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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第九章・決まっていく場所の外で

 朝の勤めを終えた侍女たちの声が、長い廊下に流れていた。

 まだ日差しは柔らかく、障子越しの白さが磨き上げられた床板に淡く映っている。

 その穏やかな景色とは裏腹に、角の先から聞こえてくる囁きは、どこか刺のある熱を帯びていた。

「……人間の娘が番候補に入ったらしいわ」

「本当に? 預言の〝異界の番〟って、あの子なの?」

「加護を強めるための駒よ。重臣たちが騒いでるって」

「でも、獅子の王妃が人間だなんて、受け入れられるのかしら?」

「受け入れさせるのよ、上の人たちが。私たちがどう思おうと関係ないわ」

 笑い声に似た音が混じるが、それはどこか乾いていた。

 紗世が角を曲がると、数人の侍女がはっと振り向き、慌てて背筋を伸ばす。

「……失礼いたしました、紗世様」

 ぴたりと揃った礼。

 だがその言葉の端々に、先ほどまでの噂の余韻がまだ残っていることを、紗世は肌で感じ取る。

(……また、私の知らないところで勝手に話が動いている)

 胸の奥にざらりとした感覚が広がる。

 〝番候補〟という聞き慣れない言葉が、まるで自分の輪郭だけを勝手になぞっていくようだった。

 どう返事をすべきか迷っていると、向こうから足音が駆けてきた。

 薄青の衣を揺らしながら近づいてきたのはミレイアだ。柔らかな布が廊下の光を受けて波打ち、彼女の落ち着いた気配が空気を塗り替えていく。

「紗世様、ちょうどお迎えにあがる途中でした」

 ミレイアは侍女たちに穏やかに一礼し、それから紗世へ視線を戻した。

「気に病む必要はありませんよ。噂話なんて、風のようなものです。ひとしきり吹いたら、また違う話題に移っていきますから」

 慰めるというより、事実として淡々と述べる口調だった。

 だからこそ、耳に入ってくる。

 その後ろから、ルナがひょいと顔を出した。

 朱色の紐で結んだ髪が小さく揺れ、いつもの明るさを含んだ声が続く。

「紗世様は紗世様のままでいてくださいね。誰がなにを言っていたとしても、紗世様を守る人はちゃんといますから」

 からかうような笑みではなく、本気の目だった。

 小柄な身体に見合わぬ真剣さが、そのまま言葉の重さになっている。

(その言葉は今の私にとって本当にありがたい)

 胸の表面にすっと一筋の明かりが差し込むような感覚があった。

 それでも、消えないものがある。

(〝番候補〟って、私のことなんだよね)

 自分の意志を誰にも問われていない。

 その一点が、心のどこかを軋ませていた。

 元の世界での記憶が、ひっそりと浮かぶ。

 会社での評価面談。

 「君の適性を考えて部署異動を決めた」と一方的に告げられ、こちらの希望は形式的に聞かれただけだった日。

 家庭の中での役割分担も、いつの間にか自分にとって都合の悪い形で固まっていった。

(……私の気持ちが尊重されたことなんて、あったのだろうか)

 心の中で問いかける。

 思い返せば、誰かの「必要だから」という言葉に頷き続けてきた気がした。

 必要とされること自体は嬉しい。

 その裏で、自分の願いを棚の奥に押し込んできたことには、目を向けないふりをしていた。

 でもこの世界に来て、状況は大きく変わった。

 王族や重臣たちと並び歩き、霊脈の話を聞き、誰かの命を救う場に立ち会った。

 けれど、根の部分は同じだ。

 自分の意志とは別の場所で、人生の舵が勝手に切られていく。

 ミレイアとルナに礼を言い、紗世は与えられた部屋へ向かう廊下を歩き出した。

 数歩進んだところで、ふと足を止める。

 廊下の脇にある大きな窓から、庭が見えた。

 赤に色づいた葉がいくつも重なり、まだ青みを残した草の上に朝の光が落ちている。

 風に揺らいだ枝の影が地面に模様を描き、庭師たちが遠くで手入れをしている姿も小さく見えた。

 本来なら、この景色を見るのが好きだった。

 朝の静けさと、整えられた庭の気配が、自分の心も整えてくれるような気がして。

 けれど今日は、胸のあたりに重さがじわりと沈んでいく。

(ここでも、私は私のままでいられないのだろうか)

 葉の赤さが、どこか落ち着かない色に見えた。

 朱雀祭の夜の炎と、さきほど耳にした〝番〟という言葉が、頭の中で勝手に繋がっていく。

 番選びがどれほど重大な問題なのか。

 宮殿の空気から、紗世は嫌というほど察していた。

 王の容体が悪化し、霊脈もざわついている。

 国の行く末が揺らいでいる中で、王太子の番を誰に定めるかは、単なる婚姻では済まされない。

 王家の象徴であり、龍の加護を呼ぶ鍵であり、諸国への示威にもなる。

 だからこそ、人間である自分が〝扱いやすい駒〟に見えてしまうのかもしれない。

 預言という言葉を理由にすれば、反対する者たちの口を封じやすい。

 異界から来たという一点だけが、都合よく利用されていく。

(役に立てるなら、それでいいのだろう。──いや、本当に?)

