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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第九章・ 番を求める声の渦

 朝の宮殿には、夜明けの薄明かりとは釣り合わない重さが漂っていた。

 王の寝所へと続く奥まった回廊には、まだ祭りの飾り布が残っている。朱の布は昨夜の熱を思い出させる色をしているのに、そこを足早に行き来する医師団や侍従たちの顔には、一片の華やぎすらない。

「……陛下の脈が落ちています。薬の効きも弱まっております」

 寝所から出てきた老医師が、肩越しに控える侍従長へ低く告げた。

 長く白い眉を寄せたその顔には、職務ゆえの冷静さと、どうしようもない諦観が同居している。

 言葉を聞いた侍従たちの肩が、順に沈んだ。

 誰も声を上げない。ただ、互いの表情をうかがうことさえ憚られる空気が広がっていく。

「容体の記録をまとめろ。すぐに上階へ」

 侍従長が短く命じると、書記役が慌ただしく筆と紙を抱えた。

 診立てを書状に落とし込み、それがそのまま国の命運を左右する議題へと変わる。王の寝台の光景が、政治の卓上へ運ばれていく瞬間だった。

 ほどなくして開かれた会議室には、重臣たちが勢ぞろいしていた。

 円卓の中央には、王の容体を記した書状が置かれている。

 分厚い木の天板に置かれた一枚の紙へ、沈痛な空気が集まっていた。

「……王太子殿下。王のご容態を……国の行く末を考えれば、番を定めるのが急務でございます」

 重臣のひとりが口火を切る。

 壮年の宰相は、書状から顔を上げながら言葉を継いだ。

「獅子国の炎を保つには、正統な血筋を固めねばならぬ。陛下の御身がこのような折、王太子殿下の番と世継ぎを明らかにしてこそ、諸国への示しがつきましょう」

 ——〝番〟。

 古来より獅子国では、選ばれた伴侶をそう呼ぶ。

 それは単なる夫婦の契りではなく、国を守る炎を共に支える存在として、龍の加護と結びついた名でもある。

 番が定められれば、王家の炎は安定し、霊脈の乱れもなだらかになると信じられてきた。

「王家の血を濁すことなきよう、由緒正しい家から王妃を迎えるべきです」

「いや、獅子国の炎を強めるには、龍の加護を再び高めねばならん。そのための番であろう」

 次々と飛び出す声に、室内の空気は徐々に熱を帯びていく。

 朱雀祭の残り火が、今度は政治の場で違う形の炎となって姿を現していた。

 その中で、オルディスが椅子を引いて立ち上がった。

 褐色の瞳を細め、円卓をぐるりと見渡すと、一歩前へ進み出る。

「……殿下が人間の番を迎えられれば、龍の加護も高まりましょう」

 慎重な口調だったが、その奥にははっきりとした意図が潜んでいる。

 室内にいた何人かが、露骨に顔をしかめた。

「預言にもございました。〝異界の娘が、獅子に灼熱を取り戻す〟と」

 オルディスの言葉に、幾人かの重臣がざわめく。

 古い預言書の一節。これまで半ば伝承として扱われてきた一文が、紗世の出現と王の不調を経て、急速に現実味を帯びてきていた。

「異界の娘、あの人間の女のことか……」

「王の炎を鎮めたと聞く。霊脈の乱れも、あの娘の出現と無関係ではあるまい」

 人間妃待望論を押し出すには、十分すぎる材料だった。

 しかしそれを良しとしない者たちもいる。若い武官たちの一団が、堪えきれぬといった様子で席を蹴って立ち上がった。

「王妃の座に人間など論外だ!」

「獅子の誇りを捨てるおつもりですか?」

「異界の女に跪く国など、敵に嗤われるだけだ!」

 憤りを隠そうともしない声が、重々しい天井にぶつかってはね返る。

 拳を握りしめる者、腰の剣に手をかける者。

 火を尊ぶ民の気性が、会議室という器から溢れ出しそうになっていた。

「静まれ」

 ラガンが低く一喝すると、一瞬だけ室内が固まった。

 武将として数多の戦場をくぐり抜けてきた男の声には、それだけで場を押さえ込む力がある。

