第十一章 ・不穏の兆し
翌朝の出陣を控えた王宮は、昼間とは別の重さを纏っていた。
広い廊下を行き交う侍従の足音は、いつもより意識して抑えられている。
柱に掛けられた旗は赤を基調としながらも、その鮮烈さを見せる場を失い、どこか沈んだ色を帯びていた。壁際の燭台にともる火も、祭の夜のような華やかさはなく、役目だけを果たしている。
朱雀祭の余韻は、王都のあちこちにまだ残っているはずだ。
街路の灯籠、飾り布、歌声の名残。
それなのに、宮中に流れる空気は祝祭とは真逆で、胸の奥に冷たいものを押し込んでくる。
レオンは軍議を終え、自室へ戻ると、いつものように武具の確認に取りかかった。
壁際の武具棚に並ぶ鎧と剣は、長年連れ添った相棒のように手になじむ。
彼は胸当てを持ち上げ、金属の表面を手袋越しになぞった。磨き上げられた金色の板には、細かな傷がいくつも刻まれている。
一つひとつが、これまでの戦で守ろうとしてきたものの数だった。
胸当てを抱えた腕が、途中で止まる。
戦地に向かうたびに、かならず過るものがあった。
炎獅隊の隊旗が焼け落ちた夜。
戻らなかった兵の名を読み上げるときの、重苦しい沈黙。
王妹リアナを喪った、あの朱の夜――。
(今回は、誰も失わない)
内側で呟いた誓いは、決意というより、積み重ねた痛みの奥から絞り出す願いに近い。
炎を宿す王家の血筋として、勝利と引き換えに多くを燃やしてきた。
その燃やしてきたものの重さが、鎧の重さと重なって肩にのしかかる。
彼は胸当てを所定の位置に戻し、腰の剣をゆっくり鞘から抜いた。
刃に走る赤い文様は、炎の加護を象徴するものだ。
勝利を呼ぶと讃えられたこの剣が、同時に多くの命を断ち切ってきた事実も、レオンは痛いほど知っている。
(戦を選んだ以上、清らかなままでいられると思う方が甘い)
それでも――と、思考が続く。
(それでも、守れるものがあるのなら)
そこまで考えたとき、脳裏に浮かんだのは紗世の横顔だった。
朱雀祭の灯の下、戸惑いながらも笑おうとしていた、あの表情。
政の場で互いの言葉をぶつけ合ったときの、揺るがない眼差し。
彼女の存在を思い浮かべた途端、胸の奥に別の痛みが走る。
王としての自分と、ひとりの男としての自分。
どちらかを切り捨てれば楽なのかもしれないのに、どちらも簡単には切り離せない。
レオンは剣を鞘に戻し、深く息を吐いた。
炎王家の長として、戦に出る。
それは揺るがぬ義務だ。
◇◇◇◇◇
そのころ、王宮の別棟では、別の灯が落ちていた。
重厚な扉で外界と切り離された一室。
明かりを絞った室内で、長机を囲む男たちが、王都の構造図を広げている。
オルディスは椅子から身を乗り出し、指先で図のいくつかの地点を叩いた。
朱雀祭で使われた灯籠の位置、火を扱う露店の集中している通り、王宮から離れた住宅区――。
「朱雀祭の名残りは、まだ街に散らばっている」
落とした声は低いが、そこには妙な高揚が混じっていた。
宮中で見せる柔和な仮面は、ここにはない。
「炎は扱いやすい。まして祭の後なら、多少の火事は不始末と見なされる。事故に紛れさせるには格好の舞台だ」
対面に座る黒装束の男――獅子国の影に属する刺客は、黙って頷いた。
その横顔には緊張も迷いも浮かばない。命じられた仕事を遂行することだけを、自らの価値と定めている者の目だ。
「目標は例の娘だ」
オルディスは、図の一角に印をつけた。
王宮の人間用居室棟へ続く道。その先には紗世の部屋がある。
「人間の番候補が炎に呑まれた――狼国の仕業だと噂が立てば、火種は消せぬ。王妹殿下の件で燻っていた民の怒りは、一気に狼へと向くだろう」
炎を崇める国で、火事ほど民衆の心を煽るものはない。
火の事故は日常にも存在するが、そこに「敵国の影」が見えたとき、怒りは容易に戦意に変わる。
「王太子殿下が留守の間に片付けろ。あの方は情に流されやすい。目の前で燃えるものを見せなければ、迷いを捨てきれまい」
オルディスの口元に、冷えた笑みが浮かんだ。
戦を望む者にとって、混乱は何よりの燃料だ。
