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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十一章・黒火の胎動

 出陣に向けた最終確認が続く中、軍議の間には地図と報告書が積み上がっていた。

 指先で戦線をなぞりながら、レオンは兵の配置や補給の経路を一つひとつ確かめていく。

(抜けはない。これで、あとは俺が先頭に立つだけだ)

 そう思い定めた瞬間だった。

 翼廊側から、甲冑を鳴らしながら兵が駆け込んでくる。

 扉を開け放つ勢いのまま、膝をつき頭を垂れた兵の肩が大きく震えていた。

「火災です! 翼廊にて炎上発生、人間の娘が……炎に巻かれたと!」

 その一言が、レオンの胸を殴りつける。

 意味を理解するより先に、頭の中で「紗世」という名だけが鋭く弾けた。

「……なんだと?」

 喉から低くこぼれた声は、自分でも驚くほど荒い。

 椅子を引き払う音と同時に立ち上がり、レオンは軍装のまま駆け出していた。

「殿下、お待ちください! 危険です、まずは――」

 警護の兵が慌てて腕を伸ばす。

 だが、その手は熱を帯びた炎のような気配に触れた途端、怖れを覚えたのか、空を掴むだけに終わった。

「退け」

 短く吐き出した声に、周囲の者たちは道を開けるしかなかった。

 王太子の背にまとわりつく気配が、普段とは違うことを本能で察したのだ。

 翼廊へ続く通路を進むほど、空気が重く変質していく。

 鼻腔に刺さる焦げた匂い、遠くから聞こえる怒号。

 兵たちが水桶を抱えて走り、侍女たちが顔を覆いながら逃げ惑う様子が視界の端を過ぎ去っていく。

 角を曲がった瞬間、熱が一気に押し寄せる。

 翼廊一帯が朱雀の炎に呑まれ、壁も天井も赤く染まっていた。

 灯籠に残っていた祭の火が、油を含んだ装飾へ移り、一気に燃え広がったのだと理解する。

 だが、その理屈がなんの慰めにもならないほど、目の前の光景は酷かった。

「紗世!」

 思わず上がった叫びが、炎の轟きにかき消される。

 それでも叫ばずにはいられなかった。

 炎の壁の向こうに、床へ倒れ伏したふたつの影が見えた。

 片方は、見慣れた黒髪と細い肩。

 その身体を庇うように覆い被さっているのは、侍女長ミレイアの姿だった。

 肩口から流れ落ちる赤が床を染め、紗世の服にも斑を作っている。

(……間に合わなかったのか……)

 胸の奥がひき裂かれるように軋む。

 次の瞬間、感情が制御を失い、王家の血に刻まれた力が勝手に牙をむいた。

「――退け」

 低く呻くような声とともに、レオンの内側で炎が爆ぜる。

 足元から熱が立ちのぼり、彼の周囲に朱の光輪が生まれた。

 炎を吸い上げるように空気が渦を巻き、獅子王家にのみ継がれる〝炎の咆哮〟が解き放たれる。

 轟音とともに、王宮を焼いていた朱雀の炎が押し返された。

 回廊を埋め尽くしていた真紅の壁が裂け、紗世たちへ向かっていた火の舌が逆流していく。

 炎は一度天井へ打ち上げられ、そのまま外へと追われるはずだった。

 本来なら、それで終わる。

 王家の炎は守りの力でもあり、暴れる火を鎮めるために受け継がれてきたのだから。

 だが、その夜は違っていた。

 押し返された朱の火の内側に、異質な影が混じり始める。

 煤を濃く溶かしたような色が、炎の根元にじわりと広がった。

 朱色を濁らせるような、黒い揺らぎ。

 レオンの背筋が粟立つ。

(……また、これか)

