けた木材の匂いが風に押し流される。
外気へ出た途端、冷たい夜風が三人の身体を撫でた。
風に乗って舞い上がった灰が、ひらひらと夜空へ昇っていく。
朱雀祭の名残として灯されていた火はすでに消え、黒い煙だけが空へ伸びていた。
その頃、誰の目にも触れない地の奥では、別のものがうごめいていた。
大地を縫う龍脈のひとつ。
長い歳月、岩盤の狭間で眠っていた黒い流れが、かすかに震える。
誰かの呼吸に応じるように。
炎の暴走に呼び起こされるように。
目覚めを待つ獣が、尾を引いて身を捩るときのような波動が、深層から上へと伝わっていった。
この夜の炎は、ただの事故でも、単なる襲撃でもない。
後に世界の理そのものを歪めていく、最初の火種。
その予兆だけが、焦げた風のざらつきと共に、王都の空気へ溶け込んでいった。