王の病と狼国との緊張、そして異界の人間の娘。
それらをひとつの炎にまとめ上げる段取りは、すでに彼の頭の中で完成していた。
◇◇◇◇◇
同じころ、紗世は自室の窓辺に立っていた。
厚手のカーテンの隙間から外を覗くと、王都の夜景が広がる。
朱雀祭の灯籠のいくつかはまだ片付けられておらず、通りの上に吊されたまま、赤い明かりを揺らめかせていた。
風に押されて揺らいだ灯は、それぞれの家々の窓や屋根を朱に染めては、また薄闇に戻していく。
その光景は、本来なら心を和ませるはずのものだった。
祭りの後の名残り。夢から覚めきらない街。
だけど今は、そのどれもが胸を落ち着かせてくれない。
レオンが出陣の支度を進めていることは、昼間の様子からも分かっていた。
兵たちが武具を整え、霊獣に跨る準備をし、霊脈の安定を測る術師たちが走り回っていることも、耳に入っている。
自分は、そのどれにも関われない。
ただ宮中の一室から見送る立場でしかなく、その事実が胸をきしませた。
(なぜ、こんなにも落ち着かないんだろう)
理由を言語化しようとしても、うまくいかない。
戦が怖いのか。
レオンが戦場へ向かうのが怖いのか。
それとも、自分がなにもできないと突きつけられることが怖いのか。
答えは、どれも少しずつ正解で、どれも決定打にはならなかった。
部屋の扉の向こうから、控えめなノック音が聞こえる。
「紗世様、熱いお茶をお持ちしました」
ミレイアの声に続いて、侍女が盆を抱えて入ってきた。
盆の上には香草茶の入った茶器と、小さな焼き菓子がいくつか並んでいる。
「お飲みになれば、少しはお心が安まります」
侍女はそっと卓に盆を置き、控えるように下がった。
紗世は礼を言い、茶器を手に取った。
湯気が立ちのぼり、草木の匂いが鼻先をくすぐる。
ひと口含むと、舌の上にほのかな苦味と甘みが広がり、冷え切った胃のあたりに流れ込んでいく。
体の内側がじんわりと温まっていくのを感じながら、それでも胸の重さは消えなかった。
(やはり、私がここに呼ばれたせいで、この世界の針が動いたのではないか)
ふと浮かんだ考えに、自分で自分を叱る。
(そんなはずない。戦の原因は、ずっと前から積み重なっていて……私ひとりでどうこうできるものじゃない)
頭では理解している。
マーリスもそう言ってくれた。
王の病、狼国との緊張、王妹の件、霊脈の歪み。
それらはもともと存在していた火種で、自分が来なかったとしても、いつか別の形で火が上がっていたかもしれない。
それでも、胸の奥には細い針のような不安が刺さったままだ。
抜こうとすると、かえって奥へ入り込むような感覚に襲われる。
窓の外から、遅くまで起きている子どもの笑い声が聞こえた。
祭の名残で興奮した子どもだろう。
親に窘められる声が続き、やがてその音は消える。
そんなささやかな一幕でさえ、紗世の気持ちを完全には軽くしてくれない。
この世界のどこかに日常が残っていることは嬉しいのに、同じ世界の別の場所で、レオンたちは剣を握ろうとしている。
あまりにも両極端な景色が、一本の線で無理やり繋がれているようで、心が落ち着く場所を失っていた。
(なにかが迫ってくる気がする)
理由のわからないざわつきが、夜気とともに忍び寄ってくる。
説明のつかない予感は、元の世界にいたころから度々紗世を悩ませてきた。
胸騒ぎの通りになにかが起きるときもあれば、何事も起きないまま終わるときもある。
だからこそ、「気のせいだ」と片づけてしまうこともできた。
けれど今夜に限っては、その一言で切り捨てることができなかった。
朱雀祭の灯、霊脈の歪み、戦への行軍、そしてレオンとのすれ違い。
それらが糸のように絡まり合い、どこかでひとつの結び目になろうとしている。
紗世は胸に手を当てた。
掌の下で、高鳴る鼓動が、自分がこの世界に確かに存在していることを、否応なく教えてくる。
出陣前夜。
それは、戦と陰謀が同じ速度で動き出す夜だった。
まだ誰もその全貌を知らないまま、王宮の闇の底で、静かな火種が音もなく息を吸い込んでいた。




