第九章・政に押し潰される声
呼び出された部屋は、広さのわりに息が詰まりそうだった。
高い天井からは重厚な布が垂れ、壁には歴代の王たちの紋章が並んでいる。窓は細く、差し込む光も限られていて、外の気配はほとんど届かない。
扉が背後で閉まった瞬間、その空間は逃げ道のない箱のように感じられた。
部屋の奥、重い机の前にレオンがいる。
不必要な随行はひとりもいない。人払いを終えたあとの静寂が、かえって耳を圧してきた。
「話がある」
低く響いた声は、抑えた熱を含んでいた。
胸の内側でなにかが燃えているのに、それを一つひとつ削り落として言葉だけを残したような声音だ。
紗世は数歩進み、机との間に決められた距離を取る。
床に敷かれた赤い絨毯が足裏の感覚を吸い取り、立っているという感覚さえ曖昧になる。
「これは政だ。お前の気持ちは関係ない」
切り出された言葉が、鋭く胸に突き刺さった。
幾度となく聞いてきた言い回し。だが、レオンの口から告げられると、重さがまるで違う。
呼吸が一瞬固まる。
喉の奥で声にならないなにかが動き、それでも外へ出ていかない。
(……まただ)
頭の片隅に、元の世界での場面がいくつも重なっていく。
家族の都合。
「今は我慢してくれ」と告げられた夜。進学も仕事も、最終的な舵は誰かの一言で決まっていった。
会社の事情。
「部署全体の方針だから」と言われ、打診ではなく決定事項として異動を知らされた日。
「あなたならこなせる」と褒め言葉で包装された通達は、断る選択肢が存在しないという宣言でもあった。
誰かが決めた正しい形の中で、自分の願いは「聞くだけ聞いておけばよいもの」として扱われてきた。
その構図と、今ここでレオンが口にしている言葉が、ぴたりと重なる。
胸の奥で、古い痛みと新しい痛みがこすれ合った。
紗世は、喉の強張りを押し広げるようにゆっくり息を吸う。
すぐに感情的な言葉を投げつければ、ここでの立場を失うかもしれない。
それでも、なにも言わなければ、自分の人生がまた誰かの都合で塗り替えられてしまう。
机の縁を見つめ、言葉を選ぶ。
「私の存在は、また誰かの都合で決まるんですね」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
責め立てる調子ではなく、事実を確認するような響き。
レオンの眉が、わずかに動く。
怒りというより、触れられたくない場所を正確に指されたときの反応とよく似ている。
彼自身も、王太子という立場の中で駒として動かされていることを痛いほど理解しているからだ。
「違う。これは――」
すぐに返ってきた言葉は、途中で途切れた。
喉のあたりで引っかかり、その先へ進まない。
「政だから」と続けることは簡単だ。事実でもある。
けれどそれを口にした瞬間、紗世の顔に落ちる影を、自分はもう見過ごせないと本能が告げていた。
(俺だって……好きでこうしているわけではない)
胸の奥底で、気づきたくなかった本音が浮かび上がる。
王の容体、霊脈の乱れ、諸国の動き。
あらゆる要素が絡みあい、レオンの肩に〝選ばなければならない責任〟と〝選びたくない感情〟が複雑に積み重なっていく。
紗世は、震えそうになっている指を握りしめた。
膝がわずかに強張るのを感じながらも、逃げるために目を逸らすことはしない。
真正面から、レオンを見つめる。
逃げてもよかった。
黙って従うこともできた。
それでも、ここでなにも言わなければ、また自分の人生が他人の都合で形を変えられてしまう。
その苦しさを、もう見過ごしたくなかった。
「紗世」
名を呼ぶ声には、王としての威圧ではなく、どこか迷いが滲んでいた。
それでも、次の言葉は政治の言葉として出てくるだろうと紗世は予感していた。
「お前が番候補に挙がっていることは、知っているな?」
「噂では……」
正確には、数日前からいやというほど耳にしている。
侍女たちの密やかな会話。廊下で交わされる重臣たちの名指しではない言い回し。
すべてが、紗世の肩書きだけを本人の意思とは関係なく、先に作り上げていく。
「預言と、龍の加護と、王家の炎。すべてが絡んでいる。これはお前ひとりの問題ではない」
