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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第八章・上階に届く朱の呼び声

 朱雀祭の夜、王宮上階の回廊は、下界の熱から切り離されたように静まり返っていた。

 高い位置にあるその回廊は、王族とごく限られた者だけが通る場所だ。

 磨き上げられた白い石床に、柱の影が規則正しく伸びている。

 頭上には屋根が続き、夜風はほとんど入り込まない。

 それでも欄干の向こうから吹き上がる空気には、火と人の熱が混ざっていた。

 レオンはひとり、欄干の前に立っていた。

 儀式を控え、胸の内を整えるつもりでここへ来たはずだったが、耳に届く祭りの音が、それを許してはくれない。

 夜の帳が降りるにつれ、王都全体が赤い灯に包まれていく。

 街の大通りから枝分かれした通りには、朱の灯籠が絶え間なく連なっていた。

 揺れる灯籠の列は長い川となって街を流れ、その合間を縫うように人の波がうごめく。

 太鼓の響きが層を成し、笛の鋭い音がその隙間を縫って駆け上がってくる。

 朱雀祭の夜は、獅子国でもっとも華やぐ。

 赤を興す火の民らしく、街は一夜だけ炎そのものの姿をまとう。

 各家が門前に灯を掲げ、通りの露店は火を絶やさない。

 火は災いを呼ぶものではなく、立ち上がる力の象徴として、子どもから老いた者までを引き寄せる。

 レオンは欄干に片手を置き、指先に石の冷たさを感じながら、祭りの中心へと視線を送った。

 その瞬間、群衆の中に紗世の姿を見つけた。

 王城から見下ろせば、人の群れは色と動きの塊にしか見えないはずだった。

 だが、なぜか彼女の輪郭だけがくっきりと浮かぶ。

 ──目を見張りながらも、笑おうとしている。

 そのような表情だった。

 ルナに手を引かれ、屋台の赤い明かりに照らされている。

 耳元には祭りの飾りが揺れ、淡い衣の裾が人波に揉まれながらも、その肩のあたりには不思議と落ち着きが宿っていた。

 言葉を交わしているらしく、頬に自然な色が宿っているのがここからでもわかる。

 胸の奥が、不意に軋んだ。

 朱雀祭の夜に、あの光景を見下ろしたのは一度ではない。

 幼い日から、レオンにとってこの高みは、喧噪を客観的に眺めるための場所であり、王族として自分を律するための舞台でもあった。

『兄様、見てください!』

 耳の奥で、幼い声が蘇る。

 記憶の中のリアナが、薄暗い回廊を駆けていく。小さな足が石床を叩き、赤い布の裾が弾んだ。彼女は欄干へ身を乗り出し、街の灯を指さして振り返る。

『街が火の川みたいです。あそこまで降りて、一緒に踊りたいですね』

 リアナはそう言って、祭りの音に合わせてその場でくるりと回った。

 細い手が空を切り、編み込んだ髪に飾られた朱の紐が舞う。振り返りながら笑うその瞳は、どんな灯火より強い輝きを帯びていた。

 レオンは、幼い妹の手首を掴んで引き寄せる。

『上から見るだけで我慢しろ。お前は王族だ。あの群れに紛れてはならん』

『分かっています。でも、こうしてここから見ているだけでも嬉しいです』

 そう言って、リアナは彼の腕の中で大人しくなった。

 それでも、その視線だけは街へ向けたまま、頬を紅潮させていた。

 あの夜も、朱の灯が満ちていた。

 リアナは生きていて、未来を語り、祭りの終わりを惜しんでいた。

 今、同じ高さから同じ街を見下ろしながら、レオンの喉が固くなる。

 胸の内に、あの頃と同じ景色が重なりかけるのを、どうしても止められなかった。

 もう失われたはずの光。

 誰より大切だった妹の面影は、決して戻らない。

 火の祝福と呪いを同時に受けた存在として生まれ、火のようにあっけなく散っていった。あの日以来、レオンにとって朱雀祭の夜は、祝祭であると同時に、喪失を思い知らされる日に変わっている。

 それでも、街は今年も変わらず赤に染まる。

 人々は、炎の舞台の下で笑い、飲み、歌い、来年の豊穣を願う。王族の一員として、その光景を見下ろしてきたレオンの役目は、揺るぎない秩序としてそこにあった。

 だが今、その秩序を乱す存在が、朱の海の中に立っている。

(紗世は炎の民ではない)

 この国の礼も規律も歴史も、まだ完全には身につけていない。地位も血筋も持たず、ただ異界から迷い込んだだけの人間に過ぎない。

 それなのに、朱の灯の下で笑う横顔が、遠い日の記憶と同じ質量で胸を揺らす。

 屋台の飾り布が風に鳴り、火の粉がわずかに舞い上がる。その中央で、紗世はルナと並んで立ち止まり、顔を上げて夜空を仰いでいた。赤く染め上げられた街を見上げるその表情は、かつて回廊でリアナが見せたものに、あまりにもよく似ている。

(……どうして、同じ色を帯びるのだ)

 問いが心の内で渦を巻く。

 喪った光に触れたくなる衝動と、二度と失いたくないという拒みが、互いに譲らずぶつかり合う。自分でも扱いきれない感情に、レオンは眉間を押さえたくなる衝動を抑えた。

 欄干を握る手に、自然と力がこもる。

 石の冷たさを通して、自分を現実へ引き戻そうとするように。

(あれは妹ではない)

 重ねてしまうのは、弱さだ。そう言い聞かせるほどに、記憶と現実の輪郭が曖昧になっていく。

 歓声が高まり、火の舞の太鼓が一段と激しさを増した。

 紗世が驚いたように顔を上げ、その隣でルナがなにかを指さす。赤い灯籠の光が彼女の髪に差し込み、薄く波打つ影が肩のあたりに落ちる。

(……また、手の届かない場所にあるのか)

 胸の底へ沈んでいく感情は、痛みに近い。

 過去には、妹を守り切れなかった無力さが残っている。

 今は、この異邦の娘をどこまで守るべきか、距離をどう定めるべきか、さえも定まっていない。

 守りたいのか、遠ざけたいのか。

 自分でも判じかねる思いが、朱雀祭の音にかき乱されていく。

 王の近くに置かれた要石として。

 霊脈の乱れを鎮める可能性を持つ存在として。

 本来ならば、レオンは紗世を冷静に評価し、必要な保護だけを施せばいいはずだった。そうすることが、この国の将としての役目であり、王族としての義務でもある。

 だが今、この上階に届く朱の喧噪は、理性の上を簡単に踏み越えてくる。

 太鼓の一打ごとに、胸の奥で眠らせていた記憶が揺すぶられ、紗世の笑みがそこに紛れ込む。

(あの者は、リアナではない)

 もう一度、頭の中で言葉を重ねる。

 そのたびに、紗世の笑顔が現実へと引き戻される。そこには、妹にはなかった弱さと、不器用さと、それでも前を向こうとする意志が見えた。

 祭りの音が夜空に広がる中、レオンは欄干から手を離さずにいた。

 炎の海の中に立つ紗世を、目を逸らすこともできず、手を伸ばすこともできないままに。

 朱の灯が満ちる道からあがる笑い声と太鼓の響きが、上階に届く呼び声となって胸を叩く。

 レオンはただ、その呼び声に抗うことも応じることもできず、夜の回廊に立ち尽くしていた。


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