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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第八章・夜を分け合う声

 朱雀祭の熱が頂点を過ぎ、城下の喧噪が少しずつ薄れていったころだった。

 紗世は与えられた部屋の扉を開け、灯を落とした廊下を抜ける。

 行き先は、王宮の外廊に面した小さなバルコニーだ。昼間にマーリスから「月を見るにはいい場所ですよ」と教えられた一角を、無意識のうちに思い出していた。

 扉を押し開けると、夜の空気が肩口に触れる。

 熱気をはらんだ風が抜けていったあとの名残のようなぬるさで、それでも部屋の中よりは呼吸がしやすい。欄干の向こうには王都の灯が点々と続き、祭りの終わりを惜しむように赤い明かりが街のあちこちでまたたいていた。

(さっきまで、あんなに騒がしかったのに)

 耳に届く太鼓の音はかなり遠のき、今は時おり歓声が薄く浮かぶ程度だ。

 それでも、胸の内は静まってくれない。朱の渦に包まれた興奮と、そこに自分が紛れ込んでしまった戸惑いが、行き場を失って揺れ続けている。

 欄干に両手を置き、紗世は夜気を吸い込んだ。

 赤く染め上げられた通り、火の舞、仮面、笑い声。さっきまで見ていた景色が、色の濃い残像となって瞼の裏にまとわりつく。

(楽しかった。でもちょっとだけ怖くもあった。──なんだろう、この感じ)

 嬉しいだけではない。寂しいだけでもない。

 胸の奥がじんじんと痺れるような感覚に、言葉が追いつかない。

 ふと、背後で衣の擦れる音がした。

 振り返ると、バルコニーへ続く扉の傍にレオンが立っていた。

 声をかけるでもなく、横まで来るでもない。

 紗世と欄干のあいだに一定の距離を残したまま、彼は歩みを止めた。近すぎず、遠すぎもしないその位置は、いつもの彼らしい計算の結果なのだろうと感じさせる。

 沈黙が夜風と混じり合い、短い時間が引き延ばされた。

 祭りのざわめきが遠い水音のように続く中、二人だけが別の層に立っているような気がする。

 先に口を開いたのは、紗世だった。

「……あなたは、いつも苦しそうですね」

 自分でも驚くほど、はっきりとした言葉だった。

 何度か飲み込んできた思いが、祭りの熱に背中を押されて口から溢れ落ちたせいかもしれない。

 レオンの眉が、かすかに動く。

 咎める色を含んだ声が返ってくると覚悟したのに、彼はすぐには口を開かなかった。

「王が弱さを見せれば、この国は焼ける」

 やがて絞り出された声は、乾いた石に触れる水のように硬く響いた。

「炎は揺らぎを許さない。民は王に揺らがぬ強さを求める。俺は、それに応えるだけだ」

 その言葉は、レオンが何度も自分に言い聞かせてきた誓いなのだろう。

 紗世には、彼の声の奥に長い年月の重みが感じ取れた。王族として生まれ、獅子国の炎を背負い続けてきた者だけが持つ硬さだ。

 紗世は再び欄干へ目を戻した。

 街の灯が赤く瞬く。その下では、きっと誰かが笑い、誰かが肩を寄せ合いながら帰路についている。

 胸の中で、別の景色が浮かんだ。

 夜遅くまで残業をして、真っ暗なオフィスから出たときに見た、ビル群の窓灯り。

 疲れているくせに「大丈夫です」と笑い、家に帰ると今度は家族の前で弱さをしまい込む顔。

 泣けない人。支えてもらえない人。

 強さを演じ続けて、ある日突然壊れてしまった誰か。

(あのとき、ちゃんと止められていたら)