「異界の娘の扱いはいずれにせよ、慎重であるべきだ。王の番とするにせよ、そうでないにせよ、拙速は国を誤る」

 ラガンの言葉は、賛成でも反対でもない。

 だからこそ、双方にとって無視できない重さを持っていた。

「しかし、時間は残されておりません」

 宰相が机の上の書状を指先でたたく。

 乾いた音がひとつ響き、その場にいる者たちの意識を再び現実へ引き戻した。

「陛下のご容体は日ごとに弱っておられる。このまま王位継承と番の件を曖昧にしたままでは、国内外に不安が広がるばかりです」

「番が定まれば、諸国も動きやすくなる。獣人諸国との同盟交渉も、王太子殿下の婚姻を前提としたものに切り替えられましょう」

「この混乱の時こそ、王家の炎を示すべきです。揺らがぬ決断こそが、獅子国の強さ」

 番を求める声は、もはや単なる噂話ではなかった。

 王の病という事実を前に、誰もが自らの立場と利益を守るための言葉を選び、殿下に押しつけようとしている。

 その渦中で、レオンはただ黙っていた。

 円卓の上に置かれた書状の文字は、すでに頭に入っている。

 王の脈が弱まり、薬の効きが落ち、霊脈との同調も乱れていること。

 医師団がこれ以上できることは限られていること。

 それでも、誰かに「まだ大丈夫だ」と言ってほしいと望んでいる自分がいる。

 誰の言葉も胸には響かない。

 耳の奥では、王の寝息が細くなっていく音だけが鈍く続いているようだった。

 血筋、国の威信、加護、預言。

 円卓の周りで飛び交う語句はどれも正しい。どれも国を思っていると言える。

 だが、その中にレオンという男の心を気遣う言葉はひとつもない。

(……これは、もう俺ひとりの気持ちで終わらせられる問題ではない)

 胸の内で、密やかに自覚が形を取る。

 紗世に対して抱き始めた感情がどのようなものであれ、今やそれは自分だけの問題ではない。

 たったひとりの人間の娘の存在が、王家と国政の渦に呑まれつつある。

 もし彼女を番として迎えれば、預言を根拠に人間妃を推す者たちは歓喜するだろう。

 獣人の血筋を重んじる派閥は激しく反発し、国が裂けかねない。

 逆に、彼女を遠ざければ、龍の加護を求める者たちが黙っていない。王の容体がさらに悪化したとき、その怒りはかならず自身に向く。

(……どちらを選んでも、誰かが反発する)

 そう理解しているからこそ、レオンは安易な言葉を口にできなかった。

 王太子としての自分と、ひとりの男としての自分。

 ふたつの顔の境界が溶け合い、どこまでが義務でどこからが願いなのか、分からなくなりつつある。

「殿下、早期に婚姻日を定めるべきです」

「番が決まれば、軍も動きやすくなります。王太子殿下の御心を、どうか」

 重臣たちの声が重なり、円卓の上へ焦りが積もっていく。

 すべての視線が自分ひとりへ向けられていることを、レオンは感覚として理解していた。それでも彼は目を閉じた。

 紗世の笑顔と、王の弱った呼吸が交互に胸を刺す。

 昨夜、朱雀祭の灯の下で見た横顔。

 バルコニーで自分の弱さを言い当てた声。

 そして、寝所で細くなっていく父王の息。

 なにを言えば、この場を収められるのか。

 なにを選べば、国と紗世の双方を守れるのか。

 答えは見えない。

 見えるのは、押し寄せる圧力のうねりだけだった。

 円卓の上に落ちた沈黙が、彼の返答を待っている。

 だが、レオンはついに口を開かなかった。

 王太子として発した一言が、この場にいる全員を満足させることなどあり得ないと分かっていたからだ。

 会議はやがて形式的な締めの言葉で終わりを告げ、それぞれが持ち場へと戻っていく。

 しかし、重臣たちの胸には「急ぎ番を定めねばならぬ」という確信だけが濃く残った。

 そして、レオンの心にはひとつの重さだけが残る。

(番を巡る声は、もう止まらないだろう)

 その渦の中心に、自分と、あの異界の娘が立たされていることを、彼は痛いほど理解していた。


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