第八章・ 朱の灯が満ちる道
夕日が沈みきる頃、王都の通りに赤い灯がぽつりぽつりと灯りはじめた。
日中は白い石畳が目立つだけだった道が、今はすっかり別の顔を見せている。
頭上には朱の布が綱のように張り渡され、そのあいだから吊られた紙灯籠が一つひとつ焔の形を象っていた。
薄闇に浮かぶ赤は、街並み全体を染め上げ、建物の影までも艶を含んだ色へと変えていく。
「……わあ!」
思わずこぼれた紗世の声に、隣を歩くルナが胸を張る。
獣の耳飾りを揺らしながら、得意げな笑顔を向けてきた。
「美しいでしょ? 獅子国でいちばんきれいな夜なんですよ」
「ほんとだね……。こんな美しい光景は初めて見る」
言葉が追いつかないほどの景色だった。
城から続く大通りにはすでに多くの人が溢れ、朱色の衣をまとった者たちが行き交っている。
肩と肩が触れ合う距離なのに、誰も苛立っていない。
祭りの熱が、それぞれの表情に同じ高揚を浮かべさせていた。
祭りの中心へ近づくほど、足元から伝わる振動が強まる。
一定の拍を刻む太鼓の連打に、鋭い笛の音が重なり、掛け声が波のように押し寄せた。
胸板の内側が震えるほどの迫力に、紗世は歩幅を整え直す。
通りには焼いた肉の匂いが満ち、脂が弾ける音がそこかしこから聞こえてきた。
香辛料の刺激が鼻先をかすめ、思わず喉が鳴る。
蜜を煮詰めた菓子の甘い匂いも混じり、空気そのものが豪勢な食卓のように感じられた。
「……お祭りって、こんなに五感が忙しかったっけ?」
思わず立ち止まり、胸に手を当てる。
目に入るもの、耳に届く音、鼻をくすぐる匂い。
すべてが濃くて、身体ごとこの夜に飲み込まれていくような感覚があった。
少し後ろを歩いていたミレイアが、紗世の横に並ぶ。
「朱雀祭は、生命の再生を祝う日ですから」
柔らかな声が、喧噪の中でも不思議と耳に届いた。
「火と歌と香りで、街そのものが息づくんですよ。寒さに縮こまったものを燃やし、新しい季節を迎えるための願いでもあります」
そう言って、ミレイアは赤い灯籠の列を見上げる。
その目には、懐かしさと誇りが同時に宿っていた。
リアナ姫と共に何度も見上げた光景なのかもしれない。そう思うと、この祭りが持つ重みが少しだけ伝わってくる。
通りの両脇には露店がずらりと並び、店主たちの声が絶え間なく飛び交っていた。
鮮やかな獣の仮面。
朱と金の飾り布。
耳や尾に付ける小さな装飾品。
どれも赤を基調とした力強い色で、見慣れない文様が否応なく目を奪う。
「あの仮面、かっこいい……」
思わず指を伸ばした先には、獅子を象った仮面があった。
隆々とした鬣、鋭い目。なのに、どこかユーモラスな表情もある。その横には、狼や鷹、狐を模したものも並んでいた。
「朱雀祭の夜に仮面をかぶると、守護獣が一年守ってくれると伝えられているんです」
ミレイアが補足すると、ルナがくるりと振り向く。
「紗世様もひとつつけてみませんか? きっと似合いますよ」
「そんな……本当に似合うかな。でも、ちょっと気になるかも」
自分の顔を覆う仮面に、これまで興味を持ったことはない。
人混みを避け、目立たないように生きてきた日々を思えば、むしろ真逆の行為だ。
それでも今は、この場所の高揚に引き込まれ、試してみたくなる。
胸の奥が、わずかに高なった。
人の波に押されて歩くのも、誰かと肩を並べて笑い合うのも、いつ以来だっただろう。
会社帰りに駅前のイベントを避けていた日々を思い出し、今の自分との違いに、紗世は密かに驚いた。
「紗世様、こちらへ!」
ルナが唐突に手を引いた。
細い指先が紗世の手をぎゅっと掴み、人波の隙間を縫うように進んでいく。
「あっちの舞台で火の舞が始まるようですよ」
導かれるまま歩いていくと、通りの一角が大きく開けた場所へ出た。
中央には円形の舞台が設けられ、その周囲を幾重もの灯籠が取り囲んでいる。
観客たちは円の外側にぎっしりと集まり、期待を含んだざわめきが広がっていた。
「見えますか?」
「うん、大丈夫」
紗世はルナの背中越しに舞台を見つめた。
ほどなくして、朱の衣をまとった踊り手たちが現れる。
腰には炎を模した飾り布、手には油を含ませた棒。
その先端に火が移されると、夜気の中で炎が一斉に立ち上がった。
火柱が弧を描き、そのたびに観客の歓声が上がる。
炎が風を切る音が耳に届き、紗世の頬には熱が流れ込んだ。
踊り手たちは獣のようにしなやかな動きで舞台を駆け、火は彼らの周りを離れず追いかける。
「……すごいっ」
思わずこぼれた声は、太鼓と笛の音に紛れそうになりながらも、確かな実感を伴っていた。
火は人を焼くものでも、ただ怖れるものでもない。
祈りと共に扱われれば、こうも美しく人の心を攫っていくのかと、紗世は不思議な感覚に包まれる。
見知らぬ文化なのに、胸の奥には懐かしさにも似た親しみが広がっていく。
焚き火を囲んだ記憶があるわけでもないのに、赤い光に照らされた人々の顔が、なぜか『生きている』と強く主張してくる。
「……こんなに賑やかな場所は、久しぶり」
紗世の口から、素直な感想が零れた。
誰に向けたわけでもない言葉だったが、それを聞いたルナが驚いたように振り返る。
「そうなのですね。紗世様、今日は表情がとても柔らかいですよ」
「え?」
自覚がなくて、紗世は瞬きをした。
頬に触れてみると、確かに強張ってはいない。眉間に寄りがちな皺も、今は感じない。
「いつもより楽しそうです。……いいえ、安心している表情なのかもしれません」
ルナは少し考えてから、そのような言葉を選んだ。
紗世は照れくさくなって、視線を舞台へと戻す。
「そう見える?」
「ええ、見えますよ。私は、とても嬉しいです」
短い一言に、紗世の胸が少し熱を帯びた。
誰かが自分の表情を見て『嬉しい』と言ってくれることが、これほど胸に響くとは思っていなかった。
街の灯籠が風に揺れるたび、朱の灯が紗世の髪を染めていく。
黒髪の一房一房が赤を含み、肩口に落ちる影を柔らかく変えていた。
(……私は今、この世界の中にいるんだ)
ぼんやりと、自分の輪郭を内側から見つめる。
元の世界では、人混みの中を歩いても、どこか透明な存在のように感じることが多かった。
必要とされる場所はあっても、それが自分自身への肯定にはなっていなかった。
今、朱雀祭の喧噪の中で、紗世は自分がこの場の一部として息をしているのを感じる。
ルナが隣で笑い、ミレイアが少し離れた場所から見守っている。
その配置が、紗世に『ここにいていい』と告げていた。
自身の存在を押し隠すように歩いていた日々からは、想像もつかない感覚だった。
人に見られることを避けてきたはずなのに、今は朱の灯に照らされる自分が、ほんの少し誇らしく感じられる。
祭りの喧噪の中で、紗世は自分がこの場所に溶け込んでいることを、確かに感じ始めていた。
赤い灯が満ちる道のまんなかで、新しい〝生〟の輪郭が、緩やかに形を帯びていく。