 悔しさと後悔は、時間がどれだけ経っても消えない。

 紗世は欄干に置いた指先に少し力を込め、自分の世界で見てきた光景と、今目の前にいる王子の姿を重ねた。

「……泣きたいときに泣けないのは、強さじゃないと思います」

 夜気の中に、ゆっくりと言葉を放つ。

 吐き出した瞬間、自分の胸の方が先に痛んだ。かつての自分にも向けている言葉だからだ。

 それでも、一度外に出たものは戻らない。

 レオンの喉がひくりと動いた。

 反論がすぐに返ってくると思っていたのに、その口はしばらく開かない。

 王族は泣かない。

 弱さを見せない。それがこの国の常識であり、レオンによって示され続けてきた形だった。

 紗世の言葉は、それを根元から揺さぶる。

「王族は……」

 言いかけた声音が、途中で途切れる。

 続きの言葉が形にならず、沈黙がそのまま落ちた。

 紗世は、横顔を見た。

 炎を宿す王のはずなのに、今そこにいるのはただ、なにかを抱えきれなくなった者の輪郭だった。

 儀式の場で見た、あの強烈な炎。

 霊脈が軋むほどの力を一身に引き受け、それでも誰にも助けを求めようとしなかった背中。

 あのときも、今も、レオンは一人で立っている。

「弱さを否定し続けるのは、自分を壊す生き方です」

 紗世は自分の胸に手を当てた。

 心臓の辺りがじんと熱い。そこには、自分自身の過去への悔しさも含まれている。

「あなたの苦しさは、あなたが弱いからじゃない。……誰にも支えてもらえなかったからだと思う」

 それは、かつての同僚と、自分と、目の前の王に向けた言葉だった。

 誰にも頼れないと思い込んだまま歩き続けた人が、ある日突然倒れる瞬間を、紗世は知っている。

 夜風が二人のあいだを渡り、祭りの残り香を運ぶ。

 遠くのほうで、まだ誰かが歌っているのだろう。朱の夜はゆっくりと終わりへ向かいながら、最後の熱を振り絞っている。

 レオンは拳を固く握りしめたまま、街の灯を見下ろした。

 怒りや拒絶とは違うものが胸に生まれているのを、彼自身も抑えきれないようだった。

「王は、支えられる側ではない」

 ようやく絞り出された言葉は、長く染み付いた常識そのものだった。

「俺が揺らげば、国も揺らぐ。民を不安にさせるくらいなら、自分ひとりが焼ければいい」

 それはレオンにとって、譲れない覚悟だったのだろう。

 だが、その覚悟がどれほど過酷なものか、紗世には痛いほど伝わってくる。

「ひとりで燃え尽きるつもりですか?」

 思わず、問いが重なった。

 レオンの肩がわずかに強張る。

「あなたが焼ければ、残された人たちも焼けます。……あなたが自分を壊せば、この国だって壊れる」

 紗世は息を整え、言葉を選ぶ。

 感情だけでぶつかれば、きっと彼は拒む。だからこそ、少しだけ冷静さを混ぜた。

「王だから、弱さを見せてはいけないのだとしたら。せめてひとりくらい、『弱いところを見せてもいい』と思える相手がいてもいいはずです」

 それが、自分でなくても構わない。

 ただ、この世界のどこかでレオンを受け止めてくれる誰かが、いてほしいと願った。

「俺には、そのような……」

 レオンは言葉を探すように口を閉ざす。

 幼いころから、〝支えられる〟ことよりも〝支える〟ことばかりを教えられてきたのだろう。肩にのしかかる責務の重さが、今もなお彼を縛っている。

 紗世はそっと欄干から手を離し、少しだけ距離を詰めた。

 並び立っても触れ合わないほどの間合いは、そのまま保つ。

「私が言っていいことなのかは、分からないけど」

 夜に溶けないように、一つひとつ確かめながら言葉を継ぐ。

「王である前に、あなたはひとりの心を持った者です。弱さだって、あっていいんです。弱さを持っていて当たり前です。それを無かったことにするから、苦しいんです」

 レオンの肩が、わずかに落ちる。

 それが同意なのか、疲弊なのかは分からない。だが、ほんの少しだけ、張り詰めた空気が緩んだ。

 強さだけを価値としてきた王の内側に、細いひびのような揺らぎが刻まれていく。

 それは崩壊への前触れではなく、誰かと夜を分け合うための入口なのかもしれない。

 祭りの音がほとんど消えたころ、バルコニーには風の音だけが残った。

 この夜、初めてレオンは、弱さという言葉を真正面から受け取った。

 炎の王と異邦の娘は、それぞれ胸に違う痛みを抱えながら、同じ夜気を分け合って立ち尽くしていた。


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