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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十章・胸に残る火

 夜の帳が宮殿を包み込むころ、紗世はひとり、ベッドの端に腰を下ろしていた。

 与えられている寝台は、ひとりで使うには広すぎて、白い寝具はほとんど乱れていない。掛布の端を指先で摘んでは離し、また摘んでは皺をつくる。その小さな動きだけが、この部屋でいま、生を持っているもののように感じられた。

 耳を澄ますと、遠くの方でかすかな物音がする。

 夜番に立つ兵が鎧を鳴らす音、廊下を巡る侍女の足音、交代を告げる低い声。昼間のような喧騒はもうないのに、王宮全体がまだ戦の気配をまとっていることが、その残響から伝わってくる。

 瞼を閉じると、昼間の光景がすぐさま戻ってきた。

 王宮前広場に整列した炎獅隊、太陽色の鎧の列、掲げられた槍、軍旗。土煙の向こうに見え隠れする鬣。

 実際には窓越しにしか見ていないのに、まるで目の前で見送ったかのような鮮明さだった。

(一体、私にはなにができるんだろう)

 胸の内から零れた問いが、広い部屋に吸い込まれていく。

 返事はどこからも返ってこない。

 人間界で過ごしていた日々が、不意に重なった。

 忙しさに追われるばかりの職場。誰かのサポートをしているつもりでも、数字に表れるわけではない仕事は、あって当たり前の雑務として扱われた。

 家庭でも、段取りをつけ、空気を読み、波風が立たないように振る舞ってきたはずなのに、「やって当然」の一言で終わることが少なくなかった。

 役に立てている実感は薄く、褒められることも少ない。

 それでも「自分が引き受けた方が早い」と思って飲み込んできた日々。

(あのときの私は、いつも後ろから支えるだけで、前に立つことなんてなかった)

 そんな自分が、今度は異世界で、王や国を巻き込む出来事の中にいる。

 身の丈に合わない場所に座らされている気がして、胸の奥がじくじくと痛んだ。

(また、なにもできないまま終わるの?)

 その考えを、これ以上大きくしたくなくて、喉がひとりでに動いた。

「……私にもできることがあるはず」

 声は小さく震えていたが、その中には確かな芯があった。

 誰かに聞かせるためではなく、自分自身を引き留めるための言葉。

 誓いとも、祈りともつかない響きが、胸の奥に落ちていく。

 紗世は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。

 薄い布を指でつまみ、そっと持ち上げる。

 夜の王都には、朱雀祭の名残りの灯がまだ点々と残っていた。

 街路に吊された灯籠のいくつかは消えかけている。

 だが、いくつかの火は、闇の中で明滅を続けている。

 祭りは終わった。

 軍勢はもう王都にいない。

 それなのに、朱の灯は完全には消えず、細々と夜気の中に色を残している。

(終わりじゃない、って……言われているみたい)

 胸の中で、誰とも知れぬ声が囁いた。

 あるいは、自分で自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。

 それでも、心のどこかがその解釈に救われている。

 紗世は窓から目を離し、衣桁にかけていた薄手の上衣を手に取った。

 布を肩に通すと、肌と布の間にわずかな空気の層が生まれる。

 足を床に降ろすと、石の冷たさがじかに伝わり、ぼんやりとした思考が少し引き締まった。

(部屋に籠もって震えているだけじゃ、きっと後悔する)

 紗世は迷いのない足取りで扉へと向かう。

 金具に添えた掌は冷えているのに、掌の奥からは微かな熱がじんわりと広がっていた。

 ゆっくりと扉を引くと、夜の回廊に薄い風が流れ込んでくる。

 篝火の灯りが一定間隔で並び、石造りの壁に長い影を落としていた。

 昼間は行き交う人でいっぱいの通路も、今は見張りの兵が数人いるだけだ。

 紗世は一歩、また一歩と足を踏み出した。

 床に触れる足裏の感覚を確かめるように、歩幅は自然と小さくなる。

(せめて、誰かの痛みを少しでも軽くできるなら)

