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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第七章・守りの形

 朝の講義室は、夜の気配をすっかり手放していた。

 整然と並んだ文机の上には、新しい帳面と筆が一式ずつ置かれ、紙の白さに窓からの柔らかな光が宿っている。

 墨の香りが仄かに漂い、まだ誰も手をつけていない頁には、今日これから紗世が覚えるべき事柄が待っていた。

 指定された席に腰を下ろすと、膝の上で指が固くまとまる。

 この世界に来てから、覚えることは増える一方だった。

 文字も言葉も、礼も、立ち居振る舞いも。

 ついていけているのか自信はなく、それでも遅れたくない気持ちだけが紗世を机の前に座らせている。

 戸口のほうから、布を擦る音がした。

 顔を上げると、マーリスが凜とした足取りでこちらへ歩いてくる。

 淡い色の侍従服に身を包み、胸元には侍従長の紋章が控えめに光っていた。

「今日からは、王宮での立ち居振る舞いを本格的にお教えします」

 机の端に手を添え、マーリスは穏やかな口調で続ける。

「あなたが余計な敵意を集めぬように。……そして、安心して過ごせるように」

 事務的な説明だけで済ませることもできたはずなのに、その言葉には紗世の心を案じる気遣いが含まれていた。

 紗世は姿勢を正し、膝に置いた手に力を込める。

「よろしくお願いします」

「それでは、まず挨拶の順番からです」

 マーリスは帳面を一枚めくり、細い筆で図を描いていく。

 王、王妃、王族、重臣、武官。名前の横には、それぞれに対する礼の角度が記されていく。

「礼を示す角度や、言葉の選び方は、あなたの立場を表す重要な要素です。相手の位より深く頭を下げすぎれば、あなたがその下についたと解釈されることもありますし、浅すぎれば無礼と受け取られます」

 マーリスの説明に合わせ、紗世も帳面に簡単な図を写す。

 覚えきれるか不安はある。それでも、この場での所作が自分を守る盾になるとわかるからこそ、一本一本の線を丁寧に引いていく。

「それから、控えるべき場について。強硬派の武官が集まる酒席などには、こちらから近寄らぬほうが賢明です」

 マーリスは筆先で、ある一角を丸く囲んだ。

「あなたの存在が刺激になる可能性があります。王の炎を鎮めた人間として、好まぬ関心を向けられるでしょう」

「私は、それほど慎重に判断しなければいけないんですね」

 思わず口をついた本音に、自分でも驚いた。

 ただここで暮らしたいだけなのに、その存在が誰かを刺激してしまう。そう思うと、胸の奥で小さな棘が動く。

「はい」

 マーリスは否定せず、まっすぐに頷いた。

「ですが、要点を押さえれば大丈夫です。迷ったときはかならず私に相談してください。決してあなたひとりに判断を任せることはしません」

 その口調は、紗世の肩から少しだけ重さを取っていく。

 自分は丸腰でいるわけではないのだと知るだけで、呼吸が少し整った。

 礼の角度、言葉の順番、身を引くべき場。

 一つひとつの項目は面倒にも見えるが、それらはすべて、自分を守るために張られる見えない結界でもあった。この国で居場所をつくるための、ささやかな道しるべ。

 講義が一区切りつき、墨を含ませた筆を硯に戻した頃だった。

 扉が一定の調子で叩かれ、返事を待ってからゆっくりと開く。

「失礼します」

 顔を出したのは、文官のカリナだった。きちんと結い上げた髪に、端正な衣。胸には記録係を示す札が下がっている。

「紗世様、次は書類のご説明を。公式行事での立ち位置や、王族との距離も明記してあります」

「……立ち位置?」

 紗世が聞き返すと、カリナはこくりと頷き、両手で抱えていた書束を机の上に置いた。

「はい。場を誤ると、意図せず政治的な解釈を生むことがあります。私たち文官の役目は、紗世様が誤解されぬよう地盤を整えることです」

 淡々とした口調でありながら、その言葉には責任感が滲む。

 カリナは紙を一枚ずつ広げ、行事ごとの図を指し示していく。王が立つ位置、その隣に立つ者、半歩下がるべき者。その列のどこに紗世の名が記されているかを、一本の指で辿っていく。

「ここが、朱雀祭の開会式での立ち位置です。王の斜め後ろ三歩下がった位置。これは、殿下と距離を置きつつも、その影響下にあると示す配置です」

「これはとても分かりやすいわ」

 紗世は思わず身を乗り出した。

 図で示されると、頭の中に場の構図が浮かぶ。前の世界でも、会議や式典の座席表を作ったことがある。誰がどの席に座るかで、空気が変わるのを知っていた。

「元いた世界でも似たような書類を触っていたから」

 小さく笑うと、カリナの表情が和らぐ。

「それは心強いです。紗世様の理解の速さなら、すぐに慣れますね」

 褒められ慣れていない言葉に、頬の内側がむず痒くなる。

 それでも、仕事の話が通じる相手がこの場所にもいるのだと思うと、胸の奥がわずかに軽くなった。

 書類に印をつけ、講義室での学びを終えた頃には、窓の外の光が少し高くなっていた。

 紗世は帳面と筆をまとめ、深く一度息を吸う。頭の中は覚えるべきことだらけだが、不思議と嫌な疲れではなかった。役に立てるかもしれない道を、少しずつ渡されている気がしたからだ。

