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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十章・胸の奥の針

 王宮の奥まで、ざわめきが押し寄せてきた。

 朝から続いていた物音が、このところとは違う調子を帯びている。

 廊下の石を踏み鳴らす重い足音、甲冑同士がぶつかる硬い音、短く交わされる号令。

 そのひとつひとつが、紗世の部屋の戸板を通り抜けて胸の内側まで届いた。

 窓辺に立った紗世は、手を窓枠に添えたまま動けなくなっていた。

 薄い布越しに差し込む陽光は、いつもと変わらぬ柔らかさなのに、今日だけはその温度すら落ち着かない。

「紗世様、戦はいつだって予兆もなく始まるものです」

 背後から、穏やかな声音がした。

 水差しを持っていた年配の侍女が、言葉を選ぶように続ける。

「あなたのせいではありません。これは国同士の問題で……長く積もっていた火種が、姿を現しただけでございます」

 慰めのつもりなのだと分かる。

 それでも紗世の意識は、窓の外へ釘付けにされていた。

 布を押し上げるようにして外を覗いた瞬間、視界に太陽色の鎧が飛び込んでくる。

 金を基調とした胸甲が幾重にも並び、肩から背にかけて伸びる鬣が同じ方向へと流れていく。

 槍の柄が規則正しく上下し、土を巻き上げた砂煙が軍列の足元を覆っていた。

 胸の奥が、きゅうっと縮む。

(私が呼ばれたせいで、この世界の針が動いたのではないか)

 誰にも口にしていない考えが、頭の隅で形を成す。

 そう思うまいと否定するほど、胸の痛みが増した。

 この世界に来る前の、自分の人生が蘇る。

 会社の評価、人間関係、家族の事情。

 自分が選びきれない要素が絡み合い、そのたびに「あなたのせいじゃない」と言われてきた。

 けれど、その言葉で安心できた記憶は少ない。

 誰かの都合で動かされるたび、心のどこかに細い針が刺さるような感覚だけが増えていった。

 今も同じだ。

 この戦は、自分とは別の理由で始まったのかもしれない。

 それでも、王の炎が荒れた時、レオンの心が揺らいだ時、その場に自分はいた。

(私がいなければ、少なくとも今とは違う形になっていたのかもしれない)

 そう考えると、足元が頼りなく感じられる。

 窓枠に添えた指先に力がこもった。

 その時、背後から軽い足音が近づいてきた。

 振り向くと、ミレイアが裾を浮かせて小走りに部屋へ入ってくるところだった。

「紗世様」

 呼びかける声には、いつもの穏やかさに加え、どこか急ぎの色が混じっている。

 ミレイアは紗世の傍まで来ると、迷いを残しながらも肩にそっと手を置いた。

「姫様も、ご自身を責めてしまわれることがありました」

 ふと、懐かしむような目元になる。

「王妹殿下は、とてもお優しい方でしたから。なにかが起こるたび、ご自分の選択が間違っていたのではないかと悩まれて……ですが、誰もがひとりで戦っているわけではないのです。陛下にも側近がおられたように、姫様にも、そして今の殿下にも、支える者がいる」

 そう言って、ミレイアは紗世の肩に軽く触れるように撫でた。

 それは責めているのではなく、立っていていいと告げる手付きだった。

 胸の内で固くなっていた部分が、少しだけ緩む。

 それでも、窓の外から届く行軍の音が、紗世を現実に引き戻した。

 兵たちの列は、すでに王宮前広場を離れつつある。

 砂煙の帯が道沿いに伸び、金色の鎧が点となって続いていく。

(『私のせいじゃない』そう言われるたびに……本当にそうなのかと考えてしまう)