 胸の奥で膨らみ始めた思いが、夜気と混ざり合いながら形を探していた。

 回廊を進むほど、王宮の夜の顔が見えてくる。

 昼間は重々しい扉の向こうに閉ざされていた部屋も、今は半ば開かれ、灯りが漏れている。

 医師団の詰所からは、薬草を煮出す匂いがほんのりと漂ってきて、文官たちの部屋からは紙を繰る音と、かすれた声が聞こえた。

 兵が行き交う通路の角を曲がると、詰所の前に座っている若い衛兵と目が合う。

 彼は慌てて背筋を伸ばし、槍を握り直した。

「紗世殿、夜回りの途中にございますか?」

「いえ……少し、歩きたくなって」

 紗世が正直に答えると、衛兵は息を詰めたように黙り、すぐに表情を引き締めた。

「ご安心を。城の守りは固めてあります。王都に危険が及ぶことはございません」

 それは職務に忠実な言葉だったが、その目の奥に揺れる不安を、紗世は見逃せなかった。

 仲間たちを戦場へ送り出し、自分は城に残る側。

 彼らの胸にもまた、どうしようもない気持ちが渦巻いているはずだ。

「ありがとうございます」

 紗世は頭を下げた。

 それから、ほんの少し言葉を足す。

「寒くなってきましたから……どうか、お身体に気をつけて」

 形式ばった挨拶でしかないかもしれない。

 それでも、衛兵の肩からわずかに力が抜けたのが分かった。

「は。紗世殿も、お身体が冷えませぬよう」

 ぎこちない返答だったが、そのぎこちなさが逆に、彼もまた人間なのだと感じさせた。

 紗世は再び歩き出す。

 足音が石畳の上に小さく刻まれ、そのたび胸の奥の火種が、存在を主張するように熱を帯びた。

(私には、剣も術もない。戦場に出ることもできない)

 それは紛れもない現実だ。

 けれど、その事実をただ『なにもできない』と結びつけることに、今は前ほど抵抗がなかった。

 元の世界で働いていたころ、紗世はよく、落ち込む同僚の傍にいた。

 大きなことは言えない。

 アドバイスと呼べるほど立派な言葉も持っていない。

 ただ隣の席で、いつも通りの仕事をこなし、飲み物を差し出し、話を聞くだけの日々。

 それを「取るに足らないこと」と切り捨てていたのは、自分自身だった。

 しかし今、王宮の夜の空気に身を置きながら思う。

(あれだって、誰かにとっては、灯りのひとつになっていたのかもしれない)

 戦場の真ん中で剣を振るうことだけが〝役に立つ〟ではない。

 帰る場所で、心を落ち着ける時間をつくることも、きっと同じ線の上にある。

 回廊の先には、衛兵たちの詰所がある。

 中から笑い声と、低く押し殺したような話し声が交互に漏れていた。

 不安を紛らわせるための冗談と、どうしてもこぼれてしまう本音。

 扉の前で足を止めた紗世は、しばらくそこに立ち尽くした。

(今すぐなにかをしようとしても、きっと空回りしてしまう)

 自分の力の届き具合を冷静に測ろうとする感覚が、以前よりも少しだけ育っている。

(でも――)

 胸の中の火は、消えようとしなかった。

 弱々しいながらも、さっきより確かに燃えている。

「逃げない。立ち止まらない。私にできることを探す」

 紗世は、誰に聞かせるでもなく、もう一度ゆっくりと言葉にした。

 さっき部屋で口にしたのと同じ文句なのに、不思議と重さが違っている。

 自分の足でここまで歩いてきた分だけ、その誓いが現実のものに近づいた気がした。

 戦が始まった以上、できることには限りがある。

 王宮の外に広がる世界の方が、よほど激しく揺らいでいる。

 それでも、だからこそ、この場所で灯せる火を見失いたくなかった。

 夜空を見上げると、雲の隙間から小さな星が瞬いている。

 昼間には気づきもしなかった光だ。

 胸の奥で灯った火は、まだ頼りない。

 風が吹けば消えてしまいそうな、小さな炎に過ぎない。

 それでも紗世は、その火から目を背けなかった。

 この場所で、どんな形であれ誰かの支えになりたい――

 そう願う気持ちが消えない限り、炎は胸の中に残り続ける。

 この夜に生まれた火が、のちに彼女を大きく動かす導火線になることを、

 紗世自身はまだ知らないまま、静かな回廊をもう一度歩き出した。


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