「本日の内容は、のちほどもう一度おさらいしていてください」

「はい。分かりました」

 そう約束を交わし、マーリスは講義室を後にした。

 紗世も立ち上がり、廊下へ出る。磨かれた石の床を踏むたび、足音が高く響いた。

 廊下の奥からは、別の種類の声が聞こえてくる。

 落ち着いた命令の調子。兵たちが返す短い返事。武の場に特有の緊張が空気に混じる。

 角を曲がる前に足を止めると、ラガンの低い声がはっきりと届いた。

「紗世殿の行動範囲に見張りを増やせ」

 紗世は戸口の影に身を寄せ、思わず耳を澄ます。

 廊下の先では、銀の鎧を着た警備兵たちが並び、ラガンが彼らの前に立っていた。

「過度な監視ではなく、保護の配置だ。あの方が王の炎を鎮めた以上、彼女は王の精神を安定させる要となる」

「しかし将軍、あの人間を全面的に信じるのは……」

 ひとりの兵が躊躇いがちに口を開く。

 それは紗世にとって耳の痛い現実だった。この国の人々にとって、自分は突然現れた異邦人にすぎない。

「信じているわけではない」

 ラガンは即座に切り返した。

 その声には迷いがない。

「だが、あの現象は無視できぬ。王のためにも、国のためにも、彼女の安全は保たねばならん」

 言い切る響きは、鋼のように揺らがない。

 そこには好悪の感情より先に、国を守る者としての判断があった。

「王が再び暴走したとき、あの者が傍らにいなかったとしたらどうなる。そうならぬよう、備えておく。それだけだ」

 兵たちは短く返事をし、新たな配置図を受け取って散っていく。

 その足音が遠ざかっていく間、ラガンはひとりその場に残り、腕を組んだまま何事かを考えていた。

 紗世は深呼吸をひとつしてから、あえてなにも聞かなかった素振りで廊下へ踏み出した。

 やがてラガンの背に気づいた兵が敬礼し、彼もまた紗世の存在に気づく。

「紗世殿」

 呼びかけられ、紗世は歩みを緩めた。

 周囲を見れば、いつもより護衛の数が増えている。廊下の両側に立つ兵が、以前より間隔を詰めて配置されていた。

「将軍、こんなに兵が……なにかありましたか?」

 問いかけには、不安だけでなく戸惑いも混じる。

 自分のために兵が増やされるなど、元の世界では想像すらしなかった。

「紗世様の身に危険が及ぶ可能性があるかもしれない。これはそれに備えているだけです」

 ラガンは紗世をまっすぐ見た。

 その瞳には憎しみも好意も浮かんでおらず、ただ状況を見据える武人としての冷静さがあった。

「王の炎を鎮める存在が傷つけば、この国は混乱する。……行動する際は、近衛を伴ってください」

 紗世は返事に迷った。

 守られることはありがたい。だけど、自分が原因で誰かの仕事が増えることに、罪悪感も湧く。

 そしてラガンの意図も、少しずつ見えてきていた。

 これは人間だから守ろうとしているのではない。王を守るための要石として、自分を扱っているのだ。

(私は本当にそのような役目を背負っているのだろうか)

 胸の奥で疑問が浮かぶ。

 ただこの世界で生きていきたいだけのはずが、気づけば国の安定に関わる存在として扱われている。

 即答できずにいる紗世を見て、ラガンはほんのわずかに顎を引いた。

「不服ですか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 紗世は思わずかぶりを振る。

 守ってもらえるのは、正直に言えば心強い。王の炎に飲まれかけたあの夜を思い返すと、自分ひとりの力では到底立っていられなかったとわかる。

「ただ、私なんかのために、皆さんの手を煩わせてしまうのが……」

「それが我らの仕事だ」

 短く返された言葉は、余計な感情を挟まない分、重みを持って響く。

「あなたが役目を果たせば、王も、民も救われる。その可能性がある以上、あなたを守るのは当然のこと」

 納得しろ、と命じる調子ではなかった。

 ただ事実として告げられた言葉が、紗世の胸に積もる。

「……分かりました。行動するときは、近衛と一緒に動きます」

 紗世がそう答えると、ラガンは小さく頷いた。

「そうしてください」

 会話はそこで終わり、ラガンは別の持ち場へ向かって歩き出した。

 その背中を見送りながら、紗世は廊下に立ち尽くす。

 マーリスの授業。カリナの書類。ラガンの指示。

 それぞれのやり方で、人々は紗世の周りに輪を描き始めている。

 敵意を遠ざける礼儀。誤解を防ぐ立ち位置。物理的な護衛。

 それらすべてが、いつの間にか紗世を中心に組み上がろうとしていた。

(周りの布陣が、変わっていく)

 まだ、自分が本当にこの国の力になれるのか分からない。

 それでも、自分を守るために動く人々の存在だけは、誰よりも強く感じていた。

 それは、ただ守られるだけの弱さを意味するものではない。

 いつかこの守りの形に見合うだけの役目を果たさなければならないという、新たな責任の輪郭でもあった。


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