 否定も肯定もできない思いが、胸の奥で丸くなった。  

「紗世様、顔が険しくなっていますよ!」

 明るい声が、張り詰めた空気を破るように飛び込んできた。

 振り向く前から、誰の声か分かる。

「戻ってきたら絶対にレオン様を叱りましょうね。私も手伝います!」

 勢いよく部屋へ入ってきたルナが、紗世の正面に回り込んだ。

 腰に手を当て、うんうんと頷く仕草は、いつも通り元気で、少しだけ滑稽でもある。

「ほら、今のままじゃ『心配で眠れませんでした』って顔です。そのようなお顔を見たら、レオン様が余計にこじらせますよ」

「こじらせるって……」

 思わず返した声に、自分でも驚いた。

 泣きそうな声ではなく、苦笑い混じりの響きが含まれている。

 ルナはそれを確認したのか、安堵の色を浮かべた。

「大丈夫です。紗世様の味方は、ここにふたりもいますから」

 そう言って、自分の胸を指で叩く。

 隣ではミレイアが肩を竦めたが、その表情には温かいものが浮かんでいた。

 そこへ、扉を叩く控えめな音が重なる。

 マーリスが入室の許しを得てから姿を見せた。

 手には数通の書簡が束ねられている。

「紗世様」

 丁寧に頭を下げてから、彼は書簡を軽く掲げた。

「今回の件は、以前から積み重なっていた政治の歪みです。国境の小競り合い、諸国との駆け引き、王位継承を巡る思惑……それらが折り重なった末の戦支度。 あなたの存在が戦の引き金になったわけではありません」

 マーリスは言葉を切り、紗世をまっすぐに見つめる。

「原因でも、結果でもない。この国が抱えていた矛盾が形になっただけです。 どうか、そのことを忘れないでください」

 淡々とした口調なのに、そこには揺るぎない意思があった。

 紗世の胸に、静かな救いとして落ちてくる。

 この世界に来てから、何度も「あなたのせいじゃない」と言われた。

 けれど、それが「だから気にするな」という意味に聞こえてしまうことも多かった。

 痛みをなかったことにされるようで、うまく受け取れなかったのだ。

 だが、今、マーリスが告げた言葉は違う。

 紗世の恐れや罪悪感を肯定したうえで、「それでも違う」と言ってくれている。

 自分の感情を切り離すことなく、原因と結果を分けて考えてくれる言葉。

「……ありがとうございます」

 紗世は頭を下げた。

 すぐに答えを出せるわけではない。

 それでも、心の奥で増え続けていた棘の数が、ほんの少し減った気がした。

 とはいえ、完全に安心できるわけでもない。

 胸の中心には、まだ細い針が残っている。

 抜ける気配はなく、触れるとすぐに痛みを訴える程度には鋭い。

(私のせいじゃない……そう思いたいのに)

 窓の外へ目を向ける。

 軍列はすでに王都の外れへ差しかかっているのだろう。

 城から見えるのは、道の先へ伸びていく砂煙の帯だけだ。

 さっきまで広場を満たしていた金属音も、今は微かな余韻として耳に残るばかりになっていた。

「紗世様」

 ミレイアが遠慮がちに呼びかける。

「戦が始まれば、王宮は王宮としての務めを果たさねばなりません。避難の段取り、民への布告、負傷兵を受け入れる準備。あなたも、ここで果たせる役目を持つことになります」

 唐突な事務的な言葉に聞こえたが、そこには意図があった。

 紗世を戦の原因ではなく、この場所の一員に戻そうとしている。

 ルナも頷いた。

「そうです。紗世様がいてくれたら、落ち込んでる人たちの心が楽になります。それだって立派な働きですよ」

(役に立ちたい)

 その言葉に、全身が反応する。

 同時に、役に立つために自分を削ってきた過去も蘇った。

 誰かの期待に応えようとして、自分の感情を押し込め続けた日々。

(今度は――自分を捨てずに、誰かの力になる方法を探したい)

 それができるかどうかは分からない。

 けれど、そう願うことだけは、今の自分にも許される気がした。

 窓の外では、砂煙が空に細く伸びている。

 その先には、炎獅隊の背中と、これから始まる戦が待っているはずだ。

 紗世は胸の奥の針から目をそらさず、その痛みを抱えたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 逃げないために。

 誰かの都合に流されるだけの自分に戻らないために。

 まだ答えの形は見えない。

 それでも、小さく膨らんだ決意が、針の周りに薄い膜を張っていくような感覚だけはあった。


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