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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十一章・炎の中心で

 床が震え、柱が軋み、焼けた空気が肌を刺していた。

 紗世は崩れ落ちかけた膝を押さえ込み、ぐらつく身体をなんとか支える。

 鼻の奥には焦げた布と油の匂いがまとわりつき、煙が喉を荒らしていく。

 少し先では、赤と黒の炎がぶつかり合っていた。

 朱雀の火がうねり、そこへ黒火が絡みつく。

 二つの色がねじれ合い、回廊全体が赤黒い奔流の中に飲み込まれている。

 その中心に、レオンがいた。

 王家の炎をまとったはずの男は、敵に焼かれているのではない。

 自分自身の力に押しつぶされ、その身を削りながら立ち続けていた。

 熱が彼のまわりだけ異様な密度で渦を巻き、髪も衣も風に打たれる旗のようにはためいている。

(このままだと……この人が壊れてしまう)

 胸の奥を締めつける感覚が強くなる。

 怖くないわけがなかった。

 ひとつ足を踏み出すごとに、皮膚が焼けるような痛みが走るのだから。

 それでも、紗世の中で恐怖よりも強いものがあった。

 炎の渦に囚われているレオンの表情。

 眉間に刻まれた深い皺と、噛みしめられた奥歯。

 誰かを守ろうとした結果、自分を傷つける生き方を選んできた人の顔だと、紗世には見えた。

(もう、自分を犠牲にすることでしか守れないなんて思わないでほしい)

 喉の奥で言葉が形を成す。

 それが声になる前に、足が自然と前へ出ていた。

 熱気で呼吸が浅くなり、目も痛む。

 それでも紗世は、燃え盛る空間へ踏み込んだ。

 片足を進めるたび、靴底から熱が伝わってくる。

 髪の先が焼けそうなほど炎が近く、頬に熱風が叩きつけられた。

 それなのに、意識の焦点はひとつの場所から離れない。

 レオンの姿だけを見つめる。

 黒火が唸り声のような音を立て、紗世の前へ飛び出した。

 爪を振り下ろす怪物の腕のように炎が広がり、進路を薙ごうとする。

 熱が皮膚を切り裂くように触れ、思わず片膝が折れかける。

 それでも紗世は、床に手をついて体勢を立て直し、一歩をあきらめなかった。

(怖い。でも――ここで止まったら、後悔する)

 足が震える。

 汗なのか涙なのかわからないものが頬を伝う。

 それでも、前に進むという選択だけは崩れなかった。

「レオン!」

 炎の轟きにかき消されそうな声。

 それでも、その名を呼ぶだけで胸の中に一本の軸が通る。

 呼ばれた名に、彼の目がかすかに揺らいだ気配があった。

 黒火の奥で、レオンの意識が炎から離れ、紗世を探そうとする。

 紗世はその瞬間を逃さなかった。

 燃え上がる渦の中へ、ほとんど飛び込むように身を投じる。

 腕を伸ばし、炎をかき分ける勢いでレオンの胸元へ手を伸ばした。

 肌を刺す熱が、今度ははっきりとした痛みになって襲う。

 焼けるような感覚に目の端が潤むが、紗世は腕を離さない。

 彼の胸に額が触れ、そのまま細い腕で抱きしめた。

「もう、あなたが自分を焼かなくてもいい」

 炎の唸りが響き続ける中、その言葉だけが澄んだ音となって落ちた。

 紗世の声は震えていた。

 それでも、その震えは恐怖からだけではなかった。

 彼の生き方を変えてほしいという願いと、ここで手放したくないという意志が混ざり合い、一本の細い線になってレオンへ届いていく。

 レオンの胸に絡みついていた黒火が、不意に動きを止めた。

 先ほどまで牙を剥いていた炎が、紗世の腕を識別するかのように揺らぎ、ぎりぎりのところでその身をそらす。

 黒い火の筋が解け始めた。

 肩にまとわりついていた炎が、ひと筋、またひと筋と剥がれ落ちる。

 剥がれた火は空中で霧のように細かく散り、やがて赤い炎の中へ溶けていった。

 赤と黒がせめぎ合っていた回廊の中央。

 二人の周囲だけ、輪を描くように炎が退いていく。

 熱の波が遠ざかり、そこだけが嵐の目のように静まる。

 床石を焼いていた火は脇へ流れ、天井を舐めていた火も勢いを失って天へ逃げた。

 兵たちは、その光景を前に声を失っていた。

「黒火が、弱っていく……」

「人の手で鎮められるものではないはずだろう」

 誰かが喉の奥で呟く。

 伝承の中でしか知らなかった災厄の火が、一部とはいえ消えていくのを目の当たりにして、誰もが言葉を無くしていた。

 炎は気まぐれで、暴れ出したら止まらない。

 ましてや黒火は、霊脈の歪みが産む厄災だと恐れられてきた。

 それが今、ただひとりの娘の腕と、短い言葉で鎮まりかけている。

 レオンは、胸元にしがみつく紗世の重みをはっきりと感じていた。

 先ほどまで耳を裂いていた轟音が遠のき、代わりに自分の呼吸が戻ってくる。

 荒れていた気を静めるように、肺へ入る空気の温度が少しずつ下がっていく。

(俺は……なにをしていた?)

 紗世を守るつもりで放った炎が、いつの間にか彼女を閉じ込める檻になっていた。

 この世界を守ろうとする意志が、黒火の暴走に形を貸していた。

 そんな現実が胸に突き刺さる。

 それでも、紗世は離れない。

 焼ける痛みに耐えながら、彼の胸に顔を預けている。

「あなたが燃え尽きてしまったら、なにも守れなくなる。だから……どうか、自分を守ることも、守る側のひとつに入れてください」

 囁くような声だった。

 大きな説得でも、理屈でもない。

 ただ、紗世自身が願っていることを、そのまま差し出しただけの言葉。

 レオンの胸の奥で、硬く固まっていたなにかが解けていく。

 ずっと、弱さを見せてはならないと教えられてきた。

 王である限り、迷いも痛みも心の内側で燃やし尽くし、灰にして飲み込めと叩き込まれてきた。

 その結果、黒火に心の隙を与えたのだとしたら――。

(俺を焼いていたのは、世界ではなく、自分自身の在り方だったのか)

 そんな思いが胸を掠める。

 暴れていた力が、嘘のように静まっていく。

 黒火の残滓が霧となって散り、朱の炎だけが薄く揺れたあと、やがてそれも消えた。

 赤黒い乱流に満たされていた回廊に、遅れて冷えた空気が流れ込む。

 焦げた木片がぱらぱらと落ちる音だけが、現実の証のように響いた。

 紗世の腕はまだ彼の身体を抱きしめている。

 傷だらけのその細さが、レオンには痛いほど愛おしく感じられた。

(この力も、この炎も、誰かを縛るためではなく、守るために在りたい)

 胸の底から、そんな願いがゆっくりと立ち上がる。

 暴走の熱が引いたあと、彼はようやく目を閉じることができた。

 世界を焼き尽くそうとしていた火は、今は胸の奥で小さく灯る炎へと姿を変え、紗世の存在を抱き込むように静かに燃えていた。


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