 問いと否定が、胸の中で何度もぶつかる。

「紗世様」

 ミレイアは、紗世の表情を探るようなことはしなかった。

 ただ隣まで歩み寄り、同じように窓の外へ目を向ける。

「紗世様は庭の景色がお好きですよね。特に朝の景色が」

「うん。……今日は、ちょっとだけ違って見えるけど」

 紗世が苦笑まじりに溢すと、ミレイアは小さく息を吸った。

「紗世様は、誰より真面目で、誰より思いやりが深い方です。だからこそ心配なんです」

 まっすぐな言葉だった。

 慰めるための飾りではなく、紗世がここに来てからずっと傍で見てきた人だからこそ出てくる実感そのものが滲んでいる。

「役に立てるならと、自分の痛みを後ろへ回してしまわれるのではないかと案じています」

 すっと横からルナが顔を覗かせる。

「そうですよ。紗世様のように役に立ちたいという想いが強い人ほど、自分の痛みを後回しにしてしまいます。私の村にもいました。みんなの世話ばかり焼いて、最後は倒れちゃったおばさんが……」

 ルナの声には、幼い記憶への寂しさが混じっていた。

 その人を助けられなかった悔しさが、今も彼女の中で生きているのだろう。

 紗世は返す言葉を探しながら、自分の胸に問いを向ける。

(……私は役に立ちたいって、確かに思っている)

 この世界に召喚された瞬間から……ううん、元の世界でもずっとそうだった。

 自分がここにいる意味を、どうにか見つけたかった。

 王の炎を鎮めたと聞かされてからは、なおさらだ。

(何もできないままではいたくない)

 その一方で、心の奥では別の声が響いている。

(また、誰かの都合で決まる生き方をするの?)

 元の世界で繰り返してきた構図が、形を変えて、また目の前に現れようとしている。

 会社では上司の判断。家庭では家族の都合。

 ここでは、国と預言と加護の名を借りた意志が、自分の人生を動かそうとしている。

 窓辺にそっと手を置く。

 冷たい石の感触が、いまの自分を確かめる唯一の手がかりになる。

「……私は、きっとまた、『役に立てるなら』って思っちゃう」

 紗世はぽつりと呟いた。

「それで誰かが助かるなら、誰かがが救われるなら、この国のためになれるなら、私ひとりが我慢すればいいって……そう考える癖が、まだ抜けていないんだと思う」

 声に出してみて、あらためて自覚する。

 その考え方は一見、美徳のようにも見える。

 だが、そのたびに自分の軸が削られていくことも、紗世は気づいていた。

「誰かを助けたい自分も、確かにいます」

 紗世は指先に少し力を込める。窓の向こう、赤く染まる庭がぼやけた輪郭で揺らいだ。

「でも、決められた人生から抜け出したい自分もいるんです。自分で選んだって胸を張れる生き方を、どこかで諦めたくないって思っている」

 ミレイアは小さく、だけど力強く頷いた。

「その二つは、きっとどちらも紗世様の本心なのでしょう。どちらか一方を捨てるのではなく、重ね合わせる方法を見つけてほしいと、私は願っています」

 ルナも、ぎゅっと紗世の袖をつまんだ。

「紗世様。たとえ番になったとしても、誰かに決められた番ではなく、自分で選んだ番って思えるようにしたらどうでしょう?私にできることがあれば、なんでもお手伝いいたしますから」

 彼女のまっすぐな言葉に、胸の奥の軋みが少しだけ形を変えた。

 痛みが消えたわけではない。

 けれど、その痛みを抱えたままでも立っていていいと言われたような気がした。

 誰かを助けたい自分もいる。

 自分の人生を自分で決めたい自分もいる。

 噛み合わないと思っていたその二つが、いつか同じ方角を向く日が来るのだろうか。

 答えはまだ見えない。

 それでも紗世は、窓の外の庭をもう一度見つめた。

 決まっていく場所の外側で、自分の足場だけは、自分の手で確かめ続けていたい。

 そう願う気持ちだけが、密やかに胸の底で響き続けていた。


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