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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第八章・影に触れた炎

 紗世が部屋の前まで戻ると、廊下の奥からこちらに足音が近づいてきた。

 振り向けば、灯の落とされた石廊を、レオンがひとり歩いてくる。

 朱雀祭の熱気はすでに城門の外へ引いているはずなのに、王宮の空気には尚、赤い夜の名残が薄く滞っていた。

 その中を進む彼の歩幅は、いつものような迷いのない軍人のそれとは違う。ほんのわずかに、重さと躊躇いを含んでいる。

 すれ違うかと思われた瞬間、レオンは紗世のいる辺りで歩みを緩めた。

 呼び止めるでもなく、言葉を投げかけるでもなく、半歩ほど離れた場所で止まる。

 その距離は、王家の者としての威厳と、ひとりの存在として抱える戸惑いのあいだに引かれた線のようだった。

 彼の胸裏には、古い記憶が立ち上がっていた。

 幼いリアナが、朱の灯の下で屈託のない笑みを向けていた日のこと。

 命を削る火を宿しながらも、彼女は最後まで兄に強さを願い続けた。

『強くいてください、兄様』

 それは祈りであり、呪いでもある。

 妹の手がレオンの袖を掴む度、その言葉は彼の胸に刻み込まれていった。

 王族としての務め。炎の民としての宿命。幼い彼は、それ以外の生き方を知らなかった。

 誰かが「強くあれ」と言うたび、自分は強くあるべきだと、一片の疑いも抱かなかった。

 だが──紗世は違う。

 月の白さが石床に細い筋を描く中、先ほどバルコニーで交わした言葉が蘇る。

 彼女の口から出たのは、「強さを求める声」ではなかった。

 炎を称えるでもなく、王としての威を促すでもない。

 焼けただれた内側そのものを、目を逸らさずに見ていた。

『王である前に、あなたはひとりの心を持った者です。弱さだってあっていいんです。弱さを持っていて当たり前です。それを無かったことにするから、苦しいんです』

 その一言が、胸の奥で長いあいだ燃え続けてきた重い炎に、冷たい水を浴びせたわけではない。ただ、火床の一部がふっと息をついたように、圧がわずかに緩んだ気がした。

(……燃え盛るだけが、力ではないのか?)

 そんな問いが初めて生まれる。

 炎は高く高く上がるほど価値があると教えられてきた。

 燃え尽きるまで燃やし続けることが、王としての務めだとも。

 その絶対だった価値観に、細いひびが走る。

 紗世は扉の前に立ち、手をかけかけてから動きを止めた。

 振り向き、レオンに向かって軽く頭を下げる。

「……ごめんなさい。さっきは、踏み込むようなことを言いました」

 その声音には、押しつける力がない。

 正しさを武器にして相手を責める響きも、弱さをなだめすかそうとする甘さもなかった。

 ただ、自分の言葉が相手にどれほど負担をかけたかを測りかねている人間が、それでも無視したくなくて差し出した小さな謝罪だった。

「……いや」

 短い答えだけが返る。

 否定とも肯定ともつかないひと文字の中に、レオンは自分でも扱いきれない揺らぎを感じ取っていた。

 紗世はそれ以上、なにも言わなかった。

 さらに問い詰めることも、慰めの言葉を重ねることもできたはずだ。

 それでも彼女は、踏み込んではならない一線を本能的に察したのだろう。支えようと肩を掴むのではなく、すぐ傍に控えるような場所を空ける、そのような距離感を選んだ。

 その引き方が、炎のような激しい励ましよりもずっと深く胸に触れる。

「私はもう休ませていただきます。あなたもゆっくり休まれてください」

 紗世はそう告げ、扉の取っ手に指をかけた。

 ほんの一瞬、こちらを見上げた目に、余計な詮索も憐れみもないことをレオンは理解する。

 扉が閉まる気配とともに、廊下には再び夜の静寂が戻る。

 レオンはその場に取り残される形で立ち尽くしていた。

 自分に向けられたのは、「もっと強くあれ」と強いる励ましでも、「大変ですね」と距離を保った慰問でもなかった。

 影がそっと隣に寄り添うような、形を持たないあたたかさ。

 炎とは対極にあるはずのものが、いつのまにかすぐ傍に立っていた。

 理解が追いつかないまま、レオンは背を向けて歩き出した。

 規則正しいはずの足音が、今夜に限ってしっくりとこない。長年染みついた「王の歩き方」から、ほんの少しずつ外れているような違和感が膝のあたりにまとわりつく。

 自室の前に立ち、扉を開く。

 そこはいつも通り整えられた王の居室で、無駄な装飾は少ない。

 壁には国の紋章を描いた布、床には厚手の敷物、机の上には未決の文書が積まれている。

 この部屋は、心を乱さぬために平坦に整えられてきたはずだった。

 寝台の端に腰を下ろし、外套を外す。

 肩から滑り落ちていく布の重みだけが、今日一日の疲れを具体的な感覚へ変えていく。

(……この国を守るために、俺はなにを選んできたのだ?)

 自問が胸の内で輪を描く。

 炎を高く掲げること。

 誰よりも先に立ち、誰よりも強くあること。

 それが、この国が求める王の形だと信じて疑わなかった。

 弱さを見せる者に、いつも苛立ちを覚えていた。

 泣き言を溢すなら、その口を閉ざし、前を向いて歩けと叱責してきた。

 支え合わねば立てぬ者たちを、心のどこかで切り捨てていた。

 それなのに——……、

『弱さを持っていて当たり前です。それを無かったことにするから、苦しいんです』

 紗世の言葉が、耳の奥で蘇る。

 あの時は反射的に否定したかった。

 王は弱さを見せてはならない、と。

 だが同時に、どこかで「それも悪くない」と思っていた自分がいる。

 自分ひとりが犠牲になれば、この国は保たれるという歪んだ安堵が、長い年月の中で根を張っていたからだ。

 寝台に身を倒し、天井を仰ぐ。

 瞼を閉じても、すぐに闇は訪れない。

 朱雀祭の赤と、紗世の横顔が交互に浮かび上がる。

 炎の王にとって最も遠いはずの「影の優しさ」が、いつの間にか心の隙間へ染み込んでいる。

 弱さを抱えた自分を赦す者が現れるなど、考えたこともなかった。そんなものは甘えであり、この国を裏切る考えだと信じてきた。

(俺は……弱さを赦されていいのか?)

 問う相手もいない問いが、胸の奥で反響する。

 答えは持っていない。

 それでも、もう二度と「自分には弱さなどない」と言い切ることもできない。

 紗世の言葉に、自分がどれほど揺さぶられたのかを、レオンはまだ認めきれていなかった。

 それ認めてしまった瞬間、長年積み上げてきた強さの像が崩れる気がしたからだ。

 だからこそ彼は目を閉じたまま、息を吐くことしかできなかった。

 やがて、意識の輪郭が徐々に解けていく。

 眠りに落ちる直前、脳裏に浮かんだのは、朱の灯の下で笑っていたリアナと、同じ色の夜を見上げていた紗世の横顔だった。

 どちらも、炎に焼かれるべき存在ではない。

 その当たり前すぎる真実に、今さらのように思い至りながら、レオンの意識は深い闇の底へ沈んでいく。

 翌日、自分を待ち受ける政治の圧力と衝突が、これまでとは違う意味を持って迫ってくることも知らぬまま――。


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