第十一章・炎の檻
就寝前の回廊は人影も少なく、灯籠の明かりだけが規則正しく連なっていた。
夜番の兵の足音が遠ざかると、広い空間には火の揺らぎと、自分の足音だけが残る。
紗世は、胸の奥に残るざわめきを持て余しながら、与えられた部屋へ戻る途中だった。
戦支度の号令も、兵たちの掛け声も、今は聞こえない。
耳に届くのは、衣擦れと、壁に掛けられた飾り布が風に擦れる小さな音だけ。
(落ち着かなきゃ。何度深呼吸しても、胸の奥の火だけが消えてくれない)
自分に言い聞かせるように歩いていたときだった。
床板の下から、木材が悲鳴を上げるような低い軋みが伝わってくる。
紗世は反射的に足を止めた。
次いで、少し離れた方角から弾けるような破裂音が響く。
反射的に顔を向けた先、回廊の角のあたりで朱雀祭の残り火を仕込んだ灯籠が爆ぜていた。
紙で覆われた枠が割れ、中に溜め込まれていた火が飛び散る。
火花が飾り布へ移り、油を含んだ布地が赤い舌を伸ばすように燃え上がった。
「……えっ?」
言葉にならない息が喉の奥で詰まる。
ひとつ燃えれば、続けて次の灯籠が弾ける。
炎は段差を駆け上がる水のように連なり、回廊の天井を走る装飾へ次々と噛みついていく。
空気が急速に熱を帯び、肌へまとわりつく空気そのものが重く変質した。
紗世は頬を刺す熱気に我へ返る。
「戻らなきゃ!」
部屋へ引き返そうと踵を返した、その瞬間。
進行方向の陰から、黒い影がぬっと姿を現した。
頭巾を目深にかぶり、顔のほとんどが布に覆われている。
ただ、布の奥から覗く目だけが、燃え広がる炎より冷たく光っていた。
男は迷うことなく腰の短剣を抜き放った。
刃に映る炎がぎらりと歪な軌跡を描く。
「異界の女さえ消えればいい」
くぐもった声が、熱を含んだ空気を切り裂いた。
なにを言われているのか理解するより先に、銀の刃が弧を描いて迫る。
紗世の身体は強張り、足が床に縫いつけられたように動かない。
(避けなきゃ、動かなきゃ――)
頭では分かっているのに、膝が震えて力が入らない。
目の前の刃だけがやけにくっきりと見え、世界がそこに集約されてしまったようだった。
刃が届く、その直前。
横合いから飛び込んできた影が、紗世の身体を激しくはじく。
床に叩きつけられた衝撃より先に、耳の奥を引き裂くような金属音が響いた。
「紗世様、下がって!」
聞き慣れた声が、炎と金属音の合間を縫って届く。
紗世が顔を上げると、視界を塞いでいたのはミレイアの背だった。
彼女は紗世を庇うように立ち、手にした短剣で刺客の一撃を受け止めている。
だが、すべてを受けきれたわけではなかった。
鈍い音とともに、ミレイアの肩口に深い裂傷が走る。
赤い筋が衣を伝い、足元の床へぽたり、と音を立てて落ちた。
「ミレイアさん!」
喉から漏れた声が、自分のものとは思えないほど掠れている。
刺客は傷を負わせたことに満足した様子も見せず、無言のまま距離を詰め直した。
頭巾の奥の目は感情の色を持たず、ただ役目を遂行するためだけに紗世を捉えている。
背後では、燃え移った布が勢いを増し、長い炎の裾を引いて回廊を呑み込んでいく。
天井の飾り布が燃え崩れ、火の粉が雪のように降り注ぎはじめた。
熱気と煙が合わさり、息を吸うたびに喉が焼かれるように痛む。
左右に伸びていた通路も、いつの間にか炎の壁で塞がれていた。
(逃げ道が……)
後ろを振り向いても、赤く揺らめく炎しか見えない。
火の粉が髪に降りかかり、焦げた匂いが鼻を刺した。
刺客は一歩、また一歩と迫ってくる。
炎に照らされた刃の縁が、赤い線となって紗世の方へ伸びてくるように見えた。
その前に立ちはだかるミレイアの肩は、目に見えて上下している。
負った傷が深いせいか、握る短剣にもわずかに力のムラがあった。
「下がっていてください……紗世様」
振り返らずに告げられた声音は、普段と変わらぬ穏やかさを保とうとしている。
だけど、その背中には明らかに無理をしている気配があった。
次の瞬間、金属同士がぶつかる乾いた音が響く。
火の粉が二人の間に舞い、刺客の刃が横から襲いかかった。
ミレイアは咄嗟に身を翻して防いだが、すべてを受けきれない。
裂けた衣の隙間から新しい血が溢れ、彼女の足元に赤い斑点がいくつも咲いていった。
「もう……やめて!」
紗世は叫びながら、思わず前に出ようとしてしまう。
ミレイアの腕が制するように横へ広がり、それ以上近づくことを許さない。
「紗世様は、生きてください」
炎の音と剣戟の合間に、それだけがはっきりと聞こえた。
次の一合を受け止めきれなかったのだろう。
ミレイアの身体が大きく揺らぎ、そのまま紗世の足元へ崩れ落ちる。
「ミレイアさん!」
紗世は膝をつき、彼女の身体を抱き起こした。
指先に伝わる血の熱さが、現実をいやというほど突きつけてくる。
「私の、せいで……こんな……」
喉が詰まり、言葉が切れ切れになる。
自分を狙った刃を受けてくれたのは、いつも傍で支えてくれたミレイアだった。
彼女の呼吸は荒く、それでも紗世を安心させるように、弱った手でこちらの指を握り返してくる。
「違います……あなたの責ではありません……」
力の抜けかけた声に、それでも揺るがない意志が滲んでいた。
その目は、自分の傷などより紗世の心配だけを優先している。
胸の内側が締めつけられる。
(どうしてそこまで――どうして、私なんかのために)
答えの出ない問いが渦を巻く間にも、炎は容赦を知らなかった。
天井を走っていた梁が悲鳴を上げるように軋み、焼けた木片が近くへ崩れ落ちる。
飛び散った火の粉が床に跳ね、まだ燃えていなかった場所へ次々と火種を落としていく。
熱気はさらに強まり、肌に触れる空気自体が刃物のように感じられた。
煙が低く垂れ込め、視界の輪郭を濁らせる。
刺客の姿は煙の向こう側にぼんやりと浮かび上がり、炎に縁取られた影の塊になっていた。
逃げるにしても、戦うにしても、あまりにも条件が悪い。
(どうしたら……どうすれば助けられるの……?)
紗世はミレイアの手を握ったまま、立ち上がることができなかった。
足に力を込めようとしても、膝が震えて言うことを聞かない。
逃げるために彼女を置いていく選択肢など、初めから存在しなかった。
しかし、抱えたままこの炎の檻を抜けられるとも思えない。
胸の奥で、出口のない問いが膨らんでいく。
ゴウ、と炎が低く唸る音を立てる。
まるでふたりを飲み込む瞬間を待つ獣のように、赤い壁が近づいてきていた。
熱と煙が行き場を奪い、この一角は完全に炎の檻と化しつつある。
紗世はミレイアの血で湿った手を握りしめたまま、迫る炎から目を逸らすこともできずにいた。
赤い光だけが視界を埋めていく。
その眩しさと熱の中で、彼女は自分の無力さと、守りたかったものの重さに真正面から向き合わされていた。