 戦場で一度だけ見た、あの禍々しい火――獅子国のいかなる炎とも異なる、黒い灼熱。

 黒火は朱雀の火を内側から喰らうようにして膨れ上がっていく。

 屋根を舐めるように立ち上がり、柱を這い回りながら形を伸ばす。

 その姿は、影で編まれた龍が建物の骨組みを侵食しているかのようだった。

 赤と黒の火がぶつかり合い、空気が悲鳴めいた音を立てる。

 熱の質が変わったのか、肌に刺さる感覚が先ほどまでとは違っていた。

「な、なんだあれは……」

 駆けつけた兵のひとりがうろたえた声を漏らす。

 もうひとりは唇を引きつらせながら、震える指で黒火を示した。

「黒火……玄冥の伝承にある、とされていた……」

 古い記録でしか知らなかった名が、現実のものとして彼らの口からこぼれ落ちる。

 侍女たちは腰を抜かし、その場から動くことすらできないでいた。

 顔を強張らせたまま炎を見つめ、ただ必死に祈りの言葉を呟いている。

 黒火は彼らの怖れすら餌にするかのように、さらに濃さを増していった。

 霊脈の軋みが耳鳴りとなって王宮全体を駆け抜ける。

 床下で流れる力の筋が悲鳴を上げ、大地そのものが痛みを訴えているような感覚が足元から這い上がってくる。

 レオンは奥歯を噛み締めた。

 朱の火を押し返したはずの自分の炎が、今度は黒火の餌になっている。

 本来なら意のままに操れるはずの力が、制御を失い、暴走に拍車をかけていた。

(抑えられない……俺の火が、あれを太らせている)

 紗世へ向かおうと一歩踏み出す。

 その瞬間、黒火が彼の動きを読んだかのように牙をむき、足元へ噛みつく勢いで噴き上がった。

 熱が皮膚を灼き、視界の端が白く途切れる。

 炎の壁は、彼女に近づくための道を徹底的に奪おうとしていた。

 朱雀の火と王家の炎は本来、同じ系譜の力だ。

 レオンの意志ひとつで形を変え、盾にも刃にもなるはずだった。

 なのに黒火は従わない。

 まるで別の意思を宿した存在のように、王の命令を拒み、周囲の火を喰らいながら広がっていく。

 戦場で最初に目にした時より、さらに濃く、深い。

 闇を濃縮したような黒が、朱の炎を押しのけ、回廊の梁を侵食していく。

 兵のひとりが、水桶を抱えたままふらついた。

「水を……いや、近づけない……」

 桶の中の水さえ熱に煮えたぎり、近づくだけで皮膚が焼ける。

 常の火とは質が違うのだと誰もが悟る。

「殿下、後ろへ! これ以上は――」

 警護の声が上がるが、レオンの足はそれを聞き入れなかった。

 黒火が紗世との間に立ちはだかる限り、一歩でも縮めたかった。

 だが、現実は無情だ。

 踏み込むたびに、黒火は彼の前へ噴き上がる。

 まるで紗世を隠すための檻を作り、王太子を近づけまいとする意志を持っているかのようだった。

(紗世に触れられない。今のままでは、あの炎ごと焼き尽くすしか道がない)

 そんな選択肢を自分が取れるはずもない。

 焦りが胸に鋭い針のように突き刺さる。

 黒火はうねりながら回廊を舐め、天井を突き破るような勢いで立ち上がった。

 炎を纏った影の柱が夜空へ伸び、王宮全体を黒い光の中へ閉じ込めていく。

 誰も近づけず、誰も止められない。

 宮中の者たちは、祈ることしか許されていないかのように膝をつき、怯えた声で名を呼ぶだけだった。

 暴走は、すでに人の手で制御できる範囲を超えている。

 黒火が霊脈へ牙を立てるたび、見えない亀裂が世界に走る気配がした。

 地の底から、長く押し殺されていた呻きが漏れ出す。

(世界が、悲鳴を上げている――)

 その感覚だけが、レオンの全身を満たしていく。

 紗世へ伸ばしたい手は届かないまま、黒火だけが確かな現実としてそこに燃え続けていた。


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