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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第七章・灯りのある部屋

 夜の帳が城を包み、外回廊に残る灯火だけが、道筋を示すように並んでいた。

 ひとつの講義を終え、複数の人と出会い、それぞれの言葉を胸に抱えたまま、紗世は与えられた部屋に戻ってきた。

 扉を閉めると、内側の静けさが全身に触れる。

 壁に掛けられた小さな灯が仄かに揺れ、その薄明かりが部屋の輪郭をやんわりと浮かび上がらせていた。

 衣の裾を整えながら窓辺へ歩き、紗世は腰を下ろした。

 夜風は閉ざされているのに、ほんのわずかに外の空気が伝わってくる気がする。

 窓の向こうには庭が広がり、そのあちこちに置かれた灯籠が、等間隔にともっていた。炎が揺らぐたび、石畳や植え込みに柔らかな影が落ち、城の一部だけが淡く浮かび上がる。

(今日も……いろんなことがあったな)

 胸の奥へ沈んでいた思いが、灯籠の明かりのようにひとつずつ浮かび上がる。

 まず思い出したのは、ミレイアだった。

 池の縁で語られたリアナ姫の幼い日々。優雅でありながら、決して強さだけでは形づくれない芯。

『弱さがあっても、人の心を動かすことができる』

 その言葉は、紗世の心の奥に入り込み、重ねてきた自己否定の壁を少しずつ薄くしていった。

 続いて浮かぶのは、ルナの笑顔。

 高台で見た夕陽、弾むように語られた朱雀祭の話。紗世が笑えば、嬉しそうに笑い返してくれるあの素直さに、胸の奥が少し温かくなった。

 この世界に来てから、誰かに笑っていると気づかれたのは初めてのことだった。

 マーリスとカリナの姿も脳裏に浮かぶ。

 礼の角度を丁寧に教えてくれたマーリス。

 公式行事の立ち位置を図面で示してくれたカリナ。

 そのどちらも、紗世を守ろうとする意思の結晶だった。

 もとの世界では、誰かが「あなたの立場を守ります」と言ってくれることが、こんなにも安心に繋がるとは思っていなかった。

 そして──ラガン。

 警備の配置を変え、紗世を中心に守りの輪をつくった武人。

 紗世自身の意思とは関係なく、〝王を守るための要石〟として扱われる現実は、戸惑いを呼んだ。それでも、彼の瞳の奥にあったのは利害だけではない。

『この国が乱れぬようにするために、守らねばならない存在だ』

 その判断は、鋼のように揺らぎがなかった。

(……ここにいても、いいのかもしれない)

 ぽつりと胸の中に落ちた言葉は、思考の渦ではなく、静かな余白から生まれた。

 この世界に来たばかりの頃は、すべてが恐れに結びついていた。

 礼儀も言葉もわからず、王の炎に巻き込まれ、自分が何者として扱われるのかもわからなかった。

 誰に頼ればいいのかさえ分からなかった。

 それが今は、少し違う。

 ミレイアの語り。

 ルナの笑顔。

 マーリスの助言。

 カリナの補佐。

 ラガンの判断。

 誰ひとりとして、紗世のすべてを理解しているわけではない。

 それでも、彼らはそれぞれの立場から紗世を支えようとしていた。

 その事実だけが、胸の奥でひとつ息を整えていく。

 窓の外の灯火が、今夜はいつもより少し明るく見えた。

 部屋の中には、灯ひとつぶんの明るさが満ちている。

 それは目を凝らさなければ消えてしまいそうな、か弱い光だが、紗世には十分だった。

 膝の上で手のひらを合わせるように重ね、掌の温度を確かめる。

 今日を振り返る時間を持てるだけで、この部屋が自分の場所に近づいた気がした。

(──強さだけが価値じゃない)

 ミレイアの言葉が、胸の奥で反響する。

 昼間、湖面に映った夕陽が静かに染みていくように、紗世のなかでその言葉が深まっていった。

 前の世界では、強いふりが必要な場面が多かった。

 仕事で間違えれば責任を負い、家庭では誰かのために感情を押し殺した。弱さを見せれば負担になると、思い込んでいた。

 だけど、この国で出会った人たちは違う顔を見せてくれた。

 弱さを抱えたままでもいいと語るミレイア。

 笑うだけで誰かの心を緩ませるルナ。

 迷ったときは相談してほしいと告げたマーリス。

 紗世の理解を信じてくれたカリナ。

 役目のためとはいえ、紗世を守る布陣を敷いたラガン。

 それぞれが紗世に与えてくれた言葉や行動が、薄い層になって積み重なっていく。

 その層はまだ脆く、不安に触れれば簡単にひびが入るかもしれない。

 しかし、確かに紗世の心を支える形になりつつあった。

 ふと、窓辺の外をひと筋の風が横切った。

 灯籠の灯がわずかに揺らぎ、庭木の影が伸びたり縮んだりして白い壁に映る。

(私、少しは……変われているのかな)

 問いかけに、誰が答えるわけでもない。

 それでも、紗世は自分の胸にそっと触れた。心臓の辺りが、微かな熱を帯びている。

 この熱は、恐れでも、羞恥でもない。

 誰かに支えられ、誰かの言葉を受け止め、自分でも気づかぬうちに芽生えた感情の名残だ。

 部屋の中央には、柔らかな布で覆われた寝台がある。

 その向かいには、机と椅子。墨壺と筆が揃えられ、今日ミレイアから教わった礼儀の図が帳面に挟まれている。

 前の世界では、帰宅すれば疲れが押し寄せ、身体を横たえるだけの夜も多かった。

 だが今は、少し異なる。

 机に向かえば覚えておきたいことがあり、窓へ歩けば景色がある。

 自分がどこへ向かうのかまだ分からないけれど、進む道が初めて無ではないと感じられる。

 寝台の端に腰を下ろし、布を握る。

 指先を通じて伝わる柔らかさが、今日という日の余韻をそっと包み込む。

(ここにいてもいい──そう思える日が来るなんて)

 その感情は、涙になるほど強くはない。

 けれど、胸の奥にふんわりと浮かぶ灯のように、静かに紗世を照らしていた。

 部屋の灯りが、壁に落ちる影をやわらかく揺らす。

 その明かりは、紗世がこの世界で初めて安らぎと名づけられた時間だった。

 明日になれば、また新しい課題が待っている。

 それでも今は、灯りのある部屋でひとり、今日という一日を胸に抱くこの瞬間が、紗世にとってかけがえのない休息となっていた。


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