「分かっています。あなたが国のことを考えなきゃいけないのも、王太子としての義務があるのも」
紗世の声は、淡々としていた。
感情を消したのではなく、感情の上に薄い膜を張って、今だけ保っているような声音だった。
「でも、それと私の気持ちが関係ない、とは言わないでほしかった」
その一言に、レオンの肩がわずかに強張る。
紗世は続けるべきか迷った。
この先の言葉は、自分の居場所を狭めるかもしれない。
それでも、ここで黙れば、きっと後悔する。
「元の世界でも、いつもそうでした」
紗世は、自分の胸の奥を見つめるように言葉を続ける。
「家族の都合、会社の事情。『仕方ない』『あなたなら耐えられる』って言葉で、全部決まっていきました。私の意見を聞いてくれるふりをして、最後に出る答えはいつも決まっていたんです」
レオンは口を挟まない。
挟む言葉が見つからなかった。
「ここに来てからは、少し変わったと思っていました」
紗世は一度瞼を伏せ、そしてゆっくりと開く。
「ミレイアさんも、ルナも、マーリスさんも、カリナさんも。私に何かを頼むとき、ちゃんと相談してくれました。王様だって、炎にのまれそうになりながら、私の言葉を聞こうとしてくれていた」
その記憶を指でなぞるように思い出すと、胸の内側に微かなあたたかさが生まれる。
それと同じくらいの速さで、今の言葉がそれを踏みにじろうとする。
「だから、レオン様に『お前の気持ちは関係ない』と言われたとき、ああ、ここでも結局私は駒なんだって感じてしまいました」
部屋の空気が、さらに重く沈む。
レオンは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みがじんじんと広がる。
紗世を傷つけた自覚が、ひどく鮮明にあった。
(政を優先する以上、あの言葉は間違ってはいない。王太子としては、正しい)
そう頭では理解している。
だが、正しさを盾にした一言が、目の前のたったひとりをどれほど傷つけるか。
それを知ってしまった今、先ほどの言い方をそのまま肯定することはできない。
「……俺も同じだ」
「……同じ?」
「ああ。俺も駒だ」
絞り出すように、レオンは言った。
「未来の王であり、現在の王太子であるというだけで、選ばされる道がある。個人の感情をどれだけ脇に寄せても、国のために、血筋のために、と言われれば引き下がるしかない場面がある」
そこで言葉が途切れる。
本当は続けて、「だから理解してくれ」と言いたかった。
しかしそれを口にした瞬間、自分の苦しさを楯に紗世の痛みを軽んじることになると分かっていた。
紗世は小さく首を振る。
「レオン様が苦しいことも分かります」
紗世は本気でそう思っていた。
彼の肩にかかっている責任の重さが、どれほどのものか。
ひとりの時の彼の表情を見たら、胸が締め付けられる。
「でも、だからと言って、私の気持ちが関係ないと扱われるのは違うと思うんです」
紗世は、握っていた両手をゆっくり解き、胸の前で組み直した。
それは逃げ腰ではなく、自分を支えるための仕草だった。
「……私は、モノではありません」
囁きのように弱い一言が、部屋の中心で響く。
その響きは細いのに、鋭く耳に残った。
レオンは咄嗟になにかを言おうとして、唇を結び直した。
反論ではなく、謝罪でもなく、どちらともつかない言葉が喉の奥で渦を巻く。
政に押し潰されかけているのは、自分も同じだ。
だからといって、彼女の痛みが軽くなるわけではないし、その痛みを無視するのも違う。
認めてしまえば、自分が「モノではない人間」をモノのように扱おうとした事実と向き合わなければならない。
それが、今のレオンには恐ろしく感じられた。
紗世は、それ以上言葉を継がなかった。
これ以上踏み込めば、互いに戻れない場所まで傷つけ合ってしまうと、本能的に察していたからだ。
「失礼いたします」
短く頭を下げ、扉の方へ向きかける。
一歩、二歩。
紗世の背中に、レオンの刺さるような沈黙がまとわりつく。
その時だった。
「待て」
レオンの低い声が紗世の足を止めた。
反射的に振り返ろうとした紗世は、それより先に炎の熱を感じた。
その熱に煽られるように、胸の奥で小さくともった衝動が形を